- 拠って立つ所

2008/02/12/Tue.拠って立つ所

テキスト至上主義、というわけではない T です。こんばんは。

最近の日記を読み返して、やたらと「僕達の年代は〜」という文句が多いことに気が付いた。もう世代論なんて成立しないことはよくわかっているのだが、同時に、やはり同年代の間で培われた共通認識や共通体験や共通言語は少なからず存在するはずで、それらにコミュニケーションや表現の糸口を期待するくらいは良いんじゃないか——、という楽観もまたある。ひょっとしたら僕達は世代論が成立する最後の世代なのかもしれない、というメタ世代論はさておき。

「学校に遅刻しそうだったのでパンをくわえたまま夢中で走っていたら曲がり角で女の子と激突してしまうというスッタモンダがあったんだけど何とか間に合った朝のホームルームで紹介された転校生は先程ぶつかったばかりのあの娘だった!」という表現があるとする。運命的な出会いだなあ、という原始的な感想が第1段階。このシチュエーションはオイシイということで頻用されるのが第2段階。その結果として陳腐になるのが第3段階。ありきたりを通り越して記号的になるのが第4段階。「これは記号的な表現である」という新たな意味が付け加えられるのが第5段階。その文脈がギャグに転化するのが第6段階。笑えなくなるのが第7段階。逆に今それが新しい、となるのが第8段階。——という具合に、表現の解釈はいくらでも変化していき、さながら螺旋階段を昇るようにどこかへと飛んで行く。

ある表現がどのように受け止められるのかは、観賞する者によって違ってくる。また観賞者は、作者がどのフェイズで解釈されることを意図したのかを知る術はない。同時に作者は、こういう具合に解釈してくれと指定することもできない。だから「そういう表現があった」とは書けるが、それ以上のことを述べようとすると途端にややこしくなる。そこに希望があるともいえるし、それこそ絶望的であるともいえる。

顕微鏡は解像度を上げると視野が狭くなる。個人で語ったり、年代で切ったり、日本人を前提としたり、人間として考えたりするのは、対物レンズのリボルバーをクルクルと回すようなものだ。

以下は上記と全く関係ない話。最近見かけた面白い視点を 2つ。

新聞社あるいは新聞記者は、「学生は新聞を読め読め」というが、そのくせ新聞の定期購読に学割が存在しない。という主張を読んで、確かにそうだなあと妙に感心した。学術雑誌には大抵学割が存在する。Nature の学割購読は、新聞よりも安かった記憶がある。日本の新聞に Nature ほどの価値があるかどうか。極めて疑問。

守護霊が強い人は霊的防御力が高いので邪悪な霊を眼にすることもない。逆に守護霊が弱い人は見えてしまう。つまり「霊感が強い」人というのは、守護霊が弱く霊的能力に劣った人間のことである。霊的弱者。だからすぐに憑依されたりする。というロジック。