- Diary 2008/02

2008/02/29/Fri.

散髪に行きたかった T です。こんばんは。

いつも思うのだが、サービスとして頭髪を切断する店の名称がどうして「床屋」なのか。床を売っているわけではないだろ。あるいは「床屋」という文字は、読もうと思えば、非常にエロティックな肉体労働について金銭を授受する場所のようにも読めるのだが、そんなことを考えるのは俺だけか。

不思議な言葉である。

ゲーム日記

"LOST PLANET EXTREME CONDITION" を買うか買うまいかで迷っているのは、主人公役をイ・ビョンホンが演じているから。私は特に嫌韓というわけではないが、自分の分身として韓国キャラを操作するのは果たして楽しいのだろうか、という素朴な疑問はある。

3D キャラクターのモデルとして実在の人間を起用するのは一昔前に流行した。"LOST PLANET" と同じくカプコンが制作した『鬼武者』シリーズでは、明智左馬介を金城武、柳生十兵衛を松田優作、ジャック・ブランをジャン・レノが演じて大変好評だった。特に松田優作の格好良さは素晴らしい。「うっせえ、この筋肉野郎」は名台詞。

万人に好かれる役者はいないから、誰を起用するかは難しいところだと思うけど (その意味で故人である松田優作という選択は良かった)、2008年になってイ・ビョンホンというセンスはいかがなものか。攻めているのか守っているのかすらわからないという微妙さ。北米や欧州で人気があるのかな。んなわけないよなあ。

アクションなら、もうスティーヴン・セガールで良いだろ。無敵だし。本人も親日だから、きっと日本のゲームに協力してくれると思うよ。

Web 日記

今までフラフラと色んなサービスを試してきたが、思い付きや独り言のメモは Twitter に、Web ページのクリッピングははてなブックマークに集約することに決めた。今日は shuraba.com 内から Twitter とはてなブックマークの内容を取得する仕組みを作った。

サービスを試している過程で、あるいは今日プログラムを組んでいて気付いたことをメモしておく。

Twitter について。

はてなブックマークについて。

2008/02/28/Thu.

明日は休む予定の T です。こんばんは。

ゲーム日記

最近はなかなか時間が取れなかったのだけど、それでも断続的に『ディスガイア PORTABLE』は続けている。ストーリーを進行させず、チマチマと武器を鍛えたり。時間をかければかけただけ確実に数字が上昇するゲームは、私のようなパラメータ愛好家を喜ばせる。

もちろん『ディスガイア』にはコンプリート・マニア的な要素もあるのだが、アイテムの入手には運の要素が絡んでくるシステムなので、あまり好きになれずにいる。運が関係してくるゲームについて、私はやや否定的だ。好き嫌いが別れるところだとは思うが。

運の要素は薄らぐが、時間さえかければ良いわけでもない、というのがアクション・ゲームである。恃むは己の技量のみだから、これはこれで修道的なマゾさがある。パラメータはいつまでも下がらずに現状を保持できるが、アクションの腕は時間の経過とともに落ちていく。普段の、そして不断の修練が必要だ。

PSP が『ディスガイア PORTABLE』に占領されていることもあって、この 1ヶ月は MHP2 を起動していない。続編の MHP2G は発売日が近付き、情報もチラホラと公開され始めてきた。そろそろ MH の勘も取り戻さないとなあ、と思う一方で、劣化した腕で MHP2G に挑むのも新鮮かもしれない、というふうにも思う。MH は「こんなの無理……」→「楽勝!」という内面の変化を楽しむゲームなので、適度に鈍っていた方が、新要素を面白く感じられるだろう。私の MH 熱は高まってきているが、ここは我慢か。

MHP2G の発売日の翌日から学会ってのがなあ……。萎える。発売日が延期になったときに勘違いしたので、余計に。

2008/02/27/Wed.

サイトの 6周年記念に、またオフ会でもやろうかと考えている T です。こんばんは。

約2ヶ月も先の話ではあるが。でも、すぐにそれくらい経っちゃうんだよなあ。

今日のタイトルは VAN HALEN のナンバーから。

研究日記

ボスがまた 懲りずに 精力的に研究費の申請書を用意している。私も拝見させてもらったが、思わず「ムムムこれは……」と唸らざるを得ない力作であった。かなり気合いが入っている。先日の申請には間に合わなかった私の論文も、今度の申請書には業績として記載されている。少しでも役に立てば良いが……、と願わずにはいられない。

何というか、必死だよなあ。だがそれが良い。

今日のニコニコ動画

今日も BUBBLE-B。「チャイナー」が可愛くて良いな。「タァーンタァーンメェーン!」も恰好良い。

「バーミヤンっグ!」は次の動画にも出てくる。好きなんだろうか。俺も学生の頃は随分と世話になったものだ。懐かしい。

本当は「ザンシロー」が一番面白いんだけど、いつの間にか消えているんだよなあ。

2008/02/26/Tue.

