- Diary 2007/01

2007/01/30/Tue.

今月の文庫版『ゴルゴ13』を買ってきた T です。こんばんは。

ついに文庫版も第100巻。帯には麻生太郎外務大臣が賛辞を寄せている。

「これほど国際情勢に通じた作品があるだろうか。俺は知らない。」

「知らない」というのは外務大臣としてどうかという気もするが。『ゴルゴ13』には各国の重要人物が実名で、あるいは明らかにそれとわかる形で登場することが多い。閣下の出演を期待する。

あと、面白かったのが Wikipedia の記事。

政治家で現外相の麻生太郎は自分の執務室にゴルゴ13 のポスターを貼っているのが良く知られている。

Wikipedia - ゴルゴ13

知らねえよ。

研究日記

学会に向けて勉強とか。

2007/01/29/Mon.

まったくもって『テニスの王子様』の展開が読めない T です。こんばんは。

Web 日記

書評では書籍の表紙画像を Amazon から引っ張って来ているが、一々自分でタグを書いているわけではない。

<isbn>406275598X</isbn>

という具合に ISBN だけ入力すれば自動的に変換されるようにしている。先日「Reference Maker from PubMed ID」を作った際、同じように、

<pmid>12707231</pmid>

とだけ入力すれば PubMed からデータを引っ張ってくるようにしてみた。既に「Science」の各ページで使っている。せっかくだから読んだ論文の記録でも付けようかと考えたが、さすがに書く方も読む方もダルいかな、と思うので見合わせている。

研究日記

私も共著者になっている revise の論文だが、今日は最終的な細かい修正をして、PDF化するなどの作業を行った。夕方にボスが投稿。Accept されれば良いのだが。私自身の論文も仕上げねばならぬ。追加実験は revise のために続けるが、とりあえず今の状態で一度投稿しようかということになっている。

夜はセミナー。助手の先生の論文が 1つ通って、別の論文も revise 中で近日投稿予定とか。エラい勢いである。

2月にボス主催の講演会で 1題、3月には研究会で 1題、国際学会 (開催地は京都だが) で 1題、国内の学会で 2題を発表することに、いつの間にかなっている。そんなにデータないんだけど。無理だろ。もはやほとんど他人事である。

2007/01/27/Sat.

埃をかぶっていた PS2 を売ってきた T です。こんばんは。

コンテンツの外側

我らが愛するおけいはんは「音大生」という「設定」である。新年会でそんな話をしていたら、ボスが「ホンマモンの音大生とちゃうんか」と驚いていた。ポスターに「森小路けい子 (音大生)」と書いてあるではないか。そう主張する。「そういう設定なんですよ」と説明すると、「騙された」と悔しがっていた。そんなに音大生が良いのか、アンタは。わからなくはないけど。

さて、ボスはいみじくも「騙された」と口走ったが、もちろん、京阪電鉄に「騙そう」という意図があったわけではない。「音大生」が「設定」であることは自明に理解されるだろうという前提に立った広告であり、実際に (ボスを除く) 我々は、それが「設定」であることを正しく認識している。この種の広告は実に多い。

ところで、我々はどのようにしてそれが「設定」であるかどうかを判別しているのだろか。「これはそういう設定です」と、どこにも書かれていないのに、それが「設定」か否かを判断できる。考えてみれば不思議なことだ。

「設定」というからには「設定した者」がいるはずであり、それを簡単に「作者」と言い換えても良い。我々はコンテンツを受容するとき、同時に作者を想定してその意図を読み取ろうとしている。これはメタな判断でもある。というより、そもそも「判断する」という行為は「メタな認識をする」のと同じことである。「どちらの選択肢が良いか」を判断するには、選択の結果として起こり得ることを、一歩外側から推測しなければならない。

我々の世代は、「作品」と呼ばれるコンテンツに対してこのような「判断」を下すことに慣れている。そして恐らく、ボスの世代ではそういう視点が希薄だったのだろう。「面白いか、面白くないか」という、「作品」そのもののみを論じるだけで済んだ牧歌的な時代があった。現在はそうではない。具体例は大塚英志『物語消費論』などに詳しいが、現在の「作品」は「世界観」に包まれ、その「世界観」を「設定」する「作者」は、別のある「作者」から影響を受け、そしてまた別の「作者」に影響を与えている。そのような情報が溢れ返り、消費者はこれらの (半ばどうでも良い) 情報を摂取しなければ、その「作品」の正しい「評価」ができないと考える、あるいはそう「思い込まされている」。

『Newtype』のような雑誌が創刊され、ゲームの攻略本の隣には公式設定集が置かれるようになり、そして最後にはネットが来る。コンテンツに関するメタな情報すらコンテンツとなる。このような訓練を経て成長した現在の若い日本人は、世界的に見ても非常に高い評論・分析能力を (ある種のコンテンツに対しては) 持っていると思われる。要するにそれがオタクである。と看破したのは誰だったか。

我々の世代の日本人は、世界的なレベルから見れば全てオタクなんだろうな、とも思う。もう「オタク」という言葉自体、定義できなくなるほどに意味が拡散してしまって私も使いたくないのだが、他に適当な単語がない。別にオタク論がやりたいわけではなく、またその能力もないので、このへんで切り上げる。

研究日記

病院で細胞培養。論文に必要な調べものとか。

2007/01/26/Fri.

