- 年末回顧 私事編

2005/12/30/Fri.年末回顧 私事編

『グインサーガ』のあとがきだけは欠かさず立ち読みしている T です。こんばんは。

粒子と時間

年末回顧の最後は私事編である。この 1年は「時間」についてよく考えた。忙しくて時間がないとか、そんな下らない話ではない。以下、抽象的な話から始める。

「量的」とは「粒子的」という意味ではないか。粒子の最大の特徴はその均一性、すなわち交換可能性にある。したがって、粒子は集合として捉えることができる。これが量だ。量の多寡とは、集合の大きさのことである。ゆえに、量は単位で表現できる。これが定量である。そもそも、ここでいう「単位」と「粒子」は、ほとんど同じものを指している。「粒子的」をさらに言い換えるならば、「還元的」となろう。科学の歩んできた道でもある。

時間というものは、どうもこの枠外にあるらしい。もっともらしい単位は存在するが、連続的かつ不可逆的であるから、交換可能とはいい難い。しかし「誰も捕らえることができない」という点において、平等性を持つ。だからこそ、志ある人は時間に対して厳しい。

「平等」は、称うべき真理的概念と思われがちだが、一方で、自分が丸裸にされる大変に厳しいものでもある。言い訳ができない。これと同じ厳格さが、時間にもある。平等や時間というものに自覚がなければ、全く理解できないやもしれんが。

来年は、より時間を大切にしたい。もう人生の 1/3 が終わっているからなあ。とか考えたら怖くなってきた。

毒と薬

「毒薬」という言葉がある。毒なのか薬なのか、どっちなんだ。と思うのは早計であって、「ヤク」と「クスリ」は違う。ヤクは反応性のある物質一般のことをいい、例えば「試薬」なんかもそうである。毒もクスリもヤクに含まれるわけだ。

「毒性」というのは、いざ説明しようとすると難しい概念であるが、「反応性」という観点から見れば、割合すっきりする。酸素や一酸化炭素の毒性の高さは、これらの分子の反応性の高さが原因となっている。したがって、金のように安定している物質は毒になり得ない。反応性がないということは、クスリにもならないということでもある。金箔入りの酒や食事なんかがあるが、あれは純粋に視覚的な効果しかない。無味無臭だしね。

生体反応に介在するという点では、毒もクスリも本質的な違いはない。副作用はその典型例だ。さて、ヤクに身体が反応するということは、また一方で、細胞というものの反応性もまた高いことを意味する。金にいくら酸素をかけても酸化しない。双方に反応性があって初めて、毒性や薬効は成立する。

反応性がある、熱エネルギーが高い位置にある、不安定である。何と言い換えても良いが、どうして細胞はそのような状態にあるのだろう。DNA が比較的安定した物質だからか。2重鎖をベリベリと剥がすためだけに我々はこのような熱っぽい身体を持っているとしたら、ちょっと哀しいものがある。毒にも薬にもならない考えだが。