- 水泡

2007/12/28/Fri.水泡

骨を斬らせて肉を断った T です。こんばんは。

大赤字である。それが、私の 2007年のイメージ。

時間に疎密濃淡があるように感じてしまうのは僕達が時間の流れを制御できないからだ。時間は皆に等しく、かつ一方向的に流れている。少なくともそういう共通認識が大前提としてある。僕達にとって、単位時間あたりの出来事の多寡によって時間の濃度をイメージするのはとても簡単で自然なことだ。一方、単位出来事あたりに要した時間の量を、伸縮するゴムのように想像するのは生理的に難しい。

以前の日記で、「僕が何かしらの生命現象をイメージするときは、いつも個々の登場人物 (多くはタンパク質) がそれぞれ独自の相貌を持ってカチャカチャと動いたり組み合わさったりする。とても機械的なのだ」と書いたが、これについて少し補足する。

僕が機械的にイメージするのはあくまでその抽象化された機構であって、例えば細胞自体を精密に組み合わされたマシンのように捉えているわけではない。細胞内の部品は、個々の単位では常に分解と生成が繰り返されている。例えば筋肉繊維は絶えず重合と脱重合に晒されているわけだ。イオンは細胞膜を頻繁に行き来するし、細胞自体も組織の中で死んだり分裂したりと様々な運命の輪廻を巡る。

ヒトの身体を構成する原子はは約8年間で完全に入れ替わるという。それでも 8年前の僕と今の僕が連続している (という幻想を抱ける) のは、僕が部品依存的なマシンではなく、構造的な機構によって決定される生命だからだ。自分では上手く表現できないから次の一説を引く。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

『方丈記』で鴨長明が述べているのは「無常」ではあるが、これは同時に「社会の連続性」を表しているともいえる——、そう思うのは僕だけだろうか。

所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

(機構は変化していないが、個々の部品は変化している)

こう書いてあるから「無常」を感じるのであって、逆にしてみたらどうか。

いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなりけれど、所もかはらず、人も多し。

(個々の部品は変化しているが、機構は変化していない)

今度は無常ではなく永続性を感じないだろうか。まァ、しょせんは言葉遊びなんだけれど。「無常」って、少しも儚い概念ではない。むしろとてつもなく強固で強大で強靭な思想だ。それと同じことが生命にもいえると思うんだよね。