- Real-time Real

2010/03/04/Thu.Real-time Real

引き続き頭が痛い T です。こんばんは。

研究日記

臨床試験のため、M 先生がラボの学生 6 名を連れて来京。ボス、S 科 K 助教、秘書女史、元隣の研究員嬢、ボスの長男君を交えて晩餐。S 科の教授には准教授の H 先生が決まったとの由。云々。

週末の学会は所属研究室が会長校となっているため少々の雑事がある。

3 本目の論文が PubMed から閲覧できるようになったため、恩師 K 先生他にメールで PDF を送付する。アドレスがわからず、Dr. A には連絡を見合わせる。御連絡を頂けると幸いです。

自分の論文を送り付けるのはいかがなものかと毎回思うのだが、逆の立場で考えてみると、知人から論文を送ってもらえればやはり嬉しいので、研究を続けられている方には成果を報告することにしている。

メールの中でも愚痴を零してしまったが、今後の身の振り方について頭を悩ましている。週明けも就職活動で出かけるのだが、果たしてこれで良いものか、今一つわからない。研究は続けたいが、突けば崩れるような生活基盤の上にヤジロベエのごとき研究環境を打ち立て、さらにその上層に成果を積み上げねばならぬという、昨今の若手研究者の現況はあまりにもヒド過ぎる。これは私憤ではなくて公憤のつもりだが、最近は公私の区別も定かではなくなってきた。私憤だとしたら怒っても仕方がない。で、就職活動をしている。

才なき者は去れ、という論法は理解できる。しかし今の状況は、才能ある人すら、それを十全に発揮できない感がある。この部分は公憤である。もったいないな、と思わずにはいられない例が多過ぎる。

漫画のリアリズム試論

画才があれば漫画を描いてみたいものだと思う。創ってみたいのはリアリズムを重視した漫画である。具体的な技法の案は幾つかあるが、わかりやすく代表的な例は以下の 3 つである。

描き文字

描き文字というのは、台詞やモノローグ (大抵は写植) 以外の「ドーン!」というやつである。これは擬音語と擬態語に別れる。爆発シーンの「ドーン!」は擬音語であり、人物が登場するときの「ドーン!」は擬態語である。「実際に音がした」という意味では、擬音語の描き文字にはまだ現実感がある。

擬態語の描き文字は——確信は持てないが——、映画やアニメの演出音からの、一種の逆輸入ではないかと推測される。この表現の初出については、かねてより知りたいと思っている。

興味深いことに、いわゆる劇画では擬態語の描き文字はほとんど見られない。擬音語は劇画にも登場する。むしろ劇画の方が本家である。黒々と描き殴られた「ドドドド」「バリバリ」という文字を見て、手塚治虫が首をひねったという逸話は有名である。

時間の表現

「時間の正確な表現」については、野球漫画を思い浮かべてみてほしい。投手の放った球が捕手に届くまでの僅かな時間に、チームメイトや打者が言葉を重ねて解説するというあの手法では、時間感覚が一時的に無視される。普通に考えれば、そのような短い間にあれだけの発言ができるわけがない。極めて漫画的な手法なのである。

興味深いことに、いわゆる劇画ではこのような時間感覚の無視はあまり見られない。

投げられた球を、コマを分割して細かく描写する、というだけの手法ならあり得る。これは映像におけるスローモーションと同じである。劇画でも見ることができる。

スローモーションのような表現手法とリアリティの関係はどうであろう。放送に喩えるなら、スローモーションが可能であるということは、それが一度「録画」された映像であることを意味する。漫画を、「生」ではなく、「録画」され「編集」された表現として理解することは可能だろうか。また、逆に、漫画の「生」的な表現とはどういうものだろうか。

一つの例として、『24』という映像作品を挙げることができる。

『24』は、複数の出来事がリアルタイムで進行し、全シーズンが 1 話 1 時間の全 24 話で完結する。

(24 -TWENTY FOUR- - Wikipedia)

黒々と太文字で大書されているこの特徴は、しかし筒井康隆『虚人たち』などによって、小説では既に達成されているものである。

それはひとつの例に過ぎませんが、こうした時間的省略のない小説というものが、過去になかった、というわけではありません。ジョイスの「ユリシーズ」は、作中人物の意識の流れを二十四時間、途切れ目なしに描写しています。サルトルの「自由への道」になってきますと、むしろ時間が現実以上に引き伸ばされているような感じを読者にあたえます。最近では井上ひさし氏がこれに近いことを「吉里吉里人」の中でやっています。私の場合、原稿用紙一枚が一分という計算で、時間の恒常性を表現しようとしました。したがってこの小説は四時間半ほどの出来ごとを省略なしに書いたといえます。主人公が気を失っている時間は、白紙になっているわけです。

(筒井康隆『着想の技術』「「虚人たち」について」)

上記のような、「時間の正確な表現」が漫画で可能だろうか。可能ならば、それはいかなる手法によって達成されるだろうか。

デフォルメ

リアリスティックな画風の漫画においても、ときに登場人物たちが低頭身にデフォルメされることがある。元の画風がリアルであればあるほど、そのギャップは大きくなり、効果としても顕著になる。

興味深いことに、いわゆる劇画ではこのようなデフォルメはほとんど見られない。これはむしろ、漫画が「写実ではなくデフォルメ」から始まったことに対する、アンチテーゼとしての劇画の特質であろう。デフォルメした瞬間、それは劇画ではなく漫画になってしまうのではないか。デフォルメの禁止は、いわば劇画のアイデンティティなのである。

リアルな……

俺が描いてみたい漫画の特徴として「描き文字の廃止」「時間の正確な表現」「デフォルメの廃止」を挙げ、それぞれについて簡単に論じた。また、これらの手法は、劇画において比較的よく達成されていることが確認できた。これは俺が全く予期していなかったことで、思わぬ収穫である。

さて、それでは、俺が描きたかったのは「よりリアリスティックな劇画」なのだろうか。この問いには否と答えたい。

一つには画風の問題がある。劇画を劇画たらしめているのは、上記の要素以上に、画風に負うところが大きい。画風を言葉で説明することは至難だが、少なくとも、上で論じた要素は画風と関係しない。鳥山明の画風で「描き文字の廃止」その他の条件を満たすことは充分可能である。

もう一つにはテーマの問題がある。劇画の画風と手法で「剣と魔法とドラゴンと恋の物語」を描くことは可能だと思うのだが、そのような作品は皆無である。実際には存在するのかもしれないが、少なくとも俺は読んだことがないし、絶対数として僅かであることは間違いない。

つまり、劇画を含む漫画全般において、テーマと画風と手法が密接に結合しているということがいえる。どのような芸術においてもそうなのかもしれないが、こと漫画においては、その点について非常に無自覚・無意識ではないのかという想いがある。

漫画における「リアルさ」は、主にテーマや画風と関係付けて論じられてきた。身近なテーマをリアリスティックな画風で描けば、それは「リアル」になるだろう。俺が試みたいのは、例えば、ファンタスティックなテーマを漫画的な画風で描き、しかしメタ・レベルの手法 (時間の正確な表現など) によってそれを「リアル」に感じさせることである。

(ここでいう「リアル」については「リアリティーと現実」で少し書いている)

俺が挙げた手法によって実際に「リアルな」表現となるかどうかは不明だが、漫画において、構造や枠組みによるリアリズムの追求はなされるべきだと想う。