- Never Ending Story

2006/04/23/Sun.Never Ending Story

所持している筒井康隆の本が 100冊に達した T です。こんばんは。

悪書

悪書という、実に奇妙な本の一群があって、これらは建前上、「読むべきではない」ということになっている。しかしこの言葉、どう考えても、悪書を読むことを煽っているとしか考えられない。黙っていれば誰も読まないのに、わざわざ悪書として宣伝している。その証拠に、大きい本屋に行けば、悪書は定番の書物として必ず陳列されてある。「まずい。もう 1杯」と似ている。

終わらない物語

人類の夢の一つに、「終わらない物語」(never ending story) の創造があると思う。『南総里見八犬伝』や『大菩薩峠』のように、ただ長いことそれ自体が存在意義の全てであるような物語もある。『グイン・サーガ』もそうだな。

例えば、100年間必死に読み続けても読み切れない分量の物語があったとしよう。それは完結した物語ではあるけれども、一個人が生涯の間に読破できないという意味で、読者にとっては事実上、「終わらない物語」である。もちろん、それほどの膨大な物語を単独の作者が綴れるわけはないから、グループ、もしくは何代かに渡って書かれる必要があるけれども。

これはゲームの話だが、『トルネコの大冒険 不思議なダンジョン』は、コンピュータを用いた「終わらない物語」の嚆矢ではないかと思っている。以下、簡単に説明する。ダンジョン形式の RPG では、製作者が用意したダンジョン・マップを踏破すれば、物語としてのゲームは終了する。ところが、『トルネコ〜』ではダンジョン・マップが自動生成され、その気になればいくらでも「先」に進めることができる。生成されるマップは、ある範囲内でのランダムさを伴っており、(極めて好意的に書けば)「先」を予測することができない。「終わらない物語」の要素を、ある程度実現しているといえよう。事実、『トルネコ〜』以後、多数の RPG にランダム・ダンジョン・マップが搭載されるようになった。

とはいえ、不満も多い。ダンジョンに登場するアイテムやモンスターの種類は有限であり、無限に続くダンジョンの中でそれらは使い回される(地下 1階には「薬草 Lv. 1」が出現し、地下 10階では「薬草 Lv. 10」が出現する、という感じ)。このような単純さは、「物語」の魅力を半減させる。我々が求めている「終わらない物語」は、普通の物語と同程度には複雑で面白い必要がある。終わらなければ良い、というものではない。

プログラムで「終わらない物語」を生成するならば、あらかじめ用意された材料を使うというだけのアルゴリズムではダメだ。これを回避する方法の一つとして、創発性が考えられる。一言でいってしまうのは簡単だが、しかしこれは相当に難しい。だが、全く不可能というわけでもない。創発性の著名な成果として、生命現象が挙げられる。地球の環境が永遠に安定であるならば、生命進化は一つの「終わらない物語」として続くだろう、という楽観的な予測もできる。この系(物語)は驚くほど精緻で(複雑で)、変化と多様性に富み、しかもその基本的な原理は明らかになっている。このシステムを、人間が楽しむ種類の小説の形に落とし込めたら、どんなに素晴らしいだろう!

生物学とコンピュータと文学に詳しい人が、そんなプログラムを書いくれないものか。そのプログラムが吐き出す「終わらない物語」の数は無限である。一人ひとりが、自分だけの「終わらない物語」を手にすることができる。もう通勤電車の中で退屈することはない。ちょっと隣を見てみよう。隣に座った定年間近の男性も、やはり携帯端末で「物語」を読んでいる。彼はその「物語」を 40年以上、ただ 1人の読者として読み続けているわけだ。スゴイな。

でも、やっぱり死ぬ前には結末が気になるんだろうな。そんなときは、結末生成のアルゴリズムに完結編を書いてもらおう。プログラムで物語を生成できるなら、筋書きを自分でコントロールすることも可能なはずだ。「ここから 300ページは波乱万丈な感じで」とか。良いなあ。欲しいなあ。

研究日記

病院 -> 大学。病院では細胞の世話。大学では別の細胞をホルマリン固定。後、先生と明日のセミナー発表などで打ち合わせ。24時帰宅。