- 偽書論

2007/06/23/Sat.偽書論

「自由研究」という言葉に、懐かしい気持ちを呼び起こされる T です。こんばんは。

職場のデスク

仕事以外にも、個人的に究めたい事柄が幾つかある。このサイトは、その前線基地のようなものだ。仕事は他人からの評価を得なければダメだと思うが、個人的な探求は自己完結でも構わない。ただ、似たような好事家のヒマ潰しくらいになれば愉快だなあ、という楽観的な希望はあって、それがこのサイトの運営を続ける動機の 1つとなっている。これからも Web の片隅で、ひっそりと更新を続けていきたい。

この「個人的な探求」を何と呼べば良いのか。ライフワークという横文字は好きじゃないし、趣味というのもまた違う気がする。そこで「自由研究」という言葉が浮かんでくる。この単語が持つふざけ具合、幼稚さ、そして小学生であったからこそ抱いていた、ある意味での真面目さ。いい大人が敢えて使うと、ヘンな味わいが出てきて面白い。

20代の後半というのは、本格的に自由研究を始めるには良い年齢なのかもな、と思うがどうだろうか。みんな、自由研究やろうぜ!

歴史的事実

昨日の日記の最後で、史書の読み方という問題が「俺の個人的な歴史観というものに行き着いてしまう」と書いた。それについての、少々長い補足。

歴史は過去の事実の集積——というのが一般的な解釈であるが、過去を直接観察することはできないし、実験によって再現することもできない。したがって歴史は、進化論や宇宙論が持つある種の限界を、その本質として宿命的に抱く。歴史は科学ではない。当たり前のことだ。だからこそ、俺は歴史に憧れを抱く。

史学において、科学的な「事実」の確認が絶望である以上、歴史は解釈であり、虚構であり、極端な言い方をすれば「お話」である。別に歴史を矮小化しているわけではない。むしろ、豊饒の顕れとして捉えているのである。昔話のヴァリアントが考えられるように、歴史が「お話」であるならば、同様に幾つもの異説が考えられるだろう。実際、多数の見解や史観が存在する。虚構と違うのは、それぞれの異説が「正しいかどうか」が問題になる点だろう。なぜなら、「歴史的事実」は 1つしかない (はず) だからだ。でも、それは誰にも確認できないんだよね。

偽書という存在

俺が以前から理解できないのが「偽書」という存在である。納得がいく「偽書」の定義を目にしたことがない。由来や来歴が偽られている書物を偽書と呼ぶことは、一応知っている。書いてある内容が嘘だからといって、偽書と呼ぶわけではない。また逆に、偽書とされる書物の中身が全て嘘であるわけでもない。しかしなぜか、偽書というレッテルが貼られてしまった史書の研究は、そこでプッツリと途絶えてしまう。偽書は偽書として、偽書的に探求したら良いじゃないかと、歴史を「お話」として考える俺は思ってしまう。

『古事記』も最初は偽書と思われていたが、現在では一級の史料として扱われている。だからといって、この日本列島が伊邪那岐神と伊邪那美神によって生まれたものだとは誰も信じていない。偽書であるかどうか、書いてある内容が事実であるかどうか。これらは互いに無関係でありながら、同時に錯綜してもいる。

歴史と虚構

歴史を全て「お話」として見るならば、その「お話」は面白ければ面白いほど良い。例えば、道鏡の巨根伝説というものがあって、

道鏡は座ると膝が三つあり

というバカバカしい歌まで残っている。道鏡の巨根にまだ飽き足らぬ称徳帝は、山芋を突っ込んで自分を慰めたなどという、便所の落書きもビックリするようなオマケまで付いている。どう考えても作り話だが、「それは嘘である」という証明は誰にもできない。これはとても微妙な問題だ。「『道鏡が巨根である』と記した書物が存在する」。少なくともこれは事実。その書物が偽書であろうと、内容を否定する根拠にはならない。

上述した道鏡のエピソードは、アホな話だが非常に面白い。仮に事実であれば爆笑である。こういう、実に下らない小話を契機として歴史が好きになる人は、案外と多いのではないか。

偽典日本史

俺には、こういう話をふんだんに盛り込んだ、意識的な偽典を書いてみたいという夢がある。真書・偽書の区別なく、しかして矛盾のないように、否定できないものは全て事実として取り上げ、なおかつ一貫した流れの中で浮かないように——、そんな偽典。

小説としてはたくさん書かれている。しかしそれらは、小説として発表された時点で「小説」でしかなくなる。こっちは、大真面目で歴史を書こうという試みなのだ。来歴を偽らなければ偽書にもならない。ただ、書いている人間が、歴史的事実というものに何の敬意も抱いていないだけだ。もちろん、歴史をバカにしているわけではない。「歴史的事実の追求」なんて、誇大妄想ではないのか。真摯に考えれば考えるほど、そう思えてくる。

どうでも良いことだが、

私は嘘つきだ

という文章は肯定も否定もできない。では、

本書は偽書である

はどうだろう。もし俺が偽典を書くならば、この一文から始めようと思っている。