- 俳優オタク

2009/12/25/Fri.俳優オタク

今年最後の実験結果がイマイチだった T です。こんばんは。

今週は体調が悪いのを騙し騙しやってきたが、とうとう鼻水が出てきたかと思ったと同時に、なし崩し的に色んな症状が出てきた。幸い仕事はやり終えることができたので、週末はひたすら寝る予定。

俳優と声優

俳優の名前が全く覚えられない。興味がないからである。どれくらい興味がないかというと、声優の名前と同じくらいに興味がない。

映画を観て俳優を云々するのと、アニメを観て声優を云々するのは、俺にとって全く同じ構造の話である。しかし、声優云々が「声優オタク」と侮蔑される一方、俳優云々は「俳優オタク」と指を差されることがない。これはおかしいのではないか。声優に興味のない人は、声優云々の話をウザいと思うだろう。同様に、俺にとって俳優云々の話はウザい以外の何物でもない。だが、そう考える人は少ないようである。誰とどんな映画の話をしても、大抵は俳優云々に終始する。

あくまで俺の印象だが、声優オタクの方々は、自分たちの着眼点が作品を斜めから見るものであることに自覚的であり、作品論と声優論を峻別することにも意識的である。逆に「俳優オタク」は、作品論と俳優論を混同して語るのみならず、そのことに気付きもしない。むしろ当然だとすら思っている。

違和感を覚えるのは俺だけだろうか。

実感とイデオロギー

山口県だかに原子力発電所を建設する計画があり、同時に、それに反対する署名運動も展開されているらしい。研究員嬢の知り合いだかがその運動に携わっており、彼女も手伝いをしているという。さすがに「署名をくれ」とは言わなかったが、そういう話があるという会話だった。俺は「その原発計画自体を知らないので何とも言えない」というようなコメントをした。

知らない事柄には賛成も反対もしかねる。署名はしなかった。

さて、仮に俺が「原発絶対反対論者」であれば、あらゆる原発計画について無条件に——たとえその存在を知らなくとも——反対することができる。それは「原発絶対反対論」という理論に依拠しているからである。このような演繹を可能にするところが理論の特徴であり強みだろう。

イデオロギーとは要するに理論である。そのような当然のことも再確認できた。先日の日記に「〜論的な発想が先行するわけでは決してない。理論は私の実感に便宜上の名前を付けるだけのものであって、それ以上のものではない」と書いた。逆に「〜論的な発想が先行する」状態をイデオロギッシュと呼ぶのだということが、今なら理解できる。

自らの実感にしっかりと立つことを、来年からの目標にしたい。