2008/07/22/Tue.元号表現
ラオウが好きな T です。こんばんは。
Web 日記
いつまで経っても Twitter の調子が安定しないので、トップ・ページに掲げるのをしばらく見合わせることにした。せっかく書いたものが度々消え去るなど、ちょっと使用に耐えないというか。
元号表現
現在も正式に元号を使用している国は日本だけであり、したがって「昭和の大スター」のような表現を、そのニュアンスとともに翻訳するのは極めて困難である。「昭和」を直訳しようとすると「テンノー・ヒロヒトの在位期間」となるわけだが、これでは何だかローマの記録 (「ウンタラスとナンタラスが執政官であった年」) のようでもある。
特に「昭和」には戦前と戦後の区別があり、また昭和帝の強烈な歴史的個性と、それに対する畏敬あるいは反発といった複雑な思想的事情が絡み合い、何とも言えない微妙な国民的コンセンサスと同時に、細分化すればどこまでも細かくなる亜流の系譜が存在する。一口に「昭和の大スター」といっても、その意味するところは文脈を読まねば正確に理解できないのだ。
極めて便利であるとともに難儀でもある元号表現は、我々の日常的な歴史観にも知らない内に影響を与えている。元号表現を全く廃して時代の流れを記述することの困難を考えてみれば良い。この問題は近代天皇制と細い糸でつながっているが、普段の我々がそれを意識することは少ない。そこがまたミソというか。
天皇問題を論じるには、上記の元号に代表される単語を注意深く排除するなり定義しなければならないはずだが、それらが無意識にまで食い込んでいるケースがあまりにも多く、考えの至らぬことが多々ある。あるいは、考え出した途端に全く思考が進まなくなる。そんなときに、ふと歴史の重みのようなものを実感する。分厚い。
別に歴史に限ったことではない。いつも何気なく使っている言葉こそ、慎重に吟味すべきなんじゃないか。
漫画日記
『北斗の拳』を再読して。
- ケンシロウが「無口の主人公」である限り、ラオウはおしゃべりにならざるを得ないという悲劇。
- 漫画キャラクターとしてのラオウを考えるとき、彼はやっぱり無口の人間であるべきだよなあ。
- ラオウのおしゃべりの原因には時代の限界も感じるが、まだ上手く言語化できていない。
- どうにも説明口調なんだよな。
- 特に第一部後半では、格闘漫画に必須の「解説役」がいないのも大きい。
- いわゆる第二部でカイオウを強く描けば描くほど、偉大さがいや増すラオウという構造。
- マガジンで『花形』を連載しているのだから、ジャンプは『ラオウ』を掲載するべき。
- 特に幼年編。ラオウ/カイオウ、ケンシロウ/ヒョウはそれぞれ一体化してストーリーを練り直せば宿命度アップか。
- その場合、トキをどうするかだな。これが難しい。ジャギは消されるだろうなあ。
- まァ、今のジャンプで連載しても、クソつまらない格闘漫画になりそうだがな!
- ユリアに対して「だれを愛そうがどんなに汚れようがかまわぬ 最後にこのラオウの横におればよい!!」という台詞にラオウという人物の造詣を感じる。
- 普通なら「ケンシロウを愛するくらいならいらぬわ 死ねい!」と喋らせたくなる。
- 一方で「このラオウの想い届かねばユリアにも死あるのみ!!」とも言っている。
- 「おれはいまだ愛というものを知らぬ」らしいが、じゃあラオウの「想い」って何?
- もちろんそれは愛なのだが、ラオウの中でそれがどう整合されていたのか。
- むしろ整合されていなかったからこそケンシロウとの闘いに破れたという解釈。
- ケンシロウが対戦中の相手に愛を説くのって、ほとんど野村監督の「囁き戦術」だよな。
- 腹黒ケンシロウに純朴ラオウが破れるという図式。
- 雑魚の殺し方を見ても、ケンシロウが一番黒いことは明白だが……。
- 聖帝十字陵のデカさは異常。
- 何でケンシロウ vs ハン戦はあんなにプロレスっぽいのだろう。