- 「筆を選ばないのは何故?」「宗教的な理由で」

2008/06/20/Fri.「筆を選ばないのは何故?」「宗教的な理由で」

またもや下らぬことを考えている T です。こんばんは。

「弘法筆を選ばず」という諺は、もっぱら「書の名人としての空海」という側面からのみ解釈される。しかし果たして、「仏教者としての空海」という側面は、本当に「筆の選択」とは無関係なのだろうか。例えば、嵯峨天皇や橘逸勢は筆を選んだのか選ばなかったのか?

そもそも、「弘法筆を選ばず」は結果論なのか因果論なのか。これがよくわからない。名人だから筆を選ばないのか、筆を選ばないという精神が弘法をして書の名人たらしめたのか。もし後者であるならば、その精神の源流として仏教を仮定することは無理ではないし、「逸勢筆を選ばず」ではないことの説明にもなる (単純に、弘法大師が一番有名だから、というのが実際の理由なんだろうけれど)。

「弘法筆を選ばず」という諺には、恐らく大した意味はない。「弘法にも筆の誤り」ともいうのだから、いい加減なものだ。諺のダブル・スタンダード具合が異常なのは、しょせん技巧的な遊びに過ぎないからである。方便として使うには良いが、真面目な話に援用するとその矛盾が仇になる。

ところで、「ことわざ」は、やはり「言技」を意味しているのだろうか。なんてことを考えたり。

念のために書いておくが、上記は妄想実験であって、空海なり嵯峨天皇なりが「現実に」筆を選んだとか選ばなかったとかは全く関係がないし、どうでも良い。「弘法筆を選ばず」という言葉に宗教的な思想が含まれているのかどうか。それが問題 (というか、今日のゲームの焦点) である。無論、結論もどうだって良い。