- Diary 2005/11

2005/11/30/Wed.

レベルの低い嘘が嫌いな T です。こんばんは。

昨日は「実験動物の倫理問題 (1)」と題し、動物実験を巡る奇妙な状況に対して、俺なりの考えを述べた。もうちょっと言いたいことがあるので、今日もそのことについて書く。

前回のまとめ

何のためのガイドライン

そもそも論から始めよう。

実験動物のガイドラインにおける最も奇妙な点は、その「目的」が明記されていないことにある。何のために実験動物を愛護するのか? この根本的な疑問に誰も答えられない。どころか、ほとんどの人が疑問にも思っていない (ように俺には見える)。

質問を変えよう。実験動物の愛護は良いことか? 俺を含め、ほとんど全ての人間が「Yes」と答えるだろう。それゆえに、指針がまとめられているのである。では、何が、なぜ、誰にとって、どんな風に「良い」のか?

ぶっちゃけていうと、「我々人間にとって良い」、少なくとも「それが良いと思っている人間がいるから」であって、決して動物のためではない。だから人間のエゴイズムなのだ。繰り返しになるが、そのエゴイズムを我々は否定できない。しかし認識することはできる。それを直視したくない人間が多いため、どうにもヘンな話になる。「見たくない」というのは、単なる責任放棄としか思えないがな。

自らのエゴを見よ

「社会」の問題に移る。人間のエゴイズムにも 2種類あって、それは個人のエゴイズムと、人間社会のエゴイズムである。「資源をじゃんじゃん使って楽に暮らしたい」というのが前者であり、「そうすると環境が破壊されて困るから辛抱するか」というのが後者である。

社会と社会のエゴイズムは衝突する。しかし衝突するばかりでも損をするだけなので、適度なところで双方が妥協し、お互いのエゴイズムを適度に満たす。これが契約であり外交である。これらは、相手のエゴが自分のエゴを犯すこと (あるいはその逆) によって発生する。したがって、相手に社会性がない場合、交渉の余地はないし、必要もない。少なくとも、近代以前はそう考えられていた。奴隷売買なんかはその極致だ。

社会生活を営む動物は、ヒトとハチとアリだけだという。ハチの巣を叩き落とすと、巣のハチが一斉に攻撃してくる。彼らに社会性があるゆえんである。そこで人間も、ハチの巣はみだりに襲わないという不可侵の協定を暗黙裏に守ることとなる。ハチの巣をどうにかしたいというエゴが、自分の生命の安全というエゴとぶつかり、後者が勝つからに他ならない。

で、だ。この「社会性のエゴイズム」は、人間と実験動物では成り立たないのである。彼らをどうしようと、人間が彼らの社会から被害を受けることは考えられない。もちろん、個人的なエゴイズムならば双方に存在する。殺される実験動物にとって、動物実験の倫理はまさに「他人事」では済まされない。だが、何度もいうように、それが彼らの「社会問題」になることは決してない。人間社会がガイドラインを作って対処するというのが、そもそも茶番なのである。

そう、茶番なのだ。もしも実験動物達がガイドラインを理解できたとして、彼らがそれを受諾するだろうか? するわけがない。麻酔をかけてくれてありがとう。ケッサクだな、おい。もちろん茶番に意味がないわけではない。我々は指針を手にすることによって、何となく安心する。ただ、ただそれだけのためのガイドラインなのである。

それが悪いことだとは思わない。実験動物には感謝もしているし、ガイドラインは遵守する。でも、それで「終わった」ことになってしまうのは、人間性の悪意ある部分に対しての欺瞞に過ぎない。そこがイヤなんだな。

2005/11/29/Tue.

『「クリスマス・キャロルが流れる頃には」が流れる頃には』というタイトルを考えた T です。こんばんは。

曲を作ってくれる方、契約しませんか。

タイム・スリップとタイム・トラベル

どうしてタイム・スリップはタイム「スリップ」なのか。

こんなことが気になって眠れない。タイム・トラベルという言葉もあるんだけど、ドキドキワクワクハラハラならば、圧倒的に「タイム・スリップ」だろう。「タイム・トラベル」には、時間(に代表される自然現象)を自分達の良いように調教できる、という欧州近代合理主義的な思想が見え隠れして好きになれない。時間を遡って歴史を変えてやろうとかさ。輪廻の世界に生きる我々の発想とは根本的に違うものがある。まァ、そこが面白いところでもあるのだが。

でも、何で「スリップ」なわけ?

研究日記

動物実験講習会を受講する。近年、実験動物に対する愛護が盛んに叫ばれているとともに、実験倫理はますます厳しくなりつつある。法は法ゆえ、職業人として規則は守らなければならないが、ヘンだな、という感覚も残る。

実験動物はネイチャーな生態系から完全に隔離されて繁殖し、飼育され、実験に使われる。したがって、自然保護の観点から実験動物の愛護は成立しない。苦痛を与えるなだとか、最低限の個体で実験を行えだとか、そういう主張は動物の人格化であり、要するに主張者の自己愛が転化したものに過ぎない。他人の自己愛を、なぜ俺が守らなければならぬのか。「鯨を食う奴は野蛮人」とホザく外国人の倫理を、我々日本人がムリヤリ押し付けられているのと似ている。うるせえよ、インディアン・キラーのくせに。

実験動物をバンバン虐殺して結果を出そう、といっているわけではない。俺にも、実験動物について考えるところはある。苦痛がないのならば、それに越したことはないだろう。しかし、人間の営みはそのような博愛精神を超越したところで回っている。それが人間のエゴイズムだ。俺はそれを否定しないし、そもそも否定できない。

刺身にする魚を、いちいち麻酔するのか? 家屋に湧くネズミを安楽死させるわけ? 違うだろ、それは。それぞれにそれぞれの正義があって、我々は何の疑いもなく他者の生命を奪い続けて生きている。動物愛護を否定するつもりはない。しかし、動物愛護ですら人間のエゴイズムであることも同時に理解しておくべきだ。

難しい問題だが、それは常に「人間」の側にある。人間が問題に思うから問題となる。虐殺しようが、実験をやめようが、ネズミの総体は何も思わない。彼らに社会がないからである。これについては、また明日。

2005/11/28/Mon.

