- Between Inside and Outside

2008/02/03/Sun.Between Inside and Outside

週末で昼夜が逆転してしまった T です。こんばんは。

日本の漫画、アニメ、ゲームの主人公達は皆なぜ若いのか。謎といえば謎である。

この問いに対して、「敗戦により、日本人の中に『大人は間違えていた』という拭い難いトラウマが生じた。したがって、世界を救う勇者は大人であってはいけなかった」という評を見た記憶がある。なるほどなあ、と感心したものだが、原典が何であったかは忘れてしまった。

全ての創作者が「大人は間違えていた」と思ったかどうかはわからない。ただ、少なくとも手塚治虫はそうだった。彼の作品が熱狂的に歓迎され、以後の日本の全ての漫画、アニメ、ゲームの祖となったことによって、「主人公は少年少女が好まれる」という下地ができたことは否めない。極端な話、他の製作者がオッサンを主人公にしたくても、それでは商業的に難しいために断念せざるを得ない、という場面もあったかと思われる。

さすがに現在では、そこまでではない。それでもやはり、海外のコンテンツに比べ、日本の物語の主人公は若い。

旧来の漫画やアニメで育った私達の年代は、今度はコンテンツの送り手として社会に現れつつある。僕達は、1980年代という日本が最も豊かだったときに、漫画やアニメに囲まれて育った夢多き世代だ。その一方で、そろそろ社会に直面しなければならないときにバブルが弾け、色々と厳しい想いをした (している) 世代でもある。だから、僕達の世代の才能が、「やっぱり大人は間違えていた」と考える可能性は充分にある。このあたりは、具体的な作例を分析した詳細な評論を誰かに書いてほしいものだ。

岡田斗司夫なんかに代表される古い時代の「幸せなオタク」と、僕達の世代に見られる引き篭もりがち、あるいは逆に開き直ったようなヲタクの違いは、その生い立ちの時代性によるものか。なんてことを、オタクになり損ねた僕は思うわけだ。

あと、欧米の (日本とは異なったベクトルの) リアル指向が、日本の (良くも悪くも) 漫画的な表現より「高級である」という議論。これも「手塚治虫の呪い」ですね。昔、探偵小説界に存在した「松本清張の呪縛」と構造は同じじゃねえか。建設的な議論は必要だが、そこに優劣を付ける必然性は、少なくとも娯楽に関してはない。

話は逸れるが、手塚治虫の系譜を否定する奴に限って、ディズニーを「大人の観賞にも耐える」と絶賛するが、アレは何なのだろう。適当なんだろうか。

その一方で、現在の作品の中に時代性 (同時代性という水平方向、その歴史的系譜という垂直方向) を読むこと自体が、もう無効なんだろうかという気もする。しかし、教養あるいは学問としてのオタクの神髄は、ほとんどこの部分にあるといっても良い。もしも作品の内から外を読み解く作業を放棄すれば、そこに存在するのは「各作品のディープなファン」でしかない。別にそれでも良いんだけど。

僕はコンテンツ産業とは全く異なるフィールドに立っている。けれども例えば、研究という行為を創造と捉えることはできるし、この日記を表現と解釈することもできる。短い期間、狭い範囲であれ、僕の中から何かが世界に残るのだとすれば、こういうことを考えるのもあながち無駄ではないかなあ、と思っている。