- 語りの厳密さ

2009/11/24/Tue.語りの厳密さ

澁澤龍彦を読むと三島由紀夫が読みたくなるが、結局いつも気分だけに終わっている T です。こんばんは。

語意の多寡は語りの厳密さに関係するだろうか。「ヒト」について語ることを考えよう。形態学的・解剖学的に、言葉を尽くしてその外容を描出するという方法がある。一方、極端な話、ATGC の僅々四字からなるゲノム配列を提出することでヒトを語り得ると考えることもできる。もちろん、他の語り口だって無数にあろう。

語るからには、そこには自ずと聞き手の存在が想定される。語り手と聞き手の意思疎通の度合いを「語りの厳密さ」とするなら、畢竟、それは聞き手依存でしかない。あるテキストの厳密さは、そのテキストのみから決定することはできない。

例外として、論理学 (数学) ではテキストの厳密さを云々することが考えられる。これは証明の概念と関係する。「テキストが厳密である」ことは「証明可能である」ことだと思われる。論理学的に「証明可能である」とは、トートロジーであることと同義である。これは、つまり、何も語ってはいないことに等しい。他者のいない自己言及の環の中には意味も生じない。

自然科学でいうところの「証明」は、厳密な意味での証明ではない。我々は、ある事象とある結論が因果関係にあることが確からしいと示し、そのことを語っているに過ぎない。論理的に語られてはいるが、そこで用いられているのは、論理学でいうところの機械的な論理そのものではない。証拠は客観的ではあるが、客観そのものではない。

物理学の書物を繙けば、必ず観測問題についての記述がある。その教えるところは「客観という行為は存在しない」である。三段論法を使うと以下のごとくになる。「客観"的"は客観ではない」「客観は存在しない」「したがって全ては主観である」。これでは独我論である。

テキストの厳密さを客観的に決定できないとするなら、批評とは、「私にはそのテキストがそう読めた」という表明でしかない。つまり感想文である。しかつめらしく書いたり、ありがたがって読むような代物ではない。

全てのテキストが無意味か主観であるなら、いずれにおいても、意味は、私によって読み取られ、私の内で発生する。だから、「読む」とは、ある意味では創造的な行為なのだ。

言い換えれば、任意のテキストから任意の意味を読み取ることができる。

そりゃねえだろ! という直感的な想いが、文章を練る動機となる。