やたらと天皇に関する記述が多い T です。こんばんは。

女帝論と女系論

「女帝論」というのは、その論の立て方自体がナンセンスの極みであって、こんなものを読んだり聞いたりするのは時間の無駄である。多くの日本人が誤解しているが、天皇が男であるか女であるかは何ら本質的な問題ではない。したがって「女帝論」は成り立たない。

天皇のタネが誰であるのかが問題なのだ。人類のミトコンドリアをたどっていけば必ず「ミトコンドリア・イヴ」にブチ当たるように、天皇のタネをたどっていけば必ず過去の天皇に行き着く。タネが天皇であれば女帝に何の問題もない。これが「男系」であり「万世一系」の意味である。ゆえに現在議論すべきは「女系論」なのだ。

どうも誤解されそうだが、俺は万世一系の天皇家が永続することを絶対的に願っているわけではない。歴史には必ず終焉が来る。日本という国も永遠ではない。長い歴史において、天皇家がその役割を終える日も来るであろう。それは必然なのだ。日本は一度も「終わった」ことがない国なので、天皇論になるとヒステリックになってしまうのは仕方がないにしても、「女帝論」はヒド過ぎる。歴史を語る前に歴史を学べ。アホか。

個人的には女系の天皇もアリだとは思う。天皇家の神祖は天照大神という女神であったりもする。また、第26代の継体天皇など、実は皇室の万世一系にも疑問点は幾つかある。大切なのは、歴史時間を超越する共同幻想を(その国のプラスになるように)国家や国民が抱けるかにあって、それが成立し得るのなら「女系」天皇は喜んで迎えられるだろう。

大いに「女系論」を議論してもらいたい。「女帝論」ではなく。

この国のかたち

それにしても、天皇制の継続と同じくらい、否、それ以上にその終結に興味がある。そのような場合、皇室の持つ動産不動産書画骨董古文書資料はどうなるのであろうか。これらが全て国民共有のものとして開示された際には、日本史の書き換え作業が 100年以上は続くだろうな。日本観というものが根底から覆る可能性は高い。「日本」の本当の形がわかった瞬間、これまでの「日本」が崩壊するというような、アンビバレントな状況である。

ゴルゴ13 はいつまでも続いてほしいが、その最終回も見てみたい、というのと同じ気持ちだな。問題のボリュームは全く異なるけれど。不埒な日本人で申し訳ない。

研究日記

月曜恒例の午前様。今夜はボス、先生、俺という面子で、焼鳥屋にて三者面談。話題は相も変わらず、先生の留学について。留学したい先生と、手元に残ってほしいボスとの間で、俺はいつも板挟みである。俺はボスから給料を貰い、先生から指導を頂戴している。両方の味方をしたいが、どちらの味方もできない。

ところで、この焼鳥屋にはいつもビートルズが流れている。

ボス「ビートルズも言ってるじゃないか。Get back to where you once belonged.」
先生「そんなあ」
俺 (Let it be...)

2005/11/27/Sun.

標準に準拠しろと、要するにこれだけが言いたい T です。こんばんは。

Web 日記

いつの間にか Opera の version が 8.5 になり、ついに広告の表示がなくなった。Firefox のダウンロード数が 1億を越えた今、ブラウザに金を払おうという人もいなくなったんだろうな。自宅では Mac/Safari、職場では Win/Firefox という組み合わせで使っているが、これからは Opera も積極的に使うかもしれない。良いブラウザであることは以前から認めている。

Mac ユーザ歴 10年の俺には残念なことだが、上記 3者の中で、Apple 謹製の Safari が最も低機能である。Safari が登場したときはまだ Firefox もなく、客観的に見てもかなりの性能だったが、そこからピタリと進化が止まってしまった。

まァ、世の大部分は Win/IE だから、作り手としてはあまり関係ないんだけどね。ここもたまには IE でチェックしないとなあ。

2005/11/26/Sat.

クソポエムは斬新な表現の宝庫と、ごくたまに重宝している T です。こんばんは。

パロディ詩人

どうも詩歌が苦手である。まどろっこしい。言いたいことをハッキリ言えんのかと思ったりする。もっとも、これは俺の感受性に問題があるのであって、詩歌の良さがわかる人を羨ましいとも思う。

言語を「情報伝達の手段」として考えたとき、詩歌による伝達の精度は、受け手によって大きく左右されるという特徴を持つ。伝わる人には 200% で通じるが、わからない人には一向わからない。まともな日本語であれば誰にでも 80% くらいは通じるであろう散文とは、ここが決定的に違う。

したがって、俺は詩歌を作ることもない。作るとしたら、何故かいつもパロディになってしまう。同じようなことを筒井康隆も書いていた。何となく理由はわかる。詩歌によって伝えたいものがないため、題材が常に他者になってしまうからだろう。

クリスマス 我泣き濡れて まらを慰む

上記は、通勤途中に作った川柳。アホである。こんなものならいくらでも作れるが、何の自慢にもならない。大学生の頃は、サークルの部誌に冷やかしやパロディを書き連ねていた。あいだみつをなんかは、もう何回ネタにしたことか。パロディとは、斜めから物事に接する態度のことである。したがって、対象が真っすぐであればあるほど、角度が鋭くなる。鋭利過ぎて、ここでは公表しかねるが。

大衆詩人

もう少し詩歌について考えてみる。大衆から圧倒的に支持される詩人、というのはあり得るのだろうか。小説家ならばあり得るし、実例もある。今はその流れが映画となっていて、例えばハリウッドの娯楽超大作であれば、まァ誰が見ても面白いものだし、そのように計算して作られてもいる。それが詩歌で可能か?

この問題を考えるには、まず「詩」を定義しなければならないが、ちょっと手に余る。またいずれ、機会を改めて論じてみよう。問題提起だけしておく。

2005/11/25/Fri.

