- 定性と定量の間

2007/05/25/Fri.定性と定量の間

眼が疲れている T です。こんばんは。

蚊取り線香の季節がやってきた。蚊柱が立つようになると、私が暮らすアパートの入口には蚊取り線香 (渦巻き型) が置かれる。仕事から帰ってきて郵便箱をチェックしていると、ほのかに懐かしい香りが漂ってきて、何ともいえぬ気分になる。蚊取り線香は毎夕、大家さんが設置しているようだ。帰宅時間が遅い日には、蚊取り線香は燃え尽きて白灰になっているが、それもまた風情があって良い。蚊が飛び回ってはいるけれど。

研究日記

終日病院。

主にデータ整理。Figure まで作り出すと、アッという間に時間が過ぎる。無論、大事な仕事である。理屈だけをいうと、グラフは数値を視覚化したものでしかなく、それによって結果が変わるわけではない。ではなぜグラフ化するのか。

やはり、ビジュアル化によって「見えてくる」ものがあるからである。いくら「定量的」と叫んだところで、数字の羅列を眺めただけでは、なかなかアイデアは湧いてこない (湧いてくる人は数学を究めたりするのだろう)。我々はグラフを見て、「バーが高い」「カーブがキツい」などと、非常に定性的な認識をする。

定量性はもちろん重要である。これがデータの信頼性を決定する。しかし、我々の (少なくとも初期段階の) 認識は、定性的でファジーなものである。そもそも、科学的な発見自体がそうだ。「表現型」という、よく考えてみれば曖昧な概念がその典型である。顕微鏡を除いて、「あれ、何か違うな」。これが最初である。何がどう違うのかを説明するために、測定やら実験を行って定量化する。そしてそれをまたグラフ化、つまり定性化して説明する。

定性から定量への変換、これが実験や観測であり、定量から定性への変換、これがデータの整理や論文の執筆である。例えば有意差は、「違うのか違わないのか」を議論しているに過ぎない。その証拠に、値が数十から数百倍も違う 2群の間では、誰も p の値を求めない。「違う」のは「明らか」だからだ。

グラフや有意差のような例は他にもある。百分率がそうだし、もっとグレー・ゾーンに踏み込めば、概念的なイラストの大部分は嘘であるといって良い。これらは全て方便である。そのことを忘れなければ、我々の理解力はまた一段と深まるだろう。

どうでも良いが、「これは方便である」というセンテンスもまた方便だな。