今週は休みたいと思っている T です。こんばんは。

平日の休みをいつも金曜日にしているのは、その日はボスが外来で終日不在だから。

弁当と盆栽

「弁当」に相当する英語 (の概念) はない、という話はよく聞く。もちろん日本以外にも、take-out を目的とした食品の形態は存在するが、これらと弁当を隔てているものは何だろう。

弁当には、「食卓での食事を、できるだけそのままの形で外出先においても展開する」という精神がある。幕の内はその典型である。御飯があり、バランスの良いおかずがある。(汁物を除いた) 日本食的な「フルコース」を提供しようという指向性がある (弁当に、執拗なまでに漬物が添付される事実は一考に値する)。

弁当は食卓という宇宙の封じ込めであり、駅弁に見られるように、その精神は「作品」とでも呼ぶべきステージへと昇華される。これは盆栽と同じだなあ。弁当は、食事としてではなく、盆栽の流れを含む日本的箱庭創作物の一種として捉えるべきである。

——ということを、昨日、東京へと走る新幹線の中で駅弁を食べながら考えた。

研究日記

「高カロリーの食事を摂ると体重が増えて太る」というのは、考えてみればよくわからない話である。カロリーは熱量の単位であり、体重は質量の問題であり、太った否かは体積の話である。細かくいうと、体重は質量ではなく重量であるし、「太い」という概念は立体ばかりではなく平面に対しても使う (余談になるが、「太い線」というのは不思議な表現である)。

さて、試みに「太い」を定義してみよう。意外に難しい。最初に思い付くのは、「長軸に対する短軸の比が大きい状態」である。2次元ならばこれで良いかもしれない。しかし 3次元に適用するには、鉛直方向を Z 軸と決めた上で、「ZX 平面あるいは ZY 平面上に存在する長軸に対して、XY 平面上の断面積の比が大きい状態」としなければならないだろう。何故かというと、「XY 平面上の断面積に対して、ZX 平面あるいは ZY 平面上に存在する短軸の比が大きい状態」には「厚い」という別の概念が存在するからだ。

こういう言葉の手続き (定義・定式化) の後に、具体的な数値を観測的に求めることを定量化という。そして、定量化するために実験をする (ことが多い。それだけではないけれど)。

——無論、いつもこんなことを考えながら実験しているわけではない。

今日のニコニコ動画

相変わらず面白いな。

2008/02/25/Mon.

文部科学省の英語名は長過ぎる、といつも思う T です。こんばんは。

間が抜けている。あと、"MEXT" と略すのはやはり無理があると思う。

研究日記

ボスのお伴で、研究費申請に関するヒアリングのために文部科学省へ行ってきた。研究内容についてはまずまず好意的な感じだったが、研究体制や研究を進める方向については辛辣なコメントが浴びせられた。申請が通りそうな雰囲気では全くなかった。「申請カテゴリーの選択を間違えたかなあ」とボスは悔やんでいた。私もそう思った。結果論ではあるが。

今回の失敗は次回の申請に生きるだろう。その点、科研費の申請は就職活動と似ている。

「ま、今日は文部科学省を見学しに来たということで」などと笑いながら、東京駅でボスと夕食を摂った。ボスを含む医者にとって、「役所」といえば厚生労働省のことであり、文科省にゴチャゴチャ言われたところで「何を言うておるか」という感じが強いようだ。確かに厚生科研と文部科研では、その運用や目的にニュアンスの違いがある。とはいえ、医者ではない私が世話になるとすれば文部科研しかないのであり、そういう意味で、今回の文科省への遠足には色々と学ぶべきところがあったように思う。

食事中、ボスに電話がかかってきた。私も共著者となっている論文 (accepted) が、ようやく publish に至ったらしい。Journal には、我々の論文と、ほとんど同じ結果を報告した別のグループの論文が並んで掲載されるという。よくある話ではあるが、実際に身近で起きると恐ろしい。我々の論文の内容は 1年前に国際学会で発表済であり、恐らくその時にアイデアをパクられたものと思われる。証拠もなく「パクリ」と誹謗するのは良くないが、問題のグループは、これまでにこのテーマで論文を発表したことがない。また、我々の誰一人として、問題のグループの名前を知らなかった。あり得ない状況であり、十中八九「パクリ」と断定して良いだろう。

このグループが、これからどう動いていくのか。しばらく注意する必要がある。今のところ、priority は我々にある。問題のグループの結果によって、我々の主張がさらに補強された——とまァ、これくらい強気の宣伝が、今後必要になってくるだろう。

「これでセンセイ (= 私のこと) の論文は何本や?」とボスに問われた。今のラボでの成果としては、first author が 1本、coauthor が 2本。全て今年度のものである。就職してからの結果が形となるのに、2〜3年かかったことになる。そもそも、実験結果が出てから論文になるまでに、1年ほどのラグがある。業績を評価するときに注意するべき点であり、評価される側が考慮してほしい部分でもある。研究をしている人は、一番苦しいときに形となるものがないから、他者からの理解が得られにくいのだ……が、愚痴は止めておこう。

その他に、in revision の coauthor が 1本。Manuscript を書いている段階のもので coauthor が 3本。特に大学院の K先生の論文では second author にして頂いているので、私も惜しまず協力している。良い論文になってほしい。

「それで 7本か」とボス。全部 accept されたら、だが。「今日みたいに研究費を申請しようとすれば、小額でも 10本は要るぞ」。

——道は遠い。

2008/02/24/Sun.