そろそろふりかけにも飽きてきた T です。こんばんは。

「赤子の手をひねるような」という形容がある。極めて簡単な、の意である。しかし、まともな人間であれば、赤子の手をひねり上げるのは非常に難しい。少なくとも俺にはできない。

ところで、「天皇陛下の赤子」という言葉がある。以前、これを「天皇陛下のあかご」と読んだ人間がいてビックリした記憶がある。無論、「せきし」と読むのが正しい。

赤子(せきし)
(1) あかご。ちのみご。(2) (天子を父母にたとえるのに対して) 人民のこと。「願くば陛下の - をして餓ゑしむる勿れ/自然と人生 (蘆花)」(大辞林)

徳富蘆花の例文が楽しい。『自然と人生』と題した文章で、「陛下」や「餓ゑ」が出てくるあたりに時代を感じる。2005年の日本で、同じタイトルの文章を 100人が書いても、まず出てこない単語だろうな。今度は「徳富蘆花」を引いてみる。

徳富蘆花
(1868〜1927) 小説家。熊本県生まれ。本名、健次郎。兄蘇峰の民友社社員を経て、「不如帰」により文壇に独自の地位を確立。トルストイの影響を受け、キリスト教的人道主義の立場に立ち、粕谷(東京世田谷区)で半農生活に入り、「生活即芸術」の文学をめざした。作品に「自然と人生」「思出の記」「みみずのたはこと」など。本人は姓に「冨」の字を用いた。(大辞林)

素朴な疑問だが、キリスト教の信仰と、天皇陛下への崇拝は並立するものなのだろうか。まァ、元々日本は神仏習合の国であって、このような大らかな姿勢こそ日本人らしいともいえる。

そういえば、睦月影郎という興味深いエロ作家がいる。この人は熱心な国粋主義者であり、ならやたかし名義で「ケンペーくん」という漫画も描いている。現代に蘇った憲兵 (ケンペーくん) が、軟弱な若者共を軍刀で八つ裂きにするという過激なものだ。しかし、エロ本作家など、時代が時代ならば一番最初に筆を折らねばならない職業である。あの江戸川乱歩でさえ、一部の著作が発禁、しばし活動を控えていたのだ。自分が憲兵と化して日本を糺すことと、自分がエロ作家であることは、睦月影郎の中でどのように整合されているのだろうか。深く考えるとわからなくなってくる。

Web 日記

「Photo Album」にアップする写真のサイズを軽くした。昨日はプログラムに頭がいっぱいで、デジタルカメラで撮影したファイルをそのままアップしていたんだけれど、生データってメチャクチャ重いんだよな。撮影日時とかのメタ・データも入っているし。一手間かけて、サクサク動くように心がけた。画質に妥協はしていないので、充分観賞に堪えられると思う。撮影者の腕の保証はしかねるが。

2005/11/24/Thu.

「Photo Album」という画像閲覧用のプログラムを組んでみた。サムネイルで画像を一覧表示、各々のリンクをクリックすれば高画質の写真とコメントが表示されるという簡単なものである。

写真をアップすると言いつつ(8月 24日8月 21日、そして 5月 3日……)長らく放置していたが、とまれ実現にこぎつけた。これまでサボっていたのは、アルバム的なものではなく紀行文的なものを俺が念頭に置いていたから。紀行文を書くのは面倒臭い。それでもう、アルバムにしてしまうことにした。写真は大きなものを(ちょっと重いけど)、コメントは簡単に。あとはプログラムに任せて、ドンドンと写真をアップした方が見る人も俺も楽しいんじゃないかと思ったのである。

一応、書いておく。アップされている写真は御自由に使って下さって結構です。それでは御笑覧を。

2005/11/23/Wed.

思えば、大学の研究課題で最初に必要になった実験が PCR だったなあ、と回想している T です。こんばんは。

勤労感謝の日

ラボへ。「何が勤労感謝の日だ」と思ってしまいそうになるが、少し落ち着いて考えてみる。例えば自分が学生だった頃、勤労感謝の日に感謝したことが一度でもあったか。……こうして因果は回るのだなあ。

研究日記

Q-PCR
Quantitative PCR の略。「定量的 PCR」とでも訳せば良いか。Real-Time PCR ともいう。PCR 産物をサイクルごとに定量することで、PCR 産物の増加曲線が得られる。プライマーの条件がサンプル間で同一ならば、曲線のシフトは鋳型量の相違を意味することになる。細胞内で転写された RNA の定量などに用いられる。
BigDye
シーケンス反応(塩基配列の決定)に広く用いられている Applied Biosystem 社製の試薬。(メーカー推奨の濃度で使用していると)非常に高価。したがって、ギリギリまで試薬を希釈する試みが各ラボで行われている。シーケンサーが高性能ならば最大 1/64 まで希釈できる、とは営業マンの言。ぼり過ぎやろ。ヒトゲノム・プロジェクトで実際に BigDye が使われていたのかは知らない。

最近、Q-PCR の面白さにハマりつつある。バカな感想で申し訳ないが、一番最初、本当の本当に感動したのは、「PCR ってホンマに 1サイクルで 2倍になるんやなあ」ということ。この事実を視覚的に確認できたのは、何というか、ちょっとしたショックだった。もちろん、実際の解析も楽しいんだけれど。

概念図は頭に入っていても、実際に途中経過を分子レベルで確かめられる実験って、思ったより少ない。見てきたようなイラストはいっぱい溢れているけどね。成分は企業秘密です、という試薬やキットもよくある。ブラック・ボックスは、意外とそのへんに転がっている。

さて、PCR は分子生物学が生んだ最も簡便にして奥が深い技術である、という話はよく聞く。確かにその通りで、PCR の操作は高度に自動化されており、ただ DNA を増やすだけなら誰だって増やせる。そのくせ、どツボにハマるときは徹底的にハマる。鋳型やプライマーの配列、アニーリング温度、反応時間、サイクル数、酵素によって、結果が全く違うということもよく起こる。「PCR なんて余裕余裕」などとナメていると事故に遭い、その奥深さを再認識させられるわけだ。

PCR は、その応用もまた格段に広い。塩基配列の決定、遺伝子のクローニング、変異体の作成、RNA/DNA の定量などなど。「PCR は今年で誕生 20年」という話は以前に書いたが、改めてその事実に驚かされる。

もうちょっと単価が安くなれば言うことないんだけどなあ。ヒトゲノム・プロジェクトでは、いったい何ガロンの BigDye を使ったのだろうか。1リットルの容器に入ったピンク色の BigDye が、フリーザーの中で何本も凍っていたりするのだろうか。恐ろしいな。

2005/11/22/Tue.

