- 世界を縮める

2009/01/07/Wed.世界を縮める

ウンコ話が大好きな T です。こんばんは。

研究日記

夕方は大学でセミナー。

大学からの帰路の途上にカレー屋がある。大学に行った日にはよく寄っている。残念なことに、ここのカレーを食べると必ず腹が痛くなる。今日も「腹痛が来るのだろうなあ」と思いながら平らげた。案の定、帰宅後に腹が痛み出す。折悪しくトイレット・ペーパーが切れていたので、ウンコを我慢している。

ヒトにとっての搾りカスであるウンコに蝿が集 (たか) り蛆が湧く。環境とは、エネルギーとは何ぞや。クソバエの感覚を我々が具体的に想像することは難しい (バカにせず、騙されたと思って真剣に妄想してみたまえ)。人間の空想が届く範囲は広いようでいて、思ったよりもずっと狭い。人間がその肉体感覚から遊離することはほとんど不可能である。

世界で起きる微小な (巨視的な) 現象を、我々の感覚で把握できるように引っぱり上げる (引きずり下ろす) 行為を科学では「観測」という。いい加減なものだ。

音楽は可聴域で奏でられ、映像は可視光で投じられる。芸術の何が自由なものか。よくよく見れば、「芸」も「術」も、どちらかといえば「技」の概念に含まれる字である。以前から「芸術はテクニックで作り得る」などと書いてきたが、「芸術」という字意には今日まで気付かなかった。この訳語を創ったのは誰だろう。

閑話休題。例えば赤外線を探知する装置というものがある。不可視光である赤外線を可視光に変換する機械である。これで「世界が拡がった」というのはいささか語弊がある。「(人間が感じることのできる) 世界が拡がった」のではなく、「(人間が感じられる形に) 世界が縮まった」のである。

我々は世界を圧縮してきた。様々な法則は圧縮コードのようなものである。コードに従って圧縮すると解凍も可能になる。これを「理解」という。法則の発見は圧縮率を改善するから、我々は昔の人に比べて、質的には同程度の脳髄にも関わらず、色々なことを知っている。