理系やオタクに対する攻撃的質問には欺瞞があると思う T です。こんばんは。

「ゲームをやり込んでどうなるの?」「その研究に意味はあるの?」「週末も働いて何がどうなるの?」。別に答える必要はないが、下のように問い返してやりたくなることはある。

「君は何ができるの?」

研究日記

送り直した proof にまだミスが残っていたようで、再度修正して送信する。何度も担当者の手を煩わせて申し訳ない、とは思っているのだが、その気持ちを英語で上手く表現できずに呵責の念だけが積もる。英語でメール (手紙) を書くのは難しい。論文より難しいんじゃないか。ちょっと勉強しよう。

朝イチでメールを送信したが、時差があるので、よく考えれば無意味であった。っていうか、そもそも週末だし。と今になって気付いた。

午前中に実験。午後からボスと、明日のヒアリングについての打ち合わせ。雪が降っているので早めに帰宅。

2008/02/23/Sat.

今週は何かと慌ただしかった T です。こんばんは。

研究日記

2月 18日 (月)。夜のセミナー後、私の論文が accept された祝いということで、ボスとすき焼き屋へ。お祝いなら先週もして頂いたのだが。このオッサン、単に皆と食事がしたいだけなんじゃあ……。助教の先生、大学院の K先生、研究員嬢、テクニシャン嬢 2人、テクニシャン君 2人が同席。

2月 20日 (水)。論文の proof が来る。4週間ほどかかるという話だったが、1週間で返ってきた。早い。Proof に限らず、この journal は全般的に response が早い。これって結構重要だと思う。研究者に「また投稿したい」と思わせないと、良い論文は集まらないだろう。こういう極めて人間的な感情が、じわじわと IF にも反映されていくのだと思う。

2月 21日 (木)。Proof を Adobe Acrobat で correct して publisher に送信。直後、「ファイルが開けませんでした」と返事が来るが、帰宅後だったので対応できず。時差というハンディを身近に感じる。私の場合、competitor がいるというわけではないが、競争が激しい分野では致命的になりかねないかも。

2月 22日 (金)。結局、印刷した proof に直接書き込んだものをスキャン → 再び PDF 化して送信。返事は来ず。問題なし、ということなんだろうか。いささか不安。夜、私の論文が accept された祝いということで (しつこい)、ボスと職場近くの河豚屋へ。焼き河豚が旨かった。大学院の K先生が同席。

この間、研究費申請のヒアリング用の書類にもかかりきりだった。ラボの大事であるし、何より自分の給料にも関わってくることだから必死である。「僕にはボスからそういう仕事は回ってきませんのでアハハ」という研究員もいたが、アタマは大丈夫なんだろうか。金から遠い場所というのは、馘首に近い場所でもあるんだよ。俺の知ったことではないが。

今日は iPS 細胞のサンプルを貰ってきて、簡単な解析を行った。私が扱っている系では、基本的に ES 細胞と同じような振る舞いをするようだ。良いんだか悪いんだか。

厚生省と文部科学省は iPS 細胞の研究に金をバラ撒くみたいだが、これについても色々と思うところはある。書き出すと長くなるのでまたの機会に譲るが、一つだけ述べるならば、iPS 細胞はあくまで application として有用なのであって、再生医療という概念が有効な分野には福音となり得るが、再生自体が難しい領域では特に劇的な変化は期待できない、という科学的には当たり前のことである。この点、誤解が非常に多い。

明日は、研究費のヒアリングについてボスと最終の打ち合わせ。明後日を乗り越えれば少しは楽になるだろうか。

2008/02/17/Sun.

『ディスガイア PORTABLE』はゆっくりとプレイしている T です。こんばんは。

ガーッとプレイする悪癖が付いているので、意識的にペースを落とさないとじっくり楽しむことができない身体になっている。私が一番ゲームをやっていたのは PS2 の熟成期で、チンタラ遊んでいては新作ゲームに追い付かないという状況だった。PS3 になってから、その種の嬉しい悲鳴は発さなくなったけどね。良いんだか悪いんだか。

研究日記

昼前に起きて、午後から病院へ。

細胞の実験。GFP はいつ見ても綺麗だなあ。もう何百回も眺めたが、飽きることがない。人工的な輝きに見えるが、光っているのはタンパク質なんだよな。しみじみ凄いと思う。

明朝は大学に行く予定なので、テクニシャン嬢達のために詳細なプロトコルを書き置きする。何だか慌ただしいが、まァこれが普通の状態。最近は論文に集中していたから、少し鈍っているのかもしれない。早く実験のペースを取り戻さないと。

ゲーム日記

「ゲーム (主にアクション・ゲーム) とスポーツは厳密にどう違うの」問題、「バッティング・センターでボールを打つのはゲームなのかスポーツなのか」問題、「ゲームは卒業しろと言われるのに将棋は卒業しろと言われない」問題——あたりに関連する例題。というか宿題。

2008/02/16/Sat.