生きるだけで精一杯の T です。こんばんは。

教師であるとか警察官であるとか、あるいは僧侶や神父といった宗教者、それから医者もそうだな。これらの職業に就いた人は、職場や勤務時間を離れた時と所でも、その職業の人であることを求められる。休日に出会っても学生にとって先生は「先生」であるし、医療器具の全くない状況で病人が出ても医者は「医者」であらねばならない。また、周囲の人間がそうであることを求める。冒頭で述べた職種は職業であって、同時に生き方でもある。

つまり、死ぬまでその職業の人なのだ。元労働者の犯罪はいっぱいあるが、元警察官に限ってわざわざ「元警察官」と書かれる。教師の葬式では教え子が弔辞で「先生」と呼びかける。十字架を背負ったようなもんだ、というのは言い過ぎか。

研究者というのは、ややそちら方面の職業であるように思われる。「研究者らしく」という外部からの要求があまり強くないのは、単に世間的な認知が低いからであって、内輪や自己意識というレベルでの職業に対する自覚という点では、かなりの線を行っているのではないか(良くも悪くも)。実際、多くの人が「生き方」という観点からこの職業を選んでいるとように感じる。

以上は、決して美談でも何でもない。職業が即生き方であるということは、常に仕事が私生活を簒奪する、少なくとも簒奪しがちであり周囲もそれが当たり前だと思っている、ということでもある。仲間意識が強い反面、生き方の変更は「変節」「挫折」ととらえられがちになる。そもそも変更すること自体が難しくなっている場合もあろう。ま、大袈裟にいえば、だけれど。

逆にいえば、「生き方を選ぶ」とはそのようなことを意味するのかもしれない。

2005/11/21/Mon.

人が見ないものは大抵面白いものだと思っている T です。こんばんは。

文庫の最後の方に、経営者もしくは発刊者による「刊行に際して」といった類いの文章が掲載されている。俺はこれらの宣言が好きであり、ときどき興味深く読んでいる。各社とも堅牢たる文章をもって、自社文庫の意義を高らかに謳い上げている。幾つかの文庫から、それぞれキモになりそうな部分を抜粋して比較してみよう。

文庫小史

まずは最も古い岩波文庫から。

読書子に寄す -岩波文庫発刊に際して- 岩波茂雄

真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。(昭和二年七月)

まことに格調高い。ときに昭和 2年。このようなアカい主張を堂々とするあたり、さすが岩波である。彼らの志は、戦争を通じてどうなったのであろう。戦後まもなく刊行された角川文庫には、こうある。

角川文庫発刊に際して 角川源義

第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。(中略)角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき豊富と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。(一九四九年五月三日)

何ということだ、「単なるあだ花」だったのか。日本人は深い反省を抱きつつ、戦後の歩みを始める。高度経済成長を遂げた日本の「若い文化力」は、果たして成熟に向かったのだろうか。

講談社文庫刊行の辞 野間省一

二十一世紀の到来を目睫に望みながら、われわれはいま、人類史上かつて例を見ない巨大な転換期をむかえようとしている。(中略)激動の転換期はまた断絶の時代である。われわれは戦後二十五年間の出版文化のありかたへの深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求めることなく、長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか、今後の出版文化の真の繁栄はあり得ないと信じるからである。(一九七一年七月)

またしても「あだ花」! 深い反省に立った日本人は、「人間的な持続」によって「出版文化の真の繁栄」を目指す旅に出た。そして二〇〇〇年、岩波からその名も「岩波現代文庫」が発刊される。

岩波現代文庫の発足に際して

新しい世紀が目前に迫っている。しかし二〇世紀は、戦争、貧困、差別と抑圧、民族間の憎悪等に対して本質的な解決策を見いだすことができなかったばかりか、文明の名による自然破壊は人類の存続を脅かすまでに拡大した。一方、第二次大戦後より半世紀余の間、ひたすら追い求めてきた物質的豊かさが必ずしも真の幸福に直結せず、むしろ社会のありかたを歪め、人間精神の荒廃をもたらすという逆接を、われわれは人類史上はじめて痛切に体験した。(中略)いまや、次々に生起する大小の悲喜劇に対してわれわれは傍観者であることは許されない。一人ひとりが生活と思想を再構築すべき時である。(二〇〇〇年一月)

連綿と続いた日本人の歩みは、「社会のありかたを歪め」「人間精神の荒廃をもたらす」という結果に終わった。さあ、我々はまたしても深い反省に立ち、自らの生活と思想を再構築だ!

……疲れるっちうねん。

2005/11/20/Sun.

暖房を点けっぱなしにしているため、光熱費が若干心配な T です。こんばんは。

別段、深刻な話ではない。いささか抽象的な話題である。

切羽詰まった問題ではないからこそ、今の内に考えておかなければ気付いたときには手遅れになっている、ということは大いにあり得る。これが「先延ばし」というまことに人間的な行為である。我々は時間を遡行することができぬため、しばしば問題となる。

今週は比較的時間があり、胸に去来する様々なことどもに考えを巡らす余裕もあった。3年後、5年後に思いを馳せては溜息を漏らす、というのは愚かな悲観主義であろうか。何も厭世的になっているのではない。そのような事柄を真剣に考えられるようになった、そういう意味では、やはり進歩なんだろう。就職して目に映るものが増えたために、悩む(とは少し違うんだけれども)ことができる。恐ろしいのは無知である。

転ばぬ先の杖、という。今は、その杖を作っている段階なのだろうな。日々の生活とはまた、全く次元を異にする問題である。現在の暮らしに不安や不満はないけれども、それゆえに、この問題がどこかに浮遊しないよう、常に監視しておく必要がある。目を逸らすことがなければ大丈夫だろう。

2005/11/19/Sat.

ふりかけっていつ頃からあるのだろうと疑問に思った T です。こんばんは。

調べてみたら、ふりかけの起源は大正年間にあるらしい。意外に新しい。ところで、たまにふりかけだけで御飯が食べたくなることがあるのは俺だけか。早速ふりかけを大人買いして、昨日から 5合くらいの飯をふりかけだけで食べている。なんて美味しいんだろう。そして、なんて安上がりな人間なんだろう > 俺。

研究日記

ラボに転がっていた実験医学だか細胞工学だか(どちらも雑誌の名前である。一応)に、「研究者の VSOP」とかいう小噺が載っていた。すなわち、

らしい。50代でようやく personality ってのもどうかと思うが。「〜代は」という部分はいらない気もする。「研究者に必要なのは、variety, speciality, originality, and personality」といわれれば、フムとうなずける。しかしこれ、どの仕事にもあてはまるのでは。

と思って検索したら、某社の社長挨拶がヒットした。どうも研究に限った話ではなく、一部のオジサマ達の間で浸透している言葉のようだ。Variety ではなく vitality という説もある。

オヤジ・ギャグか、と片付けてしまうのは容易なんだが、不覚にも(?)少し考え込んでしまった。いや、確かに悪い話ではないんだけどね。だけど「VSOP」ってあたりに、どうにも隠せない匂いが漂ってるよなあ。VSOP だもんなあ。ちょっと恥ずかしいよな。

2005/11/18/Fri.

