- 今日まで俺は

2006/11/20/Mon.今日まで俺は

行き詰まりはブレークスルーのチャンス、と思い込むことにしている T です。こんばんは。

「『俺』という一人称を改めようかと考えている」と少し前に書いたが、実行に移そうかと思う。最近、どうも「俺」という一人称に違和感があったのだが、理由を考えてみれば何のことはない、既に日常生活で「俺」の使用を止めていたからであった。「止めた」といっても、意識的なものではないけれど。

現在はほとんど「僕」である。職場は年上か女性ばかりなので、どうしても「僕」になる。改まったときや、外部の人に対しては「私」を使う。同年代の男が職場にいないので、「俺」を使う機会がない。ということに気付いた。

「俺」の想い出

以下、現在に至る思い出話を書いてみる。

このサイトの開設時 (2002年 4月)、日記で「俺」という一人称を用いたのは、やや意識的な行為であったように記憶している。当時は「××のホームページへようこそ!」という個人サイトが花盛り。人々は相互リンクでつながり合い、異常なまでに互いに気を遣っていた。そういう傾向が大きな流れの一つとしてあった。「ネチケット」という今や懐かしい単語が飛び交っていて、掲示板では挨拶・敬語が当たり前、日記も当然「ですます」で書く。「私」の他にも奇妙な一人称が跋扈していたが、少なくとも「エラそう」と思われる文体は NG、といった空気があった。あれは何だったんだろうな。日本中が (ネット人口は少なかったろうが) 狂っていたんだろうか。

そういう背景があって、群れたり媚びたりするのが嫌いな自分としては、やや反骨的に「俺は〜」「〜だ・である」という文体で日記を書くことに決めたような気がする。今思えば、このときに「shuraba.com」の大きな方向性が決まったのかもしれない。殺伐。望むところではある。

当初の日記は本当に「日記」であり、その日にあったことを具体的に書き記すだけのことが多かった。その内に、自分が考えたこと、気付いたことなどを抽象的に書き始めることになる。読者が増え始めたのもこの頃だ。論旨は強引なことも多かったが、できるだけロジカルに書くよう心がけていたので、そのへんが良かったのかもしれない。

論理的な文章に「俺」という一人称はどうかとも思ったが、書き慣れてくると、これが結構面白い雰囲気であることに気付いてくる。このことに自覚した後、漢字をどんどんと開いていったり、それまでは努めて使わなかった擬音語・口語などを積極的に投入したり、括弧を多用したりと、色々な文体実験もした。修士過程の後半あたりだろうか、この頃の日記は読み返しても力がある。ときどき過去の日記を引用しているが、引用元はこの時期に書かれたものが多い。遺産で喰っているようなものだ。

就職してから日記が大人しくなったと自分でも思う。正直、内容がつまらないと思うことも多い。1日が終わり、日記を書くときに残っているエネルギーの違いだろうか。いつしか「俺」という人称が、自分から解離しているように感じるようになったわけだ。実生活でも使わないし。同時に、世間では blog が普及して、様々な人が様々な文章を書き、それらが大量に流通するようになった。俺の反骨は反骨でなくなったわけだ。

とまァ、色々な理由で「俺」という一人称を改めることに決めた。使わないわけではなく、そのときに応じて適切な人称を使い分けようと思う。ある意味では自由なわけだが、適当な縛りがあった方が文章は上達するし、何より書きやすいという側面もある。これはこれで冒険なのだ。

どうも最近、書き慣れたフレーズを半ば自動的に吐き出しているだけのような気がするんだよな。2007年は文章修業をしてみるか。

という締めくくり方もウンザリするほど過去に使った。こういうところを改めねばならぬのだ。PEっ。

研究日記

病院。

学会中にやってもらった実験データの整理。午後は全体会議。夜はセミナー。隣のテクニシャン嬢も参加しに来ていた。勉強熱心なのは良いことだが、理解できたのだろうか。プログレス・セミナーの類いは、バックグラウンドの説明なんてほとんどしないからなあ。次回は不参加に 100 パワーポイント。本心としては、これからも参加してほしいものだが。

Beating していた細胞から RNA を取ってきて調べたら、確かに心筋マーカーを発現していた。という話をボスにしたら、大層喜んでいた。