久し振りに買い物を楽しんだ T です。こんばんは。

パジャマ代わりのジャージ、『魔界戦記ディスガイア PORTABLE 通信対戦はじめました。』、PSP の液晶保護シート、文庫本を 10冊ほど、その他諸々。

研究日記

早起きしてラボへ。細胞培養を少し。

ボスに言われて、論文の PDF ファイルを色んな方に送り付ける。お礼を兼ねた宣伝のようなものか。医者が重視するこの種の社会性は見習う必要がある、と理学部出身の私は常々思っている。

「研究者 (あるいは博士) には社会性がない」と、巷ではよく指摘されている。これは半分アタリで、半分ハズレだと思う。まず、研究者の社会性と、(日本の) (いわゆる) 一般的な社会性が少し違うという現実がある。専門的なことであれば、研究者は地球の裏側の学会へと赴き、外国人と議論し、必要とあらば帰国してから英文メールを書いて plasmid を請求する。これくらいはするのである。確かに特殊かもしれないが、他の職業と比べて、特に社会性が劣っているとは思わない。

一方、博士の社会性が取り沙汰されるのは就職問題に関してである、という部分は考慮する必要がある。企業に就職するのなら、(日本の) (いわゆる) 一般常識が求められるのは当たり前の話だ。それが研究者に欠けがちだ、という指摘であれば、これは恐らく正しい。

「(日本の) (いわゆる) 一般的な社会性」が、実は「単なるローカル・ルール」に過ぎないから話がややこしくなるんだな。どちらが悪いというわけではないのだが。社会は基本的にローカルなものであるし。

などと考えながらメールを送っていたのだが、幾人かの連絡先がわからず、漏れが出てしまった。偉そうなことを書いておきながら、これではダメだ。

Dr. B と Dr. ヒゲマンがこの日記を御覧であれば、official なメール・アドレスを教えて頂けますか。すみません。

2008/02/15/Fri.

「次は嫁探しですね」と言われてしまった T です。こんばんは。

研究日記

私の論文が、掲載される issue の "Paper of the Week" に選ばれたという通知が来た。Journal によって名称は異なるが、表紙に写真が載ったり、巻頭で editor が review を書いてくれたりするという例のアレだ。選択基準は editor の付けたスコアで、上位 1% の論文が採り上げられるらしい。名誉なことである。

今年は冒頭から良いことが続いている。途中で失速するのだろうか。

2008/02/13/Wed.

そこに幾ばくかの主観が内包されるからこそ、合理的・客観的・中立的な業績に対して個人が顕彰され、名誉が称えられると思う T です。こんばんは。

論文が accept されたお祝いということで、ボスが祇園で鶏鍋を振る舞ってくれた。M先生、秘書女史、研究員嬢が同席。御馳走様でした。

鍋の世話をしてくれた中居さんは、文学部の博士課程に在籍している女性だった。文系理系の違いはあれど、今の私と同じ大学で年齢も近く、色々と興味深い話を聞かせてくれた。文学博士を目指している女性を眼にしたのは、これが初めてだ。祇園はアルバイトのクオリティも異常だと思う。

研究日記

ボスが出張から帰ってきたので、再投稿した論文に対する editor からの返事をようやく確認できた。Editor の指定通りに publisher へと論文のデータを送信する。Proof が返ってくるのが 4週間後、順調に行けば 5月の issue に掲載されるらしい。思ったより時間がかかる。というか、online publication の早さが凄まじいだけか。Editor が OK を出した翌日には全世界に公開されるわけだから。この瞬間、過去には存在した 3ヶ月のラグ (= 先行研究者に与えられてきた時間的 advantage) が消滅する。競争が激化するわけだ。

遠からず、学術雑誌は紙に印刷されなくなるだろう。実際問題、本としての journal を手にすることはほとんどなくなった。レイアウトする必要もない、manuscript の PDF が読めたらそれで良い、というのなら、もはや publisher さえ不要だ。適当なプログラムがあれば、blog に投稿する程度の労力で online journal を構築できるだろう。

Creative ではない手間から、とにかく徹底的に人間を解放するという合理的な指向性。アメリカから強烈に感じること、そして日本に欠けがちなものがこれだ。日本からは PubMed や Google や Amazon は現れないだろう。そう考えると、トヨタ生産方式というのは極めて非日本的な存在である (そしてトヨタが最も成功した日本企業である点が面白い)。

ボスの研究費申請が第1次審査をパスしたらしい。今度は文部科学省でヒアリング (面接審査みたいなもの) があるから、プレゼンテーション資料を作成して、当日はオマエも東京に付いてこいという指令を拝命する。この種の仕事をしばしば頂戴する。「ヒアリング」で検索したら 2つの日記が出てきた (「求む、ノーベル生物学賞」「知らないと恥をかく」)。特に前者の日記では、「わざわざ俺を引っ張ってくるのは、どうも戦力養成の一環であるらしい」と書いている。当時のこの予想は、今ではほとんど確信になっている。

これはボスが特に俺の行く末を案じてくれるのは何故か、という問題にも関係してくる。これに対しては一つの回答を得た。さる人曰く、「俺がボスにとって最初の『弟子』だからではないか」。確かにそうかもしれない。ボスにとって「後輩」の医者は大勢いるが、まだ「弟子」はいないように思われる。医者同士が師弟関係を結ぶには、かなりの年齢差が必要だろう、というのはよくわかる。加えて、研究を目指す (目指している) 医者はごく一部だけという事情もある。