いもけんぴを食べている T です。こんばんは。

「いもけんぴ」は漢字で「芋堅干」と書くんだなあ。なるほど、と感心する。

忙しさ自慢

今日は休み。土日返上の代償である。何日ぶりの休日かを考えると気が遠くなるので、過去ログの検索はやめる。しかし少なくとも、今月に入ってからは初めて、である。

なんてことを書くと「忙しさ自慢」になってしまうので、少し話をずらす。塩野七生『男たちへ』中で、次のように述べている。

男というのはオカシな動物で、自分が才能豊かな男であることと忙しいことは、比例の関係にあると思いこんでいる。私などは、そんなことはないと確信しているけれど、男のほうはなぜか、とくに日本の男の場合はほとんどといってよいくらい、忙しければ忙しいほどたいした男であり、それを女に誇示する傾向から無縁でいられない。

(『男の色気について (その三)』)

ここまで書かれると笑うしかない。もちろん大当たりである。男、それも俺のような自信過剰気味の男には耳の痛い忠告だろう。

俺自身、「忙しい、疲れた、などと自慢気にする人間は好きではない」だの、「あまり『忙しい』とは言いたくない。言い訳になっちまうんだよな」だのと書いているが、これは全く裏返しの現象であって、つまり、これほどまでに自分で抑制しなければ、すぐに「忙しい」と言ってしまいそうになる、ということでもある。かように「忙しさ自慢」の誘惑から逃れることは難しい。

忙しがってはいけない

では、「忙しい」と思ってしまうことは悪なのか。この問いに対しては、明確に「否」と答えることができる。「忙しい」という感情の中には、現状への不満や愚痴と同時に、自信や矜持も含まれる。忙しいのが本当にイヤであれば、人員削減のこの御時世、ヒマになることは非常に簡単だ。それでも忙しい毎日を送るのは理由があるからで、そのためにはモチベーションの確保やガス抜きも大切である。「ああ忙しい」と大いに誇る(愚痴る)べきだ、自分に向かっては。人間性を超越したストイックさを、俺は拒否する。忙しいものは忙しい。

であるからこそ、他者に対してその感情を抑制するときに、人間的な美が顕現する。要するに「忙しがってはいけない」ということ。多忙に幸あれ。

本屋日記

本屋に行く。ついにユリウス・カエサル『ガリア戦記』を買ってきた。「カエサル著」という文字列が笑える。神君だからな。日本でいえば「応神天皇著」みたいなものか。

購入した『ガリア戦記』は、近山金次の訳による岩波文庫版である。ネットで調べたところ、近山訳がなかなかの評判だったからだ。ところで、この『ガリア戦記』の近くにニーチェの本もあったのだが、その題名が『ツァラトゥストラはこう言った』となっていて愕然とした。何だそれは。『Thus Spake Zarathustra』の邦訳は、『ツァラトゥストラかく語りき』で長い間統一されていたはずだ。これはもう、固有名詞である。だいたい、『ツァラトゥストラはこう言った』というタイトル、目茶苦茶つまらなさそうじゃないか。頭が悪過ぎる。何を考えているのか、岩波。アホか。

一方、角川文庫からは鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』というものが出ていた。京極夏彦や水木しげるのブームに便乗した商品なのだろうが、なかなか凝った造りの本である。良い世の中になったなあ。解説は多田克己。巻末には索引も付いている。

その他にも数冊を購入。今日の本屋は俺にとって「当たり」だったようで、面白そうな本が次から次へと見付かる。年に何度かある、幸福な機会である。おかげで散財してしまったけれど。

2005/11/17/Thu.

今週は週末に書き溜めた日記を平日に小分けにして出している T です。こんばんは。

平日は書くことも時間も気力もなく、その反動でやたらと週末の日記が長くなっていたが、何も書く日とエントリーする日が同じでなくとも良いのである。どうも日記を更新しないと落ち着いて眠れないのだが、これで苦悩の夜ともおさらば。

閑話と記憶

覚えなくても良いようなことに限って、強烈に頭に残ったりする。それが全く興味深くなかったりしても。記憶の不思議な一面である。覚えなければならない事柄が満載の教科書なのに、10年経って記憶に残っているのは、ページの埋め草に過ぎなかった囲み記事の内容だけ、という経験は誰にもあるのではないか。

明確な定義は難しいが、「閑話」というものは確かに存在する。小説のストーリーは忘れてしまったが、本筋に関係のないエピソードは覚えていたりする。これを「閑話作用」と呼ぼう。「閑話休題」という言葉もある。ヒドい小説だと、閑話の方が面白かったりする。「休題するな」と思うこともしばしばだが、やはり閑話は休題されるべきものである。否、休題することによって、閑話は閑話となる。

休題による閑話の成立は、閑話をして、首尾結構整った論理的整合性への欲求から自由にする。要するに、短くて尻切れトンボでも良い、ということだ。したがって、完成度の高い叙述に比べ、閑話は読者に批判と思考の機会を多く提供する。頭脳の行使は記憶の保持に直結する。これが閑話作用の原因ではないか。

閑話と体系

この日記は閑話の連続である。俺自身はそれに満足しているが、以前にも書いたように「それらを体系的にまとめることができないか」とも考えている。言うは易く、行うは難し。体系化とは、その典型例である。

ただ閑話を並べる、つなぎ合わせるだけでは「体系化」とはいえない。体系化には、一貫した整合性が求められる。一方、日々書き殴っている閑話は、最初からそのような姿勢を拒否している。これらをまとめ上げるくらいなら、一から書き直した方が恐らく早い。ロジカルな基盤を与える、といえば聞こえは良いが、体系化において作者が行っているのは、自己弁護であり、読者からの予防的防御である。それらが成ったときに現れる秩序は、それでまた美しく至便であるかもしれない。しかし、そのために必要な時間で、いったい幾つの閑話が書けるであろうかと考えると、本当に体系化が生産的な行為であるのか、という疑問もまた生まれる。

そもそも、全ての事柄が体系化可能であるとは限らない。「物理体系」はあり得ても、「文学体系」は多分無理であろう。もちろん、互いに撞着する要素を抱えた体系も存在する。だが、その事実を説明するには相当の労力がいる。それなら、矛盾したまま独立した閑話として提供する、というのも一策ではある。言い訳がましい論理への執着を読むのに飽きた読者が本を投げ捨てるくらいなら、ポンポンと閑話を並べておく方が、よほど気が利いている。

文章は、読まれなければ意味がない。これは、俺が文章を書く上で最も根底に置いている考えでもある。そして「読みやすさ」という点において、閑話ほど優れた形式はないんじゃないか。閑話万歳。

2005/11/16/Wed.