将棋より囲碁が好きな T です。こんばんは。

将棋は「指す」、囲碁は「打つ」。日本語のこういった心配りって何なのだろう。

Web 日記

「Reference Maker from PubMed ID」を高速化した。ようやく実用的になったろうか。作成には以下のページを参考にした。

PubMed に関しては様々な優良ソフトが既にある。わざわざショボいものを自分で作る必要は全くないのだが、プログラミングの課題としては非常に面白い。いずれ本当に役に立つものが作れたら良いのだが……。

研究日記

今週はテクニシャン嬢と、核タンパク回収 → 免疫沈降 → Western の繰り返し。なかなか難しい。

タンパク質 A と B が結合するとする。A を変異させてできたタンパク質 a が、B と結合するかどうかを調べたい。そこで抗A抗体で免疫沈降をし、Western で A (a) と B の量を計測する。B/A と B/a の値を得る。B/A > B/a であれば、変異によって a の B への結合が弱まったということがわかる。

本当だろうか。変異を導入したことによって、抗A抗体に対する反応性が A と a で異なることが考えられる。その場合、免疫沈降の効率も違ってくるし、Western での定量化も怪しくなる。しかしこれは、A (a) とタグ X の融合タンパク質 X-A (X-a) を作成し、抗X抗体を用いることによって (理屈上は) 解決できる。

話は変わる。抗A抗体が A と a の両方に反応する場合、免疫という系において a は変異体とはいえない、という議論が成立する。DNA の配列が変化しても、アミノ酸の配列は変わらない、という変異もある。これは DNA レベルでは変異が起こっているが、タンパク質レベルでは変異が起こっていないともいえる。遺伝子がプロモーターごと転座してしまった場合はどうだろう。遺伝子の発現パターンも産物も全く変化しなかったとして、これは変異だろうか。

要するに色んなフェーズでの「変異」があるわけだが、よく定義されていない部分もあるということ。

2007/01/22/Mon.

鼻をよくかんだ T です。こんばんは。

研究日記

体調は前日比微悪。驚いたことに、テクニシャン嬢 2人と研究員嬢も週末は体調が悪かったという。症状も私と似ている。どう考えても、先週ゴホゴホと咳き込んでいたテクニシャン君からの伝染である。

話は変わるが、「DNA」はモノであり、「遺伝子」は概念である。当たり前のことなのだが、普段はこんなことを考えない。意外に新鮮である。モノは実験の対象になり、概念は思索の対象となる。大体において概念が先行し、その実体となるモノが「発見」される。しかしこれは人間原理であって、モノ自体は概念のずっと以前から「存在」している。したがって、思考から生じる仮説とは、「予言」(予想、推測) であると同時に「預言」(神 = 自然からの言葉) でもある。

例えば、遺伝子の配列を特許として認めるかどうか、という論争がある。これは私の個人的な見解だが、モノに特許は認めず、その対象は概念のみにすべきである。PCR の方法論は特許に値するが、polymerase は特許にならない。法律には疎いので、どこまで妥当かわからないけれども。

2007/01/21/Sun.

引き続き頭がボンヤリとしている T です。こんばんは。

研究日記

やはり体調が悪い。唇も切れたまま。

培養室の向かいで大掛かりな改装工事をしている。壁などを壊したりしているようで、大量の粉塵が舞い上がり、培養室にまで入ってくる。さすがにマズいだろう。工事をしている方々が悪いわけではないが、作業の方法を変えてもらわねばなるまい。とりあえず、ボスと事務にメールで報告しておく。来週の予定を立てながら、明日は実験の前に掃除が必要だなあ、などと考える。やれやれ。

疲れた。早めに寝る。

2007/01/20/Sat.

頭がボンヤリとしている T です。こんばんは。

研究日記

目覚めたら咽喉が痛い。厚着をして出勤。外は暖かい。少し歩いて昼食を摂ったら痛みは治まったが、念のため早めに帰宅した。夕刻から鼻汁が出始める。風呂に入るのをやめようかと考える。

論文を書くために読んだ論文 (ややこしいな) に関するメモを整理する。ノートや、印刷した論文、パソコンのテキストファイルなど、あちこちに書き散らしているので難儀する。

夕食を食べていたら唇の右端 (上唇と下唇のつなぎ目) が割れる。小学生か。ああ嫌だな痛いなあ、と思いながらもついつい舐めてしまう。ピリッと痛む。「アヒ」といった 5分後にはまた舐めているのだからバカだ。舐めたら痛いのはわかっている。でも舐めてしまう。というより、舐めて痛いことを確認しているような気がする。

2007/01/19/Fri.