「最初の子供は可愛いんだよ」。子供はみんな可愛いだろうと思うが、独り身の俺には反論できない。

報道の客観性とジャーナリズムの中立性

昨日の日記で「日本の新聞に Nature ほどの価値があるかどうか。極めて疑問」と書いた。これについては、記事を書くのに要した時間と金銭を考慮する必要があるな、と反省した。Nature (別に Cell でも Science でも良いが) に掲載される論文の 1つ 1つには、数ヶ月から数年に渡る時間、数百万から数千万円に上る研究費が投じられている。これで新聞記事より下らなかったら、それこそ犯罪だろう。

新聞の根源的価値は「客観的事実」の「報道」にある。もし新聞がただそれだけに徹していれば、そこには Nature とは異なった、しかし同程度の価値が生じるだろう。しかし実際には、事実の歪曲、主観の挿入、床屋政談以下の評言、鼻糞をホジりながらでも書けるようなオナニー・コラムが混じってくる。そんなものは blog でいくらでも読める。無料で読める分だけ、blog の方が良心的であるとすらいえる。

さて、「ジャーナリズムの中立性」というのは、実によく考えられた言葉である。ジャーナリズムの機能の 1つに、「こういう大本営があったけど本当にそうなの?」という問い掛けがある。これはちょっとしたパラドックスなのだが、「本当にそうなの?」は客観だろうか主観だろうか。なかなかの難問である。だから、ジャーナリズムは「客観・主観」ではなく「中立性」を標榜する。まことに慎重だ。ジャーナリズムに信頼を置くとしたら、この慎重さにこそであろう。

「報道の客観性」と「ジャーナリズムの中立性」を分離できなかったのが、新聞最大の過誤ではないか。

2008/02/12/Tue.

テキスト至上主義、というわけではない T です。こんばんは。

最近の日記を読み返して、やたらと「僕達の年代は〜」という文句が多いことに気が付いた。もう世代論なんて成立しないことはよくわかっているのだが、同時に、やはり同年代の間で培われた共通認識や共通体験や共通言語は少なからず存在するはずで、それらにコミュニケーションや表現の糸口を期待するくらいは良いんじゃないか——、という楽観もまたある。ひょっとしたら僕達は世代論が成立する最後の世代なのかもしれない、というメタ世代論はさておき。

「学校に遅刻しそうだったのでパンをくわえたまま夢中で走っていたら曲がり角で女の子と激突してしまうというスッタモンダがあったんだけど何とか間に合った朝のホームルームで紹介された転校生は先程ぶつかったばかりのあの娘だった!」という表現があるとする。運命的な出会いだなあ、という原始的な感想が第1段階。このシチュエーションはオイシイということで頻用されるのが第2段階。その結果として陳腐になるのが第3段階。ありきたりを通り越して記号的になるのが第4段階。「これは記号的な表現である」という新たな意味が付け加えられるのが第5段階。その文脈がギャグに転化するのが第6段階。笑えなくなるのが第7段階。逆に今それが新しい、となるのが第8段階。——という具合に、表現の解釈はいくらでも変化していき、さながら螺旋階段を昇るようにどこかへと飛んで行く。

ある表現がどのように受け止められるのかは、観賞する者によって違ってくる。また観賞者は、作者がどのフェイズで解釈されることを意図したのかを知る術はない。同時に作者は、こういう具合に解釈してくれと指定することもできない。だから「そういう表現があった」とは書けるが、それ以上のことを述べようとすると途端にややこしくなる。そこに希望があるともいえるし、それこそ絶望的であるともいえる。

顕微鏡は解像度を上げると視野が狭くなる。個人で語ったり、年代で切ったり、日本人を前提としたり、人間として考えたりするのは、対物レンズのリボルバーをクルクルと回すようなものだ。

以下は上記と全く関係ない話。最近見かけた面白い視点を 2つ。

新聞社あるいは新聞記者は、「学生は新聞を読め読め」というが、そのくせ新聞の定期購読に学割が存在しない。という主張を読んで、確かにそうだなあと妙に感心した。学術雑誌には大抵学割が存在する。Nature の学割購読は、新聞よりも安かった記憶がある。日本の新聞に Nature ほどの価値があるかどうか。極めて疑問。

守護霊が強い人は霊的防御力が高いので邪悪な霊を眼にすることもない。逆に守護霊が弱い人は見えてしまう。つまり「霊感が強い」人というのは、守護霊が弱く霊的能力に劣った人間のことである。霊的弱者。だからすぐに憑依されたりする。というロジック。

2008/02/08/Fri.

