- ヨッパ谷の朱女

2007/04/05/Thu.ヨッパ谷の朱女

本を読みながら別の本について考えることがよくある T です。こんばんは。

本日は休み。クリーニングと買い物に行き、あとは小説を読んでゆっくり過ごした。溜まっている書評もボチボチやってつけていかないとな……。

「お豆腐の中に社会が見えます」

今日読んだ本の中に「暗赤色の髪……」という描写があったのだが、それを「暗示色の髪……」と読み間違えてしまい、そりゃあどんな色だ、いやいやこの主人公は抽象的な概念と色彩のイメージが直結した言語感覚を持っており、きっとその人物の髪の色が主人公にとって「暗示」を想起させたのやもしれぬ、それとももっと単純で少々拙劣な比喩というだけなのだろうか、そういえば筒井康隆『ヨッパ谷への降下』という小説があってだな——。というわけで、以下は『ヨッパ谷への降下』の話である。私はこの小説が大好きなのだ。

『ヨッパ谷への降下』は次の文章で始まる。

 共に生活をしはじめた朱女という娘は奇妙な女性で朝飯を食べている時きらめくような眼で椀の中をのぞきこみ「ご飯の中に社会が見えます」だの「お味噌汁の中に国家があります」だのと口走る。なかば冗談でなかばは本気なのだが当然そういう異様な感受性も含め朱女が好きになったから一緒になったのだ。

以下、ある時期以降の筒井が得意とする、ノスタルジックな日本家屋の描写とともに、この地に生息するヨッパグモについて説明がなされる。そしてまた朱女は言う。

 その晩も八畳間で朱女と晩飯を食べていた。
「お豆腐の中に社会が見えます」いつものように朱女は冷奴に眼を凝らした。
「きっとまっ白けの社会だろうね」軽く笑って相槌をうつ。それからふと思いついて彼女に訪ねてみた。「あのヨッパグモの巣の中には何が見えるの」
 彼女は巣に眼を向けて答える。「いつもと同じです。あの中には政治が見えます」
「ははあ。政治をやっているのか」
「いえ。政治をやっているのが見えるのではなく政治が見えるのです」
 社会とか国家とか政治とかいった形のないものが見えるという朱女の感覚はどのようなものなのだろう。

ここで 2つの可能性が考えられる。

  1. 朱女には本当に「国家」や「政治」が見えている。
  2. 彼女が見ているのは他人と変わらぬ情景であるが、何故か彼女はそれらを「国家」や「政治」と表現する。

『ヨッパ谷への降下』を素直に読む限り、朱女は 1. であることに間違いはない。それはそれで良い。しかし、2. の人物もまた小説の登場人物として魅力的ではなかろうか。彼または彼女にとって、髪の毛の色が「暗示色」であっても、自動販売機の飲料が「仮説味」であっても一向に構わない。具象的な事物と抽象的な概念の関連に法則があっても良いし、全くなくても面白い。

常識的な言語感覚が破綻した人物を果たして小説という方法で描けるのか、という問題はある。このへんは「思考の次元」と合わせて、考えてみる価値はあると思うが……。