寒くて起き上がるのが億劫な T です。

結婚記念日だとかで、両親が京都へ旅行に来ている。今夜は彼らと合流し、祇園で飯を食ってきた。

京都に来ているといえば、ジョージ・ブッシュ米大統領である。おかげで狭い京都の街は警官だらけだ。東京赤坂に続く、我が国 2番目の迎賓館が京都御苑に造られた。彼はそこに滞在したのである。ブッシュ大統領の歓待は、こけら落とし的な意味もあるのだろう。京都迎賓館を最初に利用したのはパラグアイの大統領らしいが、そのときは主賓室を用いなかったらしい。

外国人を招待するという面では、京都ほど日本で喜ばれる場所もないだろう。一方で、政治都市としての京都の寿命は、かなり以前から尽きている。特に、現代的な国際政治都市の観点から見れば、京都の地政学的な立地条件は落第とするしかない。

海に面しておらず、空港もない。道路は貧弱で、広大な敷地もないし、かといって街を拡張する余裕もない。政治をするにもビジネスをするにも、その文化はあまりにも婉曲的に過ぎる。武士による強力な政権が樹立されたとき、いずれも京都は再利用されなかった(室町幕府については考察の必要があるが、ここでは触れない。しかし少なくとも、かの幕府は「強力」ではなかった)。しかるに、明治維新の際には、東京は再利用されたのである。また、大阪遷都論というものもあった。大阪も再利用に耐える政治都市だったのだ。近世以降の京都は政治都市として機能していない。その点では、奈良も同じである。そして、京都と奈良の地理は似ている。

こんな狭苦しい盆地に文明的な首都があったのは、ひょっとしたら日本だけではないか。東京や大阪は、日本ゆえの狭さがあるとはいえ、世界の諸都市と通じる地理的要因がある。このことに関しては、いずれまた考えてみたい。

2005/11/15/Tue.

マウスをサクってきた T です。こんばんは。

働き出してから知ったことだが、実験動物を殺してデータやサンプルを取得することを、俗に「サクる」という。「サクリファイスする」の略である。Sacrifice は「犠牲・生贄」という意味の単語だが、これは動詞でもあることをそのとき知った。また、彼らのための「動物慰霊祭」という行事が行われていることも知らなかった。俺も一度覗く機会があったが、なかなか厳粛な祭事である。

さて、実験生物はどのあたりから尊い犠牲として認識されるのだろう。まさか大腸菌や酵母を「サクる」という人はいないと思うし、線虫でもそのようなことはなかった。ショウジョウバエでもそうだと思う。ゼブラフィッシュはどうなんだろう。一応、ここから脊椎動物だ。アフリカツメガエルは? 爬虫類なら、トカゲが最も用いられているだろうか。やはり「サクる」のか。さすがに鳥類なら「サクる」と言いそうな気がする。毛の有無が重要なラインになりそうだな。

今日は大学で、マウスの sacrifice の手伝いをしてきた。麻酔をかけ、体重を量ってから心臓を摘出する。心臓は重量を計った後、冷凍保存する。生理食塩水に満たされたチューブに移してなお動き続ける心臓を見ていると、色々考えることもある。マウスの尊い命が、などと敬虔な想いになるほどオボコではないけれど。肉屋が豚の気持ちを一々考えていたのでは仕事にならない。そういう意味である。

2005/11/14/Mon.

「ちゃりんこチエ」という言葉が頭に浮かんだ T です。こんばんは。

確かに「じゃりんこチエ」には自転車がよく似合う。しかし似合い過ぎて、ギャグとしてはつまらない。

ここがヘンだよ、中国語

中国人は非常に大袈裟な民族であって、それを端的に証明しているのが、彼らの操る中国語であり、日本語となって久しい膨大な漢語群である。わざわざ「漢語」と説明しなければならないくらいの昔より、我々は中国語を使っている。普段は意識することもないが、虚心になって味わえば、まことに奇妙な単語・成句がいっぱいある。

没頭
我を忘れるなんて騒ぎじゃない。頭が没するのである。
杞憂
天が落ちてくるのではないかという、杞の国の人の不安を揶揄した言葉。しかしいくら悲観的な人でも、そこまで病的な心配の仕方はしない。
怒髪天を突く
怒ると髪の毛が天を突くのである。普通は突かない。
白髪三千丈
愁いごとがあると、白髪が 9090.9 m まで伸びるという。頭髪の伸長速度には個人差があるが、かなり速めに見積もっても 0.5 mm/日。3,000丈になるには 49,813年を要する。中国 5,000年の歴史では足りない。

レトリックとサイエンス

とまあ、これらが修辞的表現であることは俺もわかっている。ところが、こんな鬼面人を驚かすような(これも凄い修辞だ)レトリックで文を飾り立てることばかりが求められていては、そこに客観性、ひいては科学的な思考が育たないのではないか。

長らく中国語の影響を強く受けてきた日本語だが、それが一挙に弱まるのが明治維新である。その経緯は司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 12』に詳しく、書評でも触れた。ここで俺が注目したいのは、西洋近代科学の輸入と、新たな文章表現としての写生文の勃興が時期を同じくしている点だ。科学的客観性を記述するための日本語が求められ、同時に、日本語の新たな範(の 1つ)を西洋的合理主義に求めたのは、相互補完的な現象ではないだろうか。

寺田寅彦や南方熊楠といった科学者が見事な散文をものにし、森鴎外という医学者が素晴らしい小説を書く。これは単なる偶然ではないような気がする。彼らの文章を精査したわけではないが、大仰な表現を多用しているという印象はない。むしろ抑制されている方だろう。

夏目漱石は科学者ではないが、漢籍と同じくらいに英文にも通じている。その彼が漢語をどのように扱ったかは、『吾輩は猫である』を読めばすぐにわかる。漢語のギャグ的要素を、そのまま「ギャグ」として用いた最初の近代小説かもしれない。それほど彼は漢語に対して醒めていた。つまり、漢語に頼らない新しい日本語を手に入れていたのである。

漢語からの脱却と近代科学の開花は、絶対に関係があると思うのだが。

2005/11/13/Sun.

