- 思考の次元

2007/03/28/Wed.思考の次元

更新を滞らせている T です。こんばんは。

ファミコンが登場して以来、ゲームのコントローラーというものは、基本的にボタンが増える以上の進化をしなかったわけだが、そう考えると Wii リモコンって画期的だよな。コントローラーの 3次元的な位置がコマンドとなるわけで、これまでのコントローラーに比べ、操作を表現する方程式の次数が上がっている。

これまでのコントローラー操作は、決められた手順でボタンを押すだけであった。これは 1次元である。アナログ・スティックは平面だから 2次元ではないのか、という気もするが、あれは一度に単一のベクトルを指示することしかできないので、結局は 1次元である。スティックを傾けながらボタンを押せば 2次元だが。

最近のゲームでは 3D が当たり前になっているが、映像が画面に映されている限り、それはプレイヤーにとって 3次元的に観える絵、要するに 2次元に過ぎない。

別に、次元の高い方が高級であるという主張をするつもりはない。例えば全ての小説は、どうしようもなく 1次元である。あれはただ、順番に文字が並んでいるだけで、DNA よりは幾分、文字の種類が多いというだけに過ぎない。

全ての言語表現における問題は、まさにこの点に帰着する。多次元の事象を 1次元に変換する試み。これが文章を書くということである。でも、人類にとって最も効率の良い変換方法がこれなんだよね。音楽を言語ではなく絵画によって批評することを考えてみれば良い。まァ、「考える」時点で言語を使っているわけなんだが。また、「批評」という概念自体が言語的束縛の産物にしか過ぎない、という可能性もある。どだい無理なのだ。考えられないことは考えられない。

この不可能が、根本的なものなのかどうなのか。仮に根本的に不可能ならば、それは脳というハードウェアが言語以外の思考ができない仕様になっている、ということを意味する。もしそうであれば、それは何を意味するのだろう?