- 悲劇・孤独

2009/12/08/Tue.悲劇・孤独

ここ数年の自分の興味の在り方が具体的に理解できるようになった気がしつつある T です。こんばんは。

以下は、そのこととはとりあえず無関係である。

悲劇

創作物中の悲劇は、まさにそれが悲劇であることによって鑑賞者に感動を呼ぶ。一部の鑑賞者にとって、悲劇は称賛の対象であり羨望の的にさえなり得る。この傾向を現実にまで持ち込むと中二病になるのだが、それはともかく、それでは作中における悲劇とはいったい何であろうか。作中の悲劇が鑑賞者の感動に奉仕するのなら、現実レベルでは「悲劇はどこにもない」ということになる。果たしてこれは悲劇なのだろうか。また、作中の悲劇が鑑賞者の悲劇になるような悲劇は創り得るだろうか。そのような悲劇はどのような構造を有しているだろうか。あるいは、いかなるメディアによって成立するのだろうか。

孤独

孤独が人を絶望させるのは、その絶望が他者に届かないからである。そして、絶望が他者に届かない状況を孤独という。このようなトートロジーが孤独の性質である。孤独は伝達不可能であるから、私が孤独でない限り、私にとって、この世界に孤独は存在しないことになる。これは本当だろうか。伝達不可能な、この孤独という状況を表現する方法があるだろうか。

悲劇同様、作中の孤独は鑑賞者と共有されることによって現実には孤独ではなくなる。そも、作中の孤独は制作される時点において作者に観察されていると考えられる。敷衍すれば、孤独な人間を一方的に観察することで、彼の孤独はそのままに、我々は彼の孤独を現実に知覚することができるともいえる。一般に、作中の孤独は鑑賞者の共感を喚起するように描かれる。結果としてそれは孤独でなくなるわけだが、それでは、鑑賞者の共感を全く拒否することによって作中の孤独を孤独として成立せしめることは可能だろうか。鑑賞者に何の想いも起こさぬ孤独を描写する技法とはどのようなものだろうか。また、そのような孤独を創作する意味とは何だろうか。

蛇足

以上は主に小説を想定した簡単な考察である。悲劇、孤独の在り方については、わざと作中レベルと現実レベルを混同して書いている。というのも、私は基本的にテキストを記号だと思っているので、「作中の悲劇・孤独」といえども、それは鑑賞者の脳髄に発生していると考えるからである。つまり「作中レベル」というのは言葉の綾で、これは「実際に」「読者の頭の中で」起こっている「現実」であると解釈する。その作品が悲劇性を有するかどうかをテキストから機械的に判定することは不可能だろう。

自分の頭の中で展開された悲劇を、また別の自分が観賞し、結果として感動する。したがって、「なぜ感動するのか」という問いは、悲劇の断片と感動の断片を繋ぐ個人的な規則を探究する自己の分析である。「なぜこの小説は悲劇的なのか」という問いは、あるテキストを悲劇と判定する——これは、外界刺激に対する恣意的な反応に過ぎない——法則を追求することである。つまり、全ての評論は自己分析である。

悲劇も、悲劇による感動も、その悲劇がなぜ感動を呼ぶのかという分析も、全て一つの頭蓋の内側で繰り広げられる現象である。私の外部にあるテキストというモノに悲劇性などが宿っているわけではない。と、私の考えは唯我論的である。同じことを執拗に書いている内に、ようやくそういうことがわかってきた。