論文が accept された T です。こんばんは。

PubMed で調べものをしていたら、俺の研究と同じような内容の論文を見付けた。こりゃヤバいな、どこのどいつだ——と思ったら俺の論文だった。俺が論文を再投稿したのは 1月 31日 (木) だが、週明けの 2月 4日 (月) には accept、翌 5日に online で publish されていた。こんなに早く決まるとは考えておらず、corresponding author であるボスは出張中。Accept → publish に誰も気付かなかったという間の抜けた話だった。

何だか拍子抜けだった。初めての publication というものは、もっとこう、大きな歓喜と深い感動に包まれるものだと思っていたのだが。何にせよ良かった。やれやれ。長い 1年だった。

2月 9日は「肉の日」だとかで、今夜は (2月 8日ではあるが) テクニシャン嬢 2人、研究員嬢と焼き肉を食べに行く予定だった。それが予期せぬ形で祝賀会に変貌し、楽しい時間を過ごすことができた。ありがとう。

この連休はゆっくりと休んで、また来週から頑張ろう。

2008/02/07/Thu.

歴史を題材にしたゲームや漫画に目くじらを立てたことはないつもりの T です。こんばんは。

王欣太『蒼天航路』を読み返し、関帝の風貌について調べたくなったので検索してみたが、いくら何でもこれはヒドい。

この件に関しては、もっと中国は日本を怒っても良い、と心から思った。

2008/02/06/Wed.

寝ても寝ても寝足りない T です。こんばんは。

美人を見たときは鼻の下を伸ばすものと決まっている。実際に鼻の下を伸ばしてみると、なるほど確かに間の抜けた顔になる。では不細工を見たときはどうするのか。やはり鼻の下を縮めるのか。そう考え、鏡に向かって鼻の下を縮めてみた。言うも言われぬ、しかし何となく的を射たような表情にはなる。自然と眉根に力が入るところがポイントだろうか。慣用句、侮り難し。などとアホか俺は。

今日のニコニコ動画

替え歌ってのは大抵が寒いものだけど、これは良かった。

2008/02/05/Tue.

『ゴルゴ13』を読みながら「文字が多いなあ」と思ってしまった T です。こんばんは。

「こりゃダメだ」と思った。さっさと寝よう。

研究日記

Dr. A から、accept された論文の PDF ファイルを頂戴した。前のラボで、私もほんの少しだけ実験させてもらった仕事だが、論文に関しては何もお手伝いしておらず、恐縮の極み。本当にお疲れ様でした。

ボスは長期出張中。論文を再投稿したので、差し迫った仕事もなく、次は何をやろうかなあと考えながら勉強したり。これではダメなんだが、いや、まァたまには良いだろう、とか何とか。で、ダラダラ。

iPS 細胞について: 生物学的にどうよ?

iPS 細胞について調べながら思ったことを少し。

マウス iPS 細胞のことを初めて知ったのはいつだったか。就職してからであることは間違いないが、どうも思い出せない。「ああ医者の発想だな」と思ったことだけは強烈に覚えている。「タンパク質は化学物質」という世界を覗いて、「ああ化学者の発想だな」と感じたのに似ている。以前にも書いたが、これは悪い気分ではない。学問の豊饒を感じたものである。

今、私の周りには医者しかいないので、iPS 細胞に対する生物学者の感想を聞く機会がない。iPS 細胞についてまず私が思ったのは、「それは nature な現象ではない」ということである。数個の遺伝子を導入するだけで体細胞の性質が ES 細胞様に変化するのはスゴく興味深いし、そこから重要な発生学的・細胞生物学的知見が得られるのは間違いない。散々いわれている通り、再生医療の実現化にとっては大きな一歩でもある。生物工学的な価値は計り知れない。そられを承知の上で、諸々を取っ払い、iPS 細胞に対する純粋な私の第一印象を探して行くと、やっぱり「でも nature じゃない」という場所に行き着く。だからどうした、というわけではないのだが、私の思考の出発点はそこにあるらしい。

この話を院生の K先生にすると、「理学部だねえ」と言われた。どうだろう、私の感覚がまともであるという自信は欠片もないが。

もっとも、nature か否かで何かを判断している、というわけでは無論ない。例えば現在の化学は、ひたすら nature にあらざる物質を合成しまくっているが、だから科学的価値が云々とは毛ほども思わない。

ところで、「遺伝子組換え作物は nature じゃない。食べたくもない」と批判する人は、病気になっても薬 (= nature には存在しない物質) を飲まないんだろうか。大いに疑問であるが、そんなことは考えたこともないんだろうな。iPS 細胞については何て言うのかな。聞きたくもないが。

話を戻すと、iPS 細胞を使った研究を行うことを考えたとき (研究費の申請を仮想するとわかりやすい)、どうにも医学的・工学的なアイデアしか湧いてこないことに気付く。もちろん私の頭が悪いだけなのだが、生物学的 (この言葉の定義も曖昧だが) に iPS 細胞をどう使うかは、意外に難問である。基本的に ES 細胞で済むわけだし。あるいは逆に、その価値の大半が実用面に偏っているのが iPS 細胞の特性の本質である、ともいえるわけだが。

Web 日記

ネットが空間的格差を埋める (埋めた) という評はよく見るが、様々な blog を読んでもたらされるのは、「やっぱり東京には人が沢山いるのだなあ」という再認識。垂れ流される情報によって、むしろ地域格差が顕になりつつあるのでは、という気さえする。もっとも、これは不可視だったものが見えるようになってきたというだけの話で、絶対的な空間格差はやっぱり埋まりつつあるのは間違いない。社会は進歩している。