岩波文庫の棚がある、というのが本屋に求める最低条件の T です。こんばんは。

岩波の本は書店の買い取り式である (出版社に返品できない)。売れない岩波の本は、不良在庫として延々と本棚に残り続ける。したがって、小さな書店では岩波の本を扱っていない。逆に、岩波のコーナーが存在する書店であれば、その他の品揃えもある程度以上は保証されていると考えて良い。一種のバロメーターだな。

研究日記

本日は休み。なのだが、回収しなければならないサンプルがあるので、午前中だけ大学に行く。どうもボスがやりたいことに対して人手が足りていない。私が病院と大学を行ったり来たりするのは、身も蓋もない言い方をすれば、単なる時間の浪費である。仕事であるから不満ではないが、ドサ周りがなくなれば今少し生産性も上がるであろうというのもまた事実だ。まァ、そんなことはボスもわかっているだろうが。

『論考』

大学には徒歩で通っている。帰りは散歩気分で本屋とクリーニング屋に寄った。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読み始める。誤解を承知で正直な感想を述べれば、想像していたよりも随分と理解しやすい。全く難解な本ではない。いずれ書評を書くが、思ったことを全部記述するとかなり大部になりそうである (書評の分量はおおよそ読書の感動と比例している)。『論考』は短い命題の連続からなるので、部分的に抜き出して日記で取り上げるのが良さそうだ。

『論考』に書かれてあることは、私が日記などで開陳している考え方と似通っている。無論、この言い方は正確ではない。私が興味を持って読んだ本の中に、既にウィトゲンシュタインの思想が通っていて、私はそれを間接的に摂取した、というのが正しいだろう。これが学問の凄いところである。例えば恥ずかしい話であるが、私はまだダーウィンの『種の起源』を読んだことがない。それでも進化論が何であるかはおおよそ知っているつもりである。ユークリッドの『原論』を読んだことのある数学者、ニュートンの『プリンキピア』を読んだことのある物理学者って、どれくらいいるのだろう。

サイエンスはテキストを研究する学問ではないから、古典を読む必然性は特にない (それが科学が急速に発展する理由の 1つであるともいえる)。一方で、当時の人類が手に入れた最高の叡知に目を通さないのは勿体ないなあ、という思いもある。昨年は意識して幾つかの古典を読んだ。ヒルベルト『幾何学基礎論』ハッブル『銀河の世界』、サイエンスではないが、カエサル『ガリア戦記』などである。無理に理解する必要もないし、古典的名著だからといって必ずしも面白いわけではない (面白くなかったからといって自分の感性を嘆くことはない) という姿勢で、まずは触れることは第一義として (低い目標だが) 読んでいる。しかしまァ、何だかんだいって面白いのだから、さすが古典というべきか。

実は今も、ダーウィン『種の起源』、ゲーデル『不完全性定理』が未読のまま積んである。この手の本は読むのに時間がかかるので、比較的時間に余裕のあるときしか手に取れない。気が向いたら読むつもりではいる。大学付近の本屋というものは、例えそれがポーズであったとしても、岩波文庫の品揃えが充実しているので重宝する。

2007/01/18/Thu.

年が明けてから肌が乾燥している T です。こんばんは。

昨日の日記の最後に書いた「ευρηκα!」について質問があったので少し書く。

「ευρηκα」(eurhēka) は「わかった」という意味のギリシア語である。実際の発音は知らないが、日本語では「ユーレカ」「ユリイカ」「ヘウレーカ」などと記される。アルキメデスが浴槽に浸かっているときに、「アルキメデスの原理」を発見して叫んだ言葉だとされている。浴室を飛び出した彼は裸のまま、この言葉を叫びつつ街を走り回った、というエピソードは有名だ。

「順序を追って理解した」というよりは、頓悟のような直感的理解のニュアンスであるかと思われる。英語では何というのだろう。それはともかく、その瞬間のアルキメデスに「何がわかったのか」と質問しても、恐らく上手に言語化できなかったのではないか。いずれにせよ幸せな瞬間である。

研究日記

Revise の論文の修正が完了、ボスに送信。「あとはワシがやる」という頼もしいお言葉を頂戴する。

ボスの主催で隣のラボと新年会。河豚を食べる。

2007/01/17/Wed.

