- 大正廃帝

2007/06/22/Fri.大正廃帝

大正天皇はもっと評価されるべきと思う T です。こんばんは。

読書日記

昨日の日記で『古事記』について触れた後、散歩に出かけたついでに古本屋へ寄った。岩波文庫の『神皇正統記』が投げ売りされていたので、購入して読んでいる。こんなものを読んでいる 26歳の理系なんて、日本に何人いるのだろうか。

それはともかく。『神皇正統記』の目次を眺めると、

とあって、「廃帝ッ!」と独りで興奮している。バカか。しかしまァ、「廃帝」という言葉には色々と想像が掻き立てられる。本文では「廢帝」という字になっており、一層アツい。

そういえば、義兄弟の間では大正天皇のことを「御脳病の大正廃帝」と呼んでいた。明治天皇が「神君明治大帝」であったのとはエラい違いだ。当時はゲラゲラと笑っていたが、今思うと相当に不敬であるなあ。

ところで、大正 廃帝 天皇には「遠眼鏡事件」と呼ばれる逸話がある。

「遠眼鏡事件」とは、帝国議会の開院式で、壇上で詔勅を読み上げた大正天皇が、持っていた証書をくるくると巻いて、遠眼鏡のようにして議員席を見回したというものであり、大正天皇の痴呆症状に関連付けられて流布されている。

(大正天皇の流布されている奇行考)

このエピソードの真偽には色々と説があるのだが、真相に関しては不明な部分も多い。さらに俺は、「次に大正天皇は、遠眼鏡にした詔勅を耳に当て、遠くの音を聞こうとした」などと勝手に付け加えて喜んでいたのだからヒドいものだ。

今回、上記のサイトで初めて知ったのだが、「大正天皇は、パレードの時はいつも車に縛られていたため、直立不動だったらしい」という噂もあるようだ。これも相当ブラックだな。俺は爆笑したけれど、この噂がもし、何らかのイデオロギーを主張するためのデマゴギーだとしたら、かなり嫌な感じである。それはギャグではないし、笑えない。

『神皇正統記』はイデオロギーの書である。しかしそれを読む俺は、北畠親房に賛同する気も反論する気もない。というか、したくない。行間から滲み出てくるものには心を動かされるが、それは彼の思想に共感したからではなく、彼の信念に感動するからである。

だから、鸕鶿草葺不合尊以降の治世が八十三萬六千四十三年に及ぶと書かれても、やっぱり笑ってしまう。親房が一所懸命になって、中国の伝説などと辻褄を合わせようとすればするほど、おかしくて仕方がない。だが、その計算をする彼の心情を想うと、鬼気迫るものを感じる。また、同時代の人間が、この『神皇正統記』をどう読んだか、ということにも大きな興味がある。

最終的に、この問題は俺の個人的な歴史観というものに行き着いてしまうのだが、その話はまた今度。