- 垂慈悲

2007/08/20/Mon.垂慈悲

「慈悲を垂れる」って物凄く上からの目線だよな、と思う T です。こんばんは。

下鴨神社

研究日記

研究をやっていて良かったと思える (数少ない) ことの 1つに、頭の良い人間との出会いがある。低頻度で存在する人種と高頻度で交錯するわけで、まァこれが本当に「良いこと」なのかどうかは微妙なところでもあるのだが、それでもやっぱり刺激になることは否めない。ただ残念なことに、頭の良さというものは才能に因る部分が大きいので、努力だけでカヴァーするにも限界がある。刺激は受けたが諦める、というパターンも多い。それでも、空を見上げるのは気持ちの良いことだ。

私は努力の可能性と同じくらいに、才能の存在を信じている。2週間前の日記に、「適性があったからといって生かさなければならない、という決まりもない」と書いた。才能の使い方はその人の自由だ。それが生き方の定義である、と断定しても良い。ネット上には「才能の無駄遣い」が溢れている (知らない人のために書いておくと、これは褒め言葉である)。無駄がどれほど素晴らしいことであるかは、全ての文化が証明している。文化とは無駄の様式だ。無駄がないのが文明。どちらも豊かな人類社会には必須であることは言うまでもない。

研究という行為には、重箱の隅を突くような矮小極まる自己満足と、人類全体の福祉に貢献するという誇大妄想的な理想が同居している。「私の研究は無駄ではないのか」。4年前の私が現在の進路を選択した理由の 1つに、この感情がある。だが今は、それほどこの問題について考えることはなくなった。何故だかは上手く説明できないのだけれど。

夜は職場で ES 細胞の講習会。招待講演の先生のプレゼンテーションが素晴らしかった。講演後、その先生を囲んで懇親会。

唐突に思い出したが、さくらももこが「優しさは頭の良さで補える」と書いていた。「ポーズでも良い、優しく振る舞ってほしい」。しない善より、する偽善。優しくあることは難しくて、とても簡単だ。