パソコンのフォントは必要最低限の種類を除いて削除する T です。こんばんは。

阪神淡路大震災から 12年。黙祷。

研究日記

頼まれた論文のチェックであるが、思わぬ労働に。α や β や µ を全角で書くのはやめような。読めないから、日本のパソコン以外では。「±」とかも全角だった。

という話を研究員嬢にしたら、「えー、私も全角で書きますよ。『あるふぁ』って入力して変換する。っていうか、日本語以外でどうやって α とか出すんですか?」と逆に質問された。おいおい。

この時期、卒業論文などを書く人も多いだろう。たとえ日本語の論文であっても、ギリシア文字を全角で入力するのは恥ずかしい。知らない人には、是非覚えてほしいので書いておく。

ギリシア文字は「Symbol」というフォントを使うのが一般的である。英文フォントの a, b, g... を Symbol フォントに変えるだけで α, β, γ... になる。HTML でギリシア文字を出したい場合は、フォントを Symbol に指定するか、実体参照を使用する。Symbol は Win にも Mac にも入っているのでフォント指定に問題はない。実体参照はフォントやブラウザに依存性があるが、ギリシア文字が表示されないということはまずない。

Symbol は明朝系 (serif)、ゴシック系 (sans-serif) のどちらにまぎれても違和感がないようにデザインされた美しいフォントである。一度つかってみてほしい。

ευρηκα!

2007/01/16/Tue.

「逃避は発明の母」という格言を提唱したい T です。こんばんは。

Web 日記

「Reference Maker from PubMed ID」というプログラムを公開した。PubMed の ID から参考文献リストを自動的に作成するプログラムである。自分が論文を書くために作ったツールからスピンアウトした。といえば格好良いが、プログラム作成の真の動機は、論文からの逃避である。

将来的には複数の書式に対応する予定。References の様式を全ての雑誌で統一してほしい、というのが本音だけど。

PubMed を含む最近の NCBI のサイトは、Ajax を使用したギミックに富んでおり、非常に高度である。しかし残念なことに、Google や Amazon のような API が公開されていない。NCBI が蔵する膨大なデータは人類共通の財産である。より広い活用方法の提供を期待したい。

研究日記

共著者になっている revise の論文は、そろそろ再投稿するようである。ボスからチェックを頼まれた PowerPoint ファイルの名前が「final」になっていた。わかりやすい管理の仕方である。

源泉徴収票というものが届くが、書いてあることがさっぱりわからない。わざと難解に書いているとしか思えず、非常に腹が立つ。私が無知なせいもあるのだろうが、であるならば、こういうことをこそ学校でしっかりと教えるべきだろうとも思う。自分の給料がどうなっているのかも理解できない社会科の教育とは何なのだ。アンデス山脈の民はアルパカとともに生きる、などという知識の前に教えるべきことがあるだろうが。

2007/01/15/Mon.

解剖をグロいとは思わないが、申し訳ないなとは思う T です。こんばんは。

研究日記

終日大学。病院でも心筋の初代培養を立ち上げようということで、大学のテクニシャン嬢に教えてもらう。これまでも心筋の実験はさせてもらっていたが、いつも用意してもらった細胞を使っていただけなので、心して教授を受ける。

新生児ラット (今日使ったのは産後 3日目) から心臓を切り出し、酵素でバラバラにして培養する。原理も作業も難しくないが、手間がかかる。50匹をサクって、10 cm dish が 20枚程度得られる。心筋は死ぬばかりで増殖しないので、週末には回収して解析に回す。心筋の実験が重なるときは、毎週 preparation しなければならないから大変である。心筋自体が難しいキャラクターの細胞なので苦労もあるが、その分、得られる結果は面白い。

2007/01/14/Sun.

溜めていた書評をようやく書き終えた T です。こんばんは。

全冊書評を続けるには、溜めないようにしないとダメだな。これまで、ある期間内に読んだ本の冊数というものを正確に数えたことがないので、きちんと記録を残して集計してみたい。2006年 9月から 12月までの 4ヶ月で読んだ本は 55冊。単純に 3倍すれば、年間 165冊となる。200冊は読みたいところだが、なかなか難しい。

年間 200冊のペースで 40年間読み続けたとしても、たったの 8000冊しか読めない。今からリストを作っておいた方が賢明かもしれない。仕事その他を最小限にすれば、3冊/日 = 1000冊/年くらいは読めるだろうが、それでも 4万冊である。試みに「4万冊」を Google で検索してみたら、

予算別リフォーム Before&After 4万冊の本を収納する (1500万円コース)

というページが引っかかった。なかなか面白い。依頼主は文学部の教授という。読書が仕事のような職業でさえ、個人が読める分量はこの程度の桁になってしまうということだろう。数字にしてしまえば、人生の短さがよく分かる。

研究日記

病院。

古い分光光度計でトラブル。結果を感熱紙に印字してくれるのだが、フィーダーに紙が詰まって動かない。分解して取り出したら直ったものの、本質的ではないメカニズムのトラブルには脱力する。測定はできているのに、結果を人間が見れないのだから。