ナンシー関がよく書いたことだが、「東京の人は、東京の地理が自明であるように表現する」。例えば私は新宿と渋谷と池袋の位置関係をよく把握できていないが、東京人は、そんなことは日本人なら全員知っていると思っているらしい。これはムラ意識だな。「そんなことウチのムラでは当たり前でねえか」。んなこと知らねえよ、と外部の人間は思うのだが、どうも通用しない。

昨日の日記で唐突にオフ会のことを書いたのは、このことと関係している。ず〜っと以前に、「オフ会は開催しないのか。東京でやるのなら行くが」という提言を頂戴したことがある。何が悲しくて俺が東京でオフ会を開かなければならないのかと面食らったが、東京人にとってイベントとはそういうものであるらしい。

ネット知人とオフで会った経験なら私にも何度かあるが、それはどちらかといえば偶然的・突発的に邂逅する機会を得たという差しオフであり、「いわゆるオフ会」ではない。「いわゆるオフ会」が「会うこと」そのものを目的としているのが、俺にはちょっと重たいんだよな。

じゃあ「ついでにオフ会」みたいなのはできないかな、と考えて告知してみた。これくらいユルいのが俺には良いよ。

2008/02/04/Mon.

論文を再投稿してから気が抜けている T です。こんばんは。

つらつらと雑多に。

何かを語ろうと思えば、ある程度は自分のことを棚に上げねばならないのだが、どうも俺には無理なようで、日記はいつまで経っても泥臭いままだ。

最近、日記の質がヤバいくらいにヒドくなってきたので、考える → 書く → アップする、の各段階で充分に寝かせるという訓練を再び始めることに決めた。今は脊髄反射的に手癖で書いてしまっている。これではダメだ。

夢日記

学会の帰りに実家に寄った。「変わったことはない?」と母に尋ねたら、「火事の第一発見者になった」と答えたので驚いた。オッサンが 1人で住んでいる家の玄関を開けたら業火が飛び出してきたので慌てて閉めた、とかいう話だった。車のバンパーが出火原因だったらしい (なぜバンパー?)。家は全焼、オッサンは焼け死んだようだが、とにかく母が無事で良かった。

庭の軒下に見慣れぬ子猫がいる。火事の後から棲み付いているらしい。毛並みがエラくみすぼらしいので、ひょっとしたら火事で焼け出された猫なのかもしれない。我が家では既に猫を飼っているので、一緒に餌を与えて面倒を見ているようだ。

「シロは元気にしてる?」と訊いたところで、ああシロは死んだのだったと気付いて目が覚めた。変な夢だが、やけにリアルだった。

宿題

2008/02/03/Sun.

週末で昼夜が逆転してしまった T です。こんばんは。

日本の漫画、アニメ、ゲームの主人公達は皆なぜ若いのか。謎といえば謎である。

この問いに対して、「敗戦により、日本人の中に『大人は間違えていた』という拭い難いトラウマが生じた。したがって、世界を救う勇者は大人であってはいけなかった」という評を見た記憶がある。なるほどなあ、と感心したものだが、原典が何であったかは忘れてしまった。

全ての創作者が「大人は間違えていた」と思ったかどうかはわからない。ただ、少なくとも手塚治虫はそうだった。彼の作品が熱狂的に歓迎され、以後の日本の全ての漫画、アニメ、ゲームの祖となったことによって、「主人公は少年少女が好まれる」という下地ができたことは否めない。極端な話、他の製作者がオッサンを主人公にしたくても、それでは商業的に難しいために断念せざるを得ない、という場面もあったかと思われる。

さすがに現在では、そこまでではない。それでもやはり、海外のコンテンツに比べ、日本の物語の主人公は若い。

旧来の漫画やアニメで育った私達の年代は、今度はコンテンツの送り手として社会に現れつつある。僕達は、1980年代という日本が最も豊かだったときに、漫画やアニメに囲まれて育った夢多き世代だ。その一方で、そろそろ社会に直面しなければならないときにバブルが弾け、色々と厳しい想いをした (している) 世代でもある。だから、僕達の世代の才能が、「やっぱり大人は間違えていた」と考える可能性は充分にある。このあたりは、具体的な作例を分析した詳細な評論を誰かに書いてほしいものだ。

岡田斗司夫なんかに代表される古い時代の「幸せなオタク」と、僕達の世代に見られる引き篭もりがち、あるいは逆に開き直ったようなヲタクの違いは、その生い立ちの時代性によるものか。なんてことを、オタクになり損ねた僕は思うわけだ。

あと、欧米の (日本とは異なったベクトルの) リアル指向が、日本の (良くも悪くも) 漫画的な表現より「高級である」という議論。これも「手塚治虫の呪い」ですね。昔、探偵小説界に存在した「松本清張の呪縛」と構造は同じじゃねえか。建設的な議論は必要だが、そこに優劣を付ける必然性は、少なくとも娯楽に関してはない。

話は逸れるが、手塚治虫の系譜を否定する奴に限って、ディズニーを「大人の観賞にも耐える」と絶賛するが、アレは何なのだろう。適当なんだろうか。

その一方で、現在の作品の中に時代性 (同時代性という水平方向、その歴史的系譜という垂直方向) を読むこと自体が、もう無効なんだろうかという気もする。しかし、教養あるいは学問としてのオタクの神髄は、ほとんどこの部分にあるといっても良い。もしも作品の内から外を読み解く作業を放棄すれば、そこに存在するのは「各作品のディープなファン」でしかない。別にそれでも良いんだけど。

僕はコンテンツ産業とは全く異なるフィールドに立っている。けれども例えば、研究という行為を創造と捉えることはできるし、この日記を表現と解釈することもできる。短い期間、狭い範囲であれ、僕の中から何かが世界に残るのだとすれば、こういうことを考えるのもあながち無駄ではないかなあ、と思っている。

2008/02/02/Sat.