T です。こんばんは。

掃除と洗濯をして、午後から仕事。菊花賞のときほどではないが、今日も電車は競馬新聞を読む人で埋まっている。その中で、黙々とカエサルについての本を読む俺。彼は暗殺された瞬間、何を思ったのだろうか。憤怒。驚愕。落胆。悲哀。まさか安堵ではあるまい。

文章の機能的側面

昨日の日記の続き。

文章の本質は情報伝達である。したがって、正確に情報の意味が伝わる文章こそ良い文章である、といえる。情報といっても千差万別だ。一般的な知識から、俺の個人的な感想まで、文に書かれてあること全てが情報であるといっても間違いではない。そこで重要なのが、情報の種類をできるだけ明確にすることである。

あくまで俺の日記における(原則的な)例だが、個人的な感想などは口語で書く。個人的な経験では「俺」という一人称を使う。私的な体験でも、それが客観的な事実であれば、別に「俺」を使わずとも良い。伝達の恣意性を廃すため、普通は常態文を使う。逆に、感謝などの個人的な感情を伝達するためには「です・ます」を使う。

改めて列挙してみると変な感じがするが、これらは「テクニック」というほど大袈裟なものではなく、ごく自然にそうなる、といった態のものである。意図的に破ることもある。マニュアル化が進めば進むほど、それを破ったときの効果は(良きにつけ悪しきにつけ)大きくなる。そこに新たな何かが生まれる可能性もある。そのような話は「誤用と正規表現」で書いた。

文章技術なんて、しょせんその程度のものであると俺は考えている。意識的に勉強と訓練をすれば、いずれ手に入る。でも、それだけじゃないところが奥深いんだな。

文章の娯楽的側面

さて、「文章の本質は情報伝達である」ことは疑いようもない事実だが、それは機能的な側面に過ぎなかったりもする。文章には娯楽的な面もある。内容がなくとも、そのテキストを読むこと自体が愉悦である、という楽しみ方もある。前者が歌詞重視の歌曲、後者がメロディやリズム重視の楽曲と比喩するのは、誤謬が大き過ぎるだろうか。歌曲でもメロディが大切であるし、楽曲でも歌詞が素晴らしいに越したことはない。それは文でも同じである。

いかに情報の伝達精度が高くとも、それが六法全書のような書き振りでは誰も読まなくなるだろう。つまり、文章の欠くべからざる要素として、「文体」というものを考えなければならない。しかしこの話を書くと長くなりそうなので、また今度。

一つだけ忘れない内に書いておく。機能性と娯楽性は、少なくとも文章において背反ではない。その点が、一般的な道具や機械とは異なる。かといって、両者が常に正の相関関係にあるわけではない。どちらもダメダメ、という相関を示す例文ならいくらでもあるが。カエサルの文章が傑作と称えられるゆえんは、両方を最高レベルで兼ね備えているからであろう。余人あたわざる芸当である。

shuraba.com Mobile BBS

携帯端末用「shuraba.com Mobile」から BBS の閲覧・書き込みをできるようにした。

チェックと勉強を兼ね、ここを含めたいくつかのサイトを自分の携帯電話で利用してみたのだが、これは結構ハマる要素があるな、と今更ながらに思った。単に物珍しかっただけなのかもしれないが。携帯電話の利用法では、いまだにオッサン・レベルの俺である。

俺は携帯電話のメールが好きではないのだが、それには 2つの理由があって、

  1. すぐに返信しなければならないという風潮があること。
  2. 文字を打つのが面倒臭いこと。

要するに「入力」がウザいからなのである。一方で、web の閲覧は受動的な行為であって、端末画面の小ささを我慢すれば(我慢できるような構成であれば)、これはこれで結構楽しめる。いやはや、食わず嫌いであったようだ。

2005/11/12/Sat.

水槽にカビが生えていたインキュベーターで細胞を培養していた T です。こんばんは。

今日も仕事。被害が出る前に、インキュベーターを大慌てで消毒し、滅菌をかける。犯人探しをしてもせんないことだし(自分が犯人かもしれないのだ)、気付いた人間がやるべきことではあるのだが、休日であるゆえに、「何で俺が余分な仕事を」という気持ちがどうにもぬぐえない。修業が足りんな。

ベンチを贅沢に使ってさっさと実験を終わらせる。

カエサルの文章

先日からユリウス・カエサルに関する本を少しずつ読んでいる。といっても、塩野七生『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前』および『ルビコン以後』の再読なのだが。本当はカエサル自身の筆による『ガリア戦記』も読みたいけれど、『ガリア戦記』となると大きめの本屋に行かねばならず、いまだ果たしていない。Amazon で買おうかとも思ったが、家にいる日がないので何の意味もない。二度手間だ。

などと忙しさを愚痴っている自分が恥ずかしくなるのだ、カエサルについて読んでいると。彼の文章の第一の特徴は、徹底した客観性にある。ガリア戦役は彼自身の戦争であり、それについて彼自身が書いている。なのに、その文章が非常に客観的であるため、「カエサルは自己の困難や多忙について無関心である」という印象を読者に与える。格好良いんだな、これが。彼が本当に無関心であったかどうかはわからないし、その効果が意図したものであったかどうかも、俺は知らない。そこがまた実に良い。

我が文章

そこで自分の日記を顧みる。俺も文章に興味があり、日記を書く上で幾つかの制約を設けている。その中の一つに、「虚偽は書かない」という条項がある。やってみればわかるが、厳密に適用しようとすると、これは結構難しい。この日記は報告書ではない。私的な文章であるから、都合の悪いことや書きたくないことは書かない。そうすることで制約の遵守を保っている。「嘘を書いてしまえば簡単なんだがなあ」と思うことも、ままある。禁じているのは、2つの理由による。1つは、日記の「記録」としての信頼性を重視しているため。1つは、嘘をつき通すのは非常に難しいため。嘘がバレてかく恥ほどつまらないものはない。

自分の主張を他人に押し付けるつもりはない。ネット上で、架空の人格を装う楽しみがあることも理解している。その技術がある水準を上回れば、それは「演技」となり、立派な「エンターテイメント」になることもわかっている。実際に、そのような練達の web ページは非常に愉快だ。

逆にいうと、文章というものは、よほどの力量がないと、書いた人の人格をあからさまに反映してしまうという性質を持つ(その反映を読み取るにはまた、読む技術も必要であるが)。ここが面白いところであり、怖いところでもある。「文は人なり」という成句もある。

というわけで、明日は自分の文章を簡単に分析してみることにする。

2005/11/11/Fri.