機械で最も壊れやすいのが可動部である。物理的に動作する部分が少ないほど、機械の故障率は下がる。パソコンで一番トラブルが多いのは、「回転」する HD だ。少し昔の機械では、よく MO が使われる。CD、FD。ディスクはどれも回転する。これらもときどき壊れる。その点 USB メモリは優秀である。故障したという話は聞かない。

ハードはどんどん、非接触・不動の方向へと進化する。動くと熱が出る。これもまたトラブルの原因である。測定器械は検出の限界を競って作られるものなので、些細なことが全体に響いたりする。これからも、機械は電気的な生データの出力だけ、解析はコンピュータ、という分業の流れは変わりないだろう。測定から解析から印刷までしてしまう、そんな機械はなくなっていく。

いや、でも、上記の古い分光光度計を分解してみたら面白かった。1つの機械で何から何までやるわけだから、小さな筐体には様々な基盤がコンパクトに詰め込まれている。日本製なんだけれど、日本人はとにかく「コンパクト」を尊ぶ。配線なんかに職人的なものを感じた。体積当たりの機能という点では、今の機械よりもよほど優秀である。

2007/01/11/Thu.

まだ新年会に行っていない T です。こんばんは。

書評が溜まり過ぎ。このままだと忘れるので、これから順不同で書く。

研究日記

病院。

論文の直し。机いっぱいに論文を広げて、reference を細かくチェックする。文献学 (philology) ってこういう感じなんだろうか。 Genes & Development の PDF が極端に重いことに気付く。大体は数百 KB なのに、Genes Dev. は数 MB に達することが多い。Figure の多い論文は少ないと思うのだが、フォントでも埋め込んでいるのだろうか。

ボスと少し会談。

2007/01/10/Wed.

今年も忙しくなりそうな T です。こんばんは。

研究日記

病院。ボスとディスカッション。

昨日送った revise のためのデータは、少しの修正で OK とのこと。まァ、ボスが OK を出しても、editor が何といってくるかはわからないが。

年末に書き上げて渡しておいた私の論文も帰ってきた。Introduction はボスが書き直し。Results は追加実験を 1つやろうとのこと。Discussion はいささかの勉強と修正を命じられた。想像よりもヌルかったが。

2月と 3月に講演会があるから話せ、と言われる。大学院に入ったら私も逃げられない、とでも思っているのか、あれもしよう、これもしよう、とテンションが高い。別に構わんが。仕事は過剰気味の方がよろしい (その仕事で力を付けたいのなら、という前置きがいるが)。大事なのは、無理なときに「それは無理」と言えるかどうか、あるいは言われたときにどうするか、ということだろう。エクスキューズがないとキツいときもあるわな。

2007/01/09/Tue.

ちょうど取っ手の位置に四角い押しボタンが付いている自動ドアがある。大抵は「自動ドア 押して下さい」などと書いてある。押さなければ出られない (入れない) ので押すわけだが、そのたびに、「これって『自動』と違うやろ」と思うのは私だけだろうか。今年も日常のどうでも良いことに突っ込んでいくつもりの T です。こんばんは。

などと笑点の自己紹介風に書き出してみた。

研究日記

病院 → 大学。

細胞を起こす。ぼちぼちエンジンをかけないとな。

2007/01/06/Sat.

出かける前に時間ができたので更新している T です。こんばんは。

場としての「書斎」

「書斎論 (1)」で、「知的生活」という言葉がキーワードとして出てきた。書斎とは知的生活の場である、としよう。「書斎」というのは古い語であるから、私は別に、その字に拘らなくとも良いと思う。書斎が本で埋まっている必要はないんじゃないか。その人にとっての知的生活を送る空間であれば、それは全て「書斎」であろう。例えば数学者やプログラマの書斎は、とても面白い部屋なのではないかと想像する。「書斎」に替わる良い言葉があれば固定観念も払拭されよう。もっとも、「書斎」という日本語の持つ雰囲気は、捨て難い魅力ではあるのだが。

そもそも論になるが、「知的な生活」とは何であろうか。そんな大それたものではないと私は思う。「自分の頭で考える生活」、せいぜいその程度の意味だろう。考える縁 (よすが) になるものが、たまたま私にとっては「本」であったに過ぎない。これは昨日の「媒質論」にも通じるが、書斎だから本を揃えるというのは、悪しき媒体論ではなかろうか。求めるものがネットの向こう側にあるのなら、書斎にもパソコンが必要だろう。「部屋の雰囲気が……」というのでは本末転倒だ。

