- どうだ明るくなつたろう

2008/06/03/Tue.どうだ明るくなつたろう

下のような日記を書きながら、基本的に刹那的なるものは否定している T です。こんばんは。

だからこそ憧れるというか。

「漢」という字を「おとこ」と読み出したのは誰なんだろう。比較的最近のことだとは思うが。「漢代 (おとこだい)」「漢文学 (おとこぶんがく)」「漢民族 (おとこみんぞく)」などと脳内変換していたら楽しくなってきた。

成金「どうだ明るくなつたろう」

ドブに捨てるような金の使い方をすると刹那的な楽しさを享受できる。そのような刹那的な楽しみはしょせん下らないものだ、という意見もあるが、この指摘はやや論点がズレている。刹那的な楽しみの本質はその「刹那性」に存するのであって、楽しみの中身はあまり関係がない。これは俺の想像だが、達観すれば、比喩ではなく文字通り純粋に「ドブに金を捨てる」だけでも愉悦を感受できるのではないか。しかし残念ながら俺はそこまで金持ちではないのでオマケを求めてしまう。

「どうだ明るくなつたろう」と言って、暗がりで靴を探す女中のために百円紙幣を燃やす成金の戯画がある。この絵は通常、成金の愚かさを嗤うものとして解釈されるが、本当にそうなんだろうか。成金の世にも幸せそうな顔を見よ。少なくとも彼はこの刹那、無常の楽しみを味わっていたに違いない。ちょっとした想像力があればわかることだ。他人の幸せを嘲笑う行為は普通、嫉妬と呼ばれる。それこそ「貧すれば鈍す」だと思うのだが。貧 → 鈍の過程を阻害できるのは想像力だけだ。清貧などというダブルスタンダードな言葉まであるくらいだから、「貧すれば鈍す」は必ずしも真ではない。

成金の行為は、今 (あるいは当時) の感覚からすれば野暮だろう。しかし刹那に快を見出すのは粋の精神でもある。札束を見せびらかすだけなら完全に野暮だが、燃やすという行動に粋としての最期の可能性がある。この頃はまだそのような美学が息づいていたのだなあ、ということがわかる良い資料である。美学とはつまるところ流行であるから、現在の価値観でその美醜を量るのはいささか卑怯である。平安美人を指して「オタフク顔の不細工」と罵るようなものだ。何の意味もない。

運動日記

スポーツ・ジム 13回目。