唇に火傷を負った T です。こんばんは。

研究日記

今日から先生が 2週間ほどの海外出張。先生のグループの研究や雑用は、一時的に俺が預かる形となる。

俺 1人ならば、大したことではない。実験を控えめにしてデスクワークを肩代わりしつつ、時間が余ってしまえば論文でも読んで勉強しておれば良い。が、話はそれほど単純ではなくて、例えばテクニシャン嬢の仕事を用意しなければならない。彼女は週末には休むので、土日に俺が実験の続きをしなければならなかったりする。もちろん(ってのもどうかと思うが)、明日、明後日も出勤。なかなかに忙しい。

先月からほとんどまともに休んでいないので、さすがに週日の 1日を休ませてもらうことになった。1人暮らしゆえ、諸々の機関が稼働している週日に休みをもらう方が、生活を回していく上で便利だったりする。土日は人のいないラボでじっくり実験できるから、悪いスケジュールじゃない。恒久的な制度にしてもらおうかしらん、と目論んでいる。

今夜は、ボス、テクニシャン嬢と 3人で焼き肉を食ってきた。ボスは酒に弱いが、酒自体は好きだし、そしてそれよりも酒の席が好きという人である。何だかんだで、かなり御馳走になってしまった(飲み食いさせられた、ともいう)。

無精日記

臨床検査技師嬢から「靴下、破れ過ぎですよ」と注意される。靴下を買いにいくヒマもないんだ。ゴメンよ。捨てれば良いだけ、という話もあるけれど。

俺は外見に無頓着な男である、ということはもう何度も書いた。靴下が破れているくらいは余裕である。就職してから少なくなったとはいえ、今でも仕事で午前様が続いた日なんかは、寝癖爆発の無精髭で出勤することもある。我が職場には女性が多く、そこはかとなく注意されることもしばしばである。

昔は「ほっといてくれ」と思っていたが、今では非常にありがたいことだと考えている。20代も半ばになり、俺も少しは女性の残酷さを知るようになった。本当にみすぼらしくて不潔な男に対しては、女性は注意を喚起しないものである、というくらいの認識はある。一々指摘されるたびに、「ああ俺はまだ堕ち切っていないのだ」という安堵を覚える。感謝感謝の毎日だ。

2005/11/10/Thu.

正解とは何だろう、と考える T です。こんばんは。

物凄く問題が難しい「世界ふしぎ発見!」があったらイヤだな。例えばこんなの。

ミステリーハンター「1582年、権勢の絶頂期にあった織田信長は、上洛した際、本能寺に泊まりました」

ナレーション「天正 10年 6月 2日、丹波より発した明智光秀の軍勢が本能寺を囲んだ。周囲をとりまく水色の桔梗を見た織田信長は、『是非に及ばず』と呟いたと伝えられている。奮戦後、燃え盛る本能寺の中で信長は自刃。明智軍の必死の捜索にも関わらず、ついに遺体は発見されなかった。享年 49歳であった」

ミステリーハンター「それでは、ラスト・クエスチョン。光秀はなぜ、謀反を起こしたのでしょう?

♪チャラララチャラララチャラララチャララララ〜

草野仁「それではお答え下さい」

回答者「ええ〜っ!?」

難し過ぎるだろ。メチャクチャ抽象的な問題も困る。

ミステリーハンター「それでは、ラスト・クエスチョン。愛とは何でしょう?

いや、確かに「不思議」ではあるんだけれど。

2005/11/09/Wed.

物理が苦手な T です。こんばんは。

難しいとかいう以前に、そもそも学校で教わる物理が面白くないのが致命的である。「坂に箱を置いたら滑りました」だの、「バネを引っ張ったら伸びました」だの。アホか。

ニュートン聖誕祭

コンビニに寄ったら、早くもクリスマス・ケーキの予約が開始されていた。クリスマスだけではない。年賀状、お歳暮、お節料理の予約まで。まことに忙しい御時世である。

ところで、十二月二十五日はアイザック・ニュートンの誕生日でもある。1642年生まれだから、今年で生誕三百六十三周年だ。これは良い。サイエンティストたるもの、近代科学の父祖を尻目に「クリスマスだ」などと現を抜かしている場合ではない。『プリンキピア』でも買ってきて、微分積分をやるべし! やらないけど。クリスマスに微分積分だなんて、まるでセンター試験前の受験生だ。彼らにニュートンの加護がありますように。

それはともかく、ニュートン聖誕祭、良いかもしれないな。

2005/11/08/Tue.

晩飯が最も心安らぐ一時である T です。こんばんは。

以前から気になっていた職場近くの焼鳥屋に、先生と共に乗り込む。雰囲気も良く、飯も旨い。こんな近くに根城ができてしまっては、入り浸りになってしまうかもしれない。

先生は幾分体調が悪かったらしく、日本酒 1合で酔われてしまった。「食べ過ぎた。気分が悪い」という先生に、店の親父は涼しい顔で、「食べ過ぎてくれてありがとう」などとヌカしている。とはいえ、こういうノリは嫌いじゃない。

半分眠りかけの先生を電車に乗せ、駅で降ろし、タクシーまで引っ張っていくという、社会人 1年生を絵に描いたような帰途。漫画にしたいくらいである。これも給料の内。ま、こういうノリも嫌いじゃない。

2005/11/07/Mon.

月曜日になった途端に書くことがなくなる T です。こんばんは。

19時より恒例のセミナー。その後、先生と食事。別のグループにだが、また 1人テクニシャンが増えるらしい。大丈夫なのか。

俺やテクニシャン達は、書類上は病院の職員だが、支払われる給料の実態は、ボスが獲得した競争的資金である。我々の明日は、ボスが書く申請書類 1枚に乗っかっている。俺にはまだまだ実感が湧かないけれど、普通に考えても、研究費の配分が難しいことはわかる。人手がないと研究は進まないが、機器や消耗品にも金がかかる。人件費が増えると同時に、試薬類の消費も増えるのである。この匙加減が難しい。3人で 10人前は食べられないし、10人に 3人前では足りない。そういう話である。

それでは、ということで、5人で 5人前を注文するようなバランスを取ったとする。ところが、だ。競争的資金は毎年当たる保証なんてどこにもない。極端な話、「今年度の研究費は前年の半分」ということもあり得る。というか、これは極端でもなんでもないな。当