- 中二病覚書

2009/07/23/Thu.中二病覚書

二つ名が「狂乱物語 (アナザーレクイエム)」であるらしい T です。こんばんは。

二つ名は「二つ名メーカー」で生成した。

数日来気分が優れないので筒井康隆の本を読んでいる。いつ読んでも面白さが保証されている本が手元にあるのは心強い。「手元にある」というのは単に所有しているという意味ではなく、自分で吟味し発見し評価し咀嚼し血肉にしているという意味である。手元ではなく「心内に」といった方が良いかもしれぬ。無論それが本でなくとも構わない。

筒井康隆『虚構船団』の第一章には虚構性の象徴として文房具が登場する。彼らの活躍を読みながら、「文具など最近とんと使わぬなあ」ということにフト気付いた。文字を書く、図形を描くといった作業を全てコンピュータで行うようになって久しい。「文房具を、個々の万年筆であるとか虫ピンであるとかを記号として見られないのか、ということが、まず不思議なことなんです」「まして文房具、つまり万年筆であり、ノートであり、原稿用紙であり、三角定規であり、普段机の上にあるものなんだから、それに対して感情移入できるのは、ぼくとしては、当然であると思っているわけです」(筒井康隆『虚構船団の逆襲』「メディアと感情移入」) といった感覚は既に失われている。『虚構船団』といえど時代の作品だったのだ。今回の発見である。

以下は別の話である。中二病の源泉は男子的感覚に求められ、それは例えばテクノロジーやメカニズムに対する憧憬であり、正統や異端に抱く愛憎であり、巨大な事物に対する畏怖、輝ける栄光と破滅の美学、性的欲求の渇望と抑制、未来に対する期待と絶望、力への志向、世界の秘密、ダンディズム、ロマンチシズム、センチメンタリズムなど、雑多で時に相反する「カッコ良さ」の希求である。

これらをテーマ毎に分類分析することも可能だろうが、その瞬間に「それは違う」ということにもなるだろう。野暮なことである。ただ一つ指摘するなら、男子的嗜好の多くは神話を構成する要素と重複するように思える。

帝国。これほど男子を高揚させる国はない。帝国は巨大であり皇帝は強大である。その中央集権的な性格から、広大な帝国を統治するシステムは精緻で体系的である。帝国の人間はこの系を「攻略」することで帝国内部での地位を上昇させることができる。帝国は人生がゲームでもあるということを少年に教えているのだ。

帝国には正義があり大義がある。それは必ずしも善ではない (と描写される) がいずれ相対的なものだから少年が善悪をどう受け取るかはわからない。皇帝は

たった今思い付いたので中二帝国の描写はもう止めるが、本邦の国譲神話における高天原はどう見ても帝国である。神々の御座す場所なので「社会」などの複雑なエレメントこそ有しないが、高天原の性格は紛れもなく「帝国」である。これは案外面白いかもしれぬ。

そもそもの話をすると——、中二病に関する言説は色々とあるが、その多くは患者に好まれる要素を列挙しているだけであり、俺にはそれが不満だった。中二病およびその源泉である男子的嗜好をもう少し体系的に語れないかということを以前より考えていた。実際にやってみると非常に難しいのだが……、そんなときに以下の文章を再読したのである。

独特の歴史認識とか史観とかいった大層なものがなくとも、人はすべて自分なりの世界史を書くことができるのではないかと、そう思う。「誰でも」というのが乱暴なら、少くとも作家なら誰でも、と、そう思う。作家であれば、彼が学校で学んだ程度の世界史を漫然と思い出しつつ書いていくだけで相当に面白いものができるのである、と、そう断言してもいいくらいだ。というのは、そこにはその作家が、教科書に限らず人から聞いた話、読書で得た知識などのうち、彼が衝撃を受けたり強く印象に残っていたりする世界史的事実の断片が否応なしに加えられて行くであろうからだ。そこには彼の自我によって取捨選択された歴史的事実が年代順に列記されることになる。(中略) したがって彼が世界史を書けば、どうしようもない虚構構築能力によって彼の主観の側面から世界史を虚構化することになり、おそらくは本人にさえ予想できなかったような面白い作品が生まれるのではないだろうか。

(筒井康隆『虚構船団の逆襲』「プライベート世界史」)

それなら中二病の世界史というのもあり得るだろう。そんなことを思った。引用文の「作家」を「中二病患者」と置換しても不自然はない。ちょっとやってみるか、と思った (のだと思う)。定かではないが、歴史 → 国 → 中二国家といえば帝国と共和国、のような連想だったのだろう。それで帝国について少し書いてみた。「神話」というキーワードも筒井の文章から来たに違いない。

脱線ついでに書くが、中二病の構造では「属性」が重要な位置を占めるように思う。例えば「帝国 = 体制 = 現実」「共和国 = 反体制 = 理想」という具合である。各要素には複数の属性が付加され、その組み合わせは比較的自由にして多重である。そこで、中二病的物語におけるストーリーとは、作品世界に置かれた属性をパン屑のように辿った軌跡ではないか、という一つの仮説が立つ。これは「設定が決まれば半自動的にストーリーが生成される」すなわち「設定が命」という、あまり程度の高くない中二病作品の様相と合致する。この仮説の前提として、「属性の繋ぎ方には一定の傾向が存在する」という予測がある。我々は、要素に貼られた属性にではなく、属性と属性の結びつけられ方、その傾向に「中二病」を感じるのではないか。

典型例が「二つ名」である。二つ名は通常、2 個の単語によって形成される。ここに第一の「繋がり」がある。また二つ名には大抵、本来の読みから逸脱したルビが振られる。ここに「文字」と「読み」という、第二の繋がりが出現する。そして、二つ名とそれを名乗る実体との繋がりがある。これが第三である。このような繋がりの網目が中二病を形成する。単に読み解く (消費する) だけなら困難はないが、そこに何らかの構造やルールを見出す (= 体系的に中二病を語る) となるとハードルが高くなる。

まとまりのない日記になってしまった。ともかく、中二病についてあれこれと考えているのである。