- 方法のための方法論

2007/06/20/Wed.方法のための方法論

楽になるための努力は厭わない T です。こんばんは。

紫陽花

研究日記

大学 → 病院。

論文のための figure を調整中。データはある。あとは綺麗に作り込むだけ。凝り出すと際限がないが、納得のいくまで整えたい。作業は PowerPoint で行っているが、この段階で最もよく使うのが「オブジェクトの整列」。複数のオブジェクトを選択して、端や中心を揃えたり、それぞれの間隔を等しくしたりというアレだ。

ところが。雑談中に発覚したのだが、研究員嬢はこの整列機能の存在を全く知らなかったらしい。あり得んだろ。どうやって figure を作るんだ。

「写真とかの端っこがキッチリ揃わないでしょ」
「(我が意を得たりという感じで) そうなんですよ!」
「そうなんですよ、じゃないよ。普段どうしてんのよ?」
「だから、画面を拡大して、control キーを押しながら矢印連打で、目で見て揃えます」
「時間かかるでしょ」
「かかります!」

これで彼女がいい加減な性格の人間であれば、まだむしろ救いがある。しかし実際は、几帳面なほどに几帳面な性格なのである。その性格で「整列機能なし」は辛いだろう。教えてあげたら、凄く喜んでいた。

これは自戒を込めて書くのだが、つまらないことでも、否、つまらないことだからこそ、方法や技術の習得が大切になってくる。Essential ではない仕事に割ける時間は限られる。いささか遠回りでも、機械的な作業はできるだけ簡単に済ませるよう、その方法を学ぶべきだ。方法がなければ、自分で作るしかない。もっとも、自分で作らなければならないというケースは、意外と少ない。

私が面倒臭いと思うことは他人にとってもそうであるだろう、という単純な推測がある。面倒だと思う人が一定数いるならば、その中の誰かが、面倒に立ち向かう技術を構築している可能性は高い。フリーのソフトウェアなどが、その典型例だろう。ソフトに限らず、楽をするためのノウハウは至る所に転がっている。ここで、個々の技術や方法を知ることはそれほど重要ではない。そういうものがある (はずだ)、という認識が大切なのである。

「調べれば判ることなど頭に詰めこんでおく必要などない。問題はどう調べれば良いのか、誰に聞けば良いのかを知っていること」

(明石散人『龍安寺石庭の謎 スペース・ガーデン』)

まァ、そういうことである。面倒は嫌だ、楽をしたい。素直な感情だと思う。進歩って、できるだけ素直でいられることだと思うんだよね。