どうやら下痢は治まった様子の T です。こんばんは。

先日の日記で「iPS 細胞について書く」と予告した。が、何をどう書いたら良いかで悩んでいる。私に大した知識がないのも原因なのだが、それだけではない複雑な背景を iPS 細胞は持っている。

1つは、iPS 細胞が持つインパクトに、科学的な側面と社会的な側面があるという点。科学的側面はわかりやすいですね。「体細胞から ES 細胞の性質を持つ細胞 (= iPS 細胞) が作られた」という驚き。社会的な側面は、再生医療のソースとして iPS 細胞が非常に重要になるだろう、という期待的観測。説明がややこしいのは、この社会的な側面である。しかし、この視点を抜かして iPS 細胞を語ることはできない。

私は以前に「胚性幹細胞と成体幹細胞」という日記で、「細胞移植による再生療法を考えたときに問題となる話」を書いた。iPS 細胞が持つ社会的な意義は、この日記の内容と深く関係している。再生医療に関しては、「再生」という日記を書いたことがあるが、まァ色々とややこしい。報道が過熱気味ということもあるが。

実は、上記の 2ページは shuraba.com の中でも非常によく読まれているエントリーなのだ。大したことは書いていないけれど。しかし逆に、ひょっとしたら、再生医療に関して「大したこと」を書いたページはほとんどないのではないか、という推測もできる。「再生医療」や「ES 細胞」を普通に検索しても、恐らく新聞記事やプレス・リリースが大量に引っかかってくるような気がする。確かに、あんなものを読んだところで何もわからない。

というわけで、iPS 細胞とは直接関係ないことも含めてズラズラ書いていこうかな、と今は考えている。ちょっと調べたいこともあるので、まァその内に。

2008/02/01/Fri.

"Devil May Cry 4" で寝不足の T です。こんばんは。

ボスに「大学院を出てからどうすんの?」と訊かれた話。前回の続き。

過程があと 3年も残っている状態で、しかも唐突に、わざわざ呼び出した上でこの話題。良い予感がするわけがない。「研究を続けるんやったら、例えばこういうところでポスドクするとかな」とボスはプリントを俺に手渡した。1〜2年後にスタートすることがほぼ決まっている大型のプロジェクトについての書類だった。ここへ行けっていう意味か? などと思いながらボスの話を聞く。

けどな。なんぼポスドクやいうてもな、雇われている内はアカンのや。自分でお金を取って来んと。自分のやりたいことできへん。そら一気に仰山ちうのは無理やけどな。センセイ (= 私のこと) やったら、とりあえず学振 (ここでは日本学術振興会特別研究員の DC あるいは PD を指している) やわな。あれが獲れたらまァまァやな。せやけど、あれも結構難しいんや。JBC くらいの paper が 2本は要るわな。あるいは、JBC 1本、BBRC 2本とかな。今書いてる論文が通れば、とりあえず中堅が 1本になるわな。せやから、あと 2年で BBRC を 2つ書かなアカン。申請は 4年生の 5月やからな、あと 2年しかないわけや。申請するときは受け入れ先の推薦書——受け入れ先やぞ、ワシのと違うぞ——も要るからな。留学するんやったら、もうちょっと通りやすくなるけどな。JBC 1本と BBRC 1本とかやな。今度の学会で発表するデータ、あれもそろそろまとめんとな。追加実験はアレとコレでいけるやろ。それから大学でやってるヤツな。あれもまとめてな。センセイは他の仕事もあって大変やろけど、それで coauthor の論文も増えるしな。若い内から論文を溜めるのは難しいんや。今オマエ幾つや。今年で 28 か。若いな。研究をずーっと続けるんやったら、キッチリした論文を書かんとな。ええ加減なもんは残らんからな。サインエンスというものを、こう、きっちりと……、まぁセンセイは理学部やったな。おう。まァそんなとこやな。ほんなら今日の研究会よろしく。

正直なところ——、この人は何で俺の行く末をここまで案じているのだろう、と戸惑った。見所があるとでも思っているのだろうか。それとも全く別の理由からか。わからん。少なくとも、研究員君や研究員嬢とこのような話をした形跡はない。何故「俺」だけ。この疑問が私の孤独と結び付いて、奇妙に感情が波立つ。

考え過ぎか? ヘンな話でも何でもないだろ、と思われるかもしれない。けれども、私にとっては重要なことである気がする。とりあえず、日記に書いて吐き出すことにした次第。

研究日記

論文を resubmit した。人事を尽くして editor の返事を待つ。