- 漢語と科学

2005/11/14/Mon.漢語と科学

「ちゃりんこチエ」という言葉が頭に浮かんだ T です。こんばんは。

確かに「じゃりんこチエ」には自転車がよく似合う。しかし似合い過ぎて、ギャグとしてはつまらない。

ここがヘンだよ、中国語

中国人は非常に大袈裟な民族であって、それを端的に証明しているのが、彼らの操る中国語であり、日本語となって久しい膨大な漢語群である。わざわざ「漢語」と説明しなければならないくらいの昔より、我々は中国語を使っている。普段は意識することもないが、虚心になって味わえば、まことに奇妙な単語・成句がいっぱいある。

没頭
我を忘れるなんて騒ぎじゃない。頭が没するのである。
杞憂
天が落ちてくるのではないかという、杞の国の人の不安を揶揄した言葉。しかしいくら悲観的な人でも、そこまで病的な心配の仕方はしない。
怒髪天を突く
怒ると髪の毛が天を突くのである。普通は突かない。
白髪三千丈
愁いごとがあると、白髪が 9090.9 m まで伸びるという。頭髪の伸長速度には個人差があるが、かなり速めに見積もっても 0.5 mm/日。3,000丈になるには 49,813年を要する。中国 5,000年の歴史では足りない。

レトリックとサイエンス

とまあ、これらが修辞的表現であることは俺もわかっている。ところが、こんな鬼面人を驚かすような(これも凄い修辞だ)レトリックで文を飾り立てることばかりが求められていては、そこに客観性、ひいては科学的な思考が育たないのではないか。

長らく中国語の影響を強く受けてきた日本語だが、それが一挙に弱まるのが明治維新である。その経緯は司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 12』に詳しく、書評でも触れた。ここで俺が注目したいのは、西洋近代科学の輸入と、新たな文章表現としての写生文の勃興が時期を同じくしている点だ。科学的客観性を記述するための日本語が求められ、同時に、日本語の新たな範(の 1つ)を西洋的合理主義に求めたのは、相互補完的な現象ではないだろうか。

寺田寅彦や南方熊楠といった科学者が見事な散文をものにし、森鴎外という医学者が素晴らしい小説を書く。これは単なる偶然ではないような気がする。彼らの文章を精査したわけではないが、大仰な表現を多用しているという印象はない。むしろ抑制されている方だろう。

夏目漱石は科学者ではないが、漢籍と同じくらいに英文にも通じている。その彼が漢語をどのように扱ったかは、『吾輩は猫である』を読めばすぐにわかる。漢語のギャグ的要素を、そのまま「ギャグ」として用いた最初の近代小説かもしれない。それほど彼は漢語に対して醒めていた。つまり、漢語に頼らない新しい日本語を手に入れていたのである。

漢語からの脱却と近代科学の開花は、絶対に関係があると思うのだが。