世のオッサンの夢の 1つに、「書斎を持つこと」というのが、どうもあるらしい。「書斎特集」なんて文字は頻繁に見かける。あれはあれで興味深いのだが、どうも根本的なところで違和感を覚える。とにかくまず、「書斎かくあるべし」という観念 (これは「商品」と読み替えても良い) があって、例えばそれはマホガニーの机であり、革張りの椅子であり、重厚な本棚である。しかしそれはハードであって、ではそこで何をするのか、何をしているのか、というソフトは一向に語られない。「書斎」という筐 = 媒体が、まずある。それを見て、「これは良い」「いやちょっと」となるわけだが、こういう姿勢そのものが、「自分の頭で考える生活」とは対極のものではないのか。

自分の頭で考える

「自分の頭で考える」というのは恐ろしく難しい。最も厄介なのは、「自分の頭で考えている」と思い込んでしまうことである。思い込むというか、気付かない、気付けない。この問題については「言説を自動化する仕組み (1)」と同「(2)」という文章にも書いた。上記の例でいえば、最初からパッケージングされた「書斎」のサンプルが幾つか提示されている、と。その中で好き嫌いを論評するのが「自由な」「選択」だと信じている状態である。これは非常にわかりやすい例であるけれど、世の中はもっと巧妙にラップされた「考え」の断片に満ち溢れている。「考える」という行為の大半は、これらのフラグメントをブロックのように組み立てる作業であるといって良い。この比喩でいえば、「本」は思考のブロックの 1つ 1つに相当しよう。

私はこのような思考を否定しているわけではない。既に存在する、まとまった「考え」の 1つ 1つは、サブルーチン化された関数と捉えることもできる。数学の定理を思い起こせばよろしい。これら先人の知恵があるからこそ、全てを一から証明せずとも、最低限の労力でより遠くに思考を馳せることができる。科学の営みがその典型だ。

と同時に、そのような「ブロック」を疑うことが大きな発見につながる、という経験知 = 歴史を我々は持っている。何でも疑えば良いというものではないが、ときにはブロックを手に取ってじっくり眺める必要もあるだろう。それが「知的生活」ではあるまいか。この行為は、日々の仕事ではなかなかできない。職場を代表とする公的な場は、「常識」という力学に支配される世界であり、既に提出された「ブロック」で築き上げられた殿堂である。だからこそ世の中は、まァ一応はスムーズに回っている。

逆にいえば、だからこそ「書斎」という背徳的行為の場は、私邸の中に設けられる。図書館に行けば良いではないか、とは決してならない。

Web 日記

昨日気付いたのだが、BBS の内部的な改変に引きずられて、携帯電話用の BBS が見れなくなっている。申し訳ない。早くメンテナンスしなければ……、と思ったところで、もう一つ気付いた。

携帯電話で本家のトップページ (http://shuraba.com/) へアクセスしても、ほぼ完全に読める。

最近はページ左側のメニューや、Archive のカレンダーを JavaScript で吐き出している。これらは携帯電話に搭載されている標準的なブラウザでは表示されない。したがって、カテゴリーへのリンクと本文だけが、ほぼ携帯端末用「shuraba.com Mobile」と同じ状態で表示される。「Mobile」と違い、本家へアクセスすれば、パソコンと同様に全てのコンテンツが読める (当たり前だが)。いらねえじゃん、「Mobile」。

本家を簡素で標準的な HTML で記述してきた結果の、良い意味での副産物だと勝手に納得する。これからも「Mobile」は保守するつもりだが、携帯電話で読まれている方は、一度本家へアクセスしてみてはいかがか。多分、そっちの方が便利なんで。御意見がありましたらお聞かせ下さい。

毎日使っておられる方もいらっしゃる「Mobile」だが、いかんせん私が携帯電話を使わない人間なので、忘れた頃に思い出しては、その都度問題が発生しているという状態である。深謝。

2007/01/05/Fri.

昨日の日記で「書斎論の続きをやる」と書きながら、別のことを書いている T です。こんばんは。

Blog なんかのアフィリエイトで、「スポンサードリンク」というのをよく見かける。これがいつも、「スポンサー・ドリンク」に見えて仕方がない。まるでアクエリアスかポカリスエットのようだ。もちろん「スポンサード・リンク」が正しいのであるが、たかが個人の blog に「スポンサー」というのが何とも痛々しいというか、苦笑を誘われるというか。本気で blog が「メディア」だと思っている人、喜んで小銭にもならないアフィリエイトをやっている人、こういう輩こそが「メディア」にとって格好の餌食であるのだが、気付いているのだろうか。そんな blog に限って「メディア批判」を書いていたりするので、どこまでお人好しなんだろうと思えてくる。白痴か。

「媒体」という日本語を考えるならば、blog はメディアである。それは正しい。しかし重要なのは媒体ではなくて媒質だろう。媒体が同じでも媒質がつまらなければ見向きもされなくなる。テレビのチャンネルを変えるというのは、そういうことだ。テレビ自体が面白くなければ、音楽を聴いたり本を読んだりする。メディアそのものも選択肢でしかない。逆に媒質が良ければ、例えば中田英寿のプレーをテレビで観て、中田英寿の blog にアクセスし、中田英寿の本を読む。我々が追いかけているのは媒質である。

媒体論をやるくらいなら、媒質論をやる方がよほどマシである。メディア論は要するに、「社会が悪い」的なエクスキューズに過ぎない。「自分はどうか」という媒質論を立てられる人間でないと。カビの生えた言葉だが、「マルチな展開」というフレーズがある。これは裏を返せば、「媒質が良ければ媒体 (メディア) を選ばない」ということでもある。一流の人間は多才であり、ダメな奴は何をやってもダメ。そういう時代がいよいよ来る。というか、もう来ている。怖いことである。

そもそも、開陳されている「メディア論」のほとんどがメディア論になっていない、と私は思う。例えば朝日新聞なんかはメディア論でよく槍玉に挙げられる。しかしそれは「朝日新聞論」であって「メディア論」ではないのではないか (もしもメディアに構造的な欠陥があるのならば、全ての新聞は朝日新聞と同じ病理を抱えることになる)。かといって、個々の記事 = 媒質を論じているわけではないから媒質論でもない。全ての記事に共通する「何か」を対象にしているのだが、今一つ曖昧である。「朝日新聞の体質」とか「NHK の体質」などとよくいわれる。「体質」って何よ。要するに、媒体に媒質を入れる主体、その性質ということだろう。それを論じたものが何故「メディア論」になるのか理解不能である。問題設定からしておかしい。

問題設定については、書斎論の続きで書く。また後日。

研究日記

病院。

年末に submit した留学生の論文の revise が帰ってきたので、referee にいわれた実験をやってくれとボスに頼まれる。Western で検討したタンパク質の増加を、RT-PCR で mRNA レベルでも検討しろ、というありがちなパターン。私の名前も共著者に入っている論文なので、否やはない。データは投稿前から溜まっているものを使い、電気泳動の写真 (real-time PCR ではなく、ゲルのバンドで半定量する) だけを撮り直す。来週中に figure を整え、materials & methods と figure legends を書いてボスに発送する予定。厳しいコメントはなかったようなので、早くケリが付くと良いのだが。

明日からの 3連休は遊びに行く予定。次の更新は 8日の夜。皆様も良い連休を。

2007/01/04/Thu.

実のところ、自分の部屋を「書斎」と呼称するのは小っ恥ずかしい T です。こんばんは。

処理状態による本の分類

正月の間に増えた本を片付ける。だいぶ以前から、数冊を平行して読むという癖がついてしまった。帰省するときは、読みかけの数冊と、新しく読む (かもしれない) 数冊を持ち帰った。それでもなお、地元の本屋と古本屋で 20冊ばかりを買い漁るのだから正気の沙汰ではない。アホか。

現在、我が家の本は 6つに大別されている。

  1. 本棚に安置済み。
  2. 既読。書評済み。本棚の整理待ち。
  3. 既読。書評待ち。
  4. 読みかけ。
  5. 未読。Book List には登録済み。
  6. 買ったままの状態。

2. は、カバーを外した状態で床にある。50冊くらい。3. は机上。約10冊。4. はカバーをを付けた状態で机上や枕元や通勤鞄の中にある。カバーを栞代わりにしている (分厚い本の中盤だと厳しいが)。合計で 10冊弱。5. は、帯やら折り込みチラシを捨てた状態。30冊くらいある。6. も 30冊くらいか。書店の袋に入ったまま。一応の区別は付く。

実家にあったカタログハウスの『通販生活』に、本を寝かせたまま積み上げる本棚というのがあって、非常に欲しくなった。金属製のシンプルなやつで、これに未読本を積み上げたら、さぞや読む気が湧くだろうと思われる (実際に買っている人の使用目的も、大半が未読本の積み上げであった)。値段は確か 2万超だったか。モノが良いことはわかるが、少々高い。

書斎は紙ばかりである。本以外にも、論文のコピーだとか、2度と開かないであろう学会誌などで溢れ返っている。いざというとき、これらを捨てればかなりのスペースが空く、という妙な保険意識もあって、今は増えるに任せている。しかし恐らく、相当のことがないと捨てないと思われる。

私が「書斎」を求めた理由

私は読んだことがないのだけれど、渡部昇一『知的生活の方法』にはこんなことが書いてある、と梅田望夫が書いている。

「知的生活の方法」(渡部昇一著): 重要な本の置き場確保

知的生活を送るには金がかかるものなのだな。働いて稼いでうんと資産を作らなくては、満足な知的生活を生涯送ることってできないんだな。

七〇年代後半にベストセラーとなった渡部昇一『知的生活の方法』(講談社現代新書)が多くの人にどう受け止められたのかは知らないが、少なくとも高校生の私の心に焼きついたのは、そんな教訓であった。

「知的生活とは絶えず本を買いつづける生活である。したがって知的生活の重要な部分は、本の置き場の確保ということに向かざるをえないのである。つまり空間との格闘になるのだ。そしてこの点における敗者は、知的生活における敗者になることに連なりかねないのである」

蔵書を持ち続けることの重要性を説く渡部は、戦時中に蔵書をあっさり処分した著名な外国文学者を、本書の中で厳しく糾弾したりもしている。

東京での生活を引き払ってシリコンバレーにやってきて十二年が過ぎた。高校生の頃から「知的生活を生涯続けること」を目標にしてきた私は、無意識のうちに「空間との格闘」を続け、知的生活を送るための「広い空間」を求めて、アメリカに来てしまったような気がする。毎年千冊ずつ増え続け、すでに一万五千冊を超えた蔵書を維持できる「広い空間」は、日本では求めても得られなかったからである。

(My Life Between Silicon Valley and Japan - 「ぼろぼろになるまで読んだ四冊の本」)

だよなあ。本は捨てられない。私も以前に、「書籍が文化的遺物となる日のために」という日記を書いた。就職して部屋を選ぶにあたり、少々の無理を承知で「2部屋」という条件に拘ったのも、渡部のいう「空間との格闘」に他ならない。幸い、条件の良い物件に出会えたから良かったが、そうでなくとも必ず広い部屋に移り住んだろう。

敷地面積は譲れない、予算は決まっている。となれば、理想の物件はドンドンと郊外へ向かっていく。便利な生活がしたければ、稼いで稼いで予算を上昇させるしかない。まァ、郊外へ移ったとしても、長くなった通勤時間の間に本を読むだろうけれど。ホントに病気である。

誰もが持っているだろうけれど、私にも「夢の家」のイメージがある。私の場合、全くの理想ではなく、やや具体的であり計画的である。「書斎を持つ」というのは 20代の夢であり、まずは叶えた。次は「書斎」とは別に「書庫」のある部屋 (家) に住みたいと思う。そのためには相当の本を読まねば格好が付かない。別に書庫を作るために読書をするわけではないが、つまりこれは、「それだけの本を読む・それだけの稼ぎがある自分」というイメージであり、複合的な目標でもあるわけだ。

書斎の主人たる条件

ハーレー・ダビッドソンの話を思い出したので書いておく。「ハーレー・オーナーには 3つの力がいる」という。曰く、財力・体力・魅力である。ハーレーは高額である。購入、維持、カスタムするには財力がいる。ハーレーは大型のアメリカン・バイクである。操るには体力がいる。そしてハーレーは名車である。オーナーたるもの、ハーレー負けしない人間的魅力が必要である。そんなものはなくても乗れはするが、要するにダサくなるわけだ。したがって、ハーレーに乗るためには、この 3つを兼ね備えた自分を準備せねばならぬ。これはなかなか容易ならざる課題だ。そういう話。

同じことが、書斎についてもいえるのではないか。書斎を整えるための財力。書棚を埋め尽くす蔵書。そして部屋の主人の知性。一生の仕事だな、と思う。今年も書斎道に励むことにしよう。

などと簡単にまとめたところで、明日に続く。

研究日記

病院。

ボスから論文が返ってきているかも、と思ったが、音沙汰なし。やることがない。来週からの計画を立てたりして、早々に帰宅。明日は何をしよう。皆で飯でも食いに行くか。

2007/01/03/Wed.

正月はゴロゴロしていた T です。明けましておめでとうございます。

食べる、テレビを観る、本を読む、寝る。祖父母へ新年の挨拶に行った以外は、この 4種類の行動しかしていない。テレビは 1年分くらいは観た。免疫がないせいか、何を観ても面白い。また来年が楽しみである。

弟は仕事で帰省しておらず、ここ 2年ほど会っていない。私よりはよほど働いている。留学していた妹とは 2年ぶりに会えた。叔父一家に会ったのも久し振り。叔父が正月を休むのも何年かぶりだという。祖父母は少々具合の悪い所もあるようだが、年齢が年齢だけに仕方がない。世の平均よりは元気である。2007年が健康に過ごせますよう。父母は変わらず。正月気分というのは年々薄れていく一方だが、ここ数年では最も正月らしかったように思う。

どうでも良い話。「A Happy New Year」よりも「Happy New Year」の方が native っぽいらしい。確かに、「A Happy Birthday」とは言わないもんな。

明日、明後日と仕事だが、何をしようかと思案する。細胞を起こしても、すぐに 3連休だもんなあ。恐らくボスからは、修正された論文が帰ってきているであろうから、私は仕事に事欠かないんだけれど。

それでは皆様、今年も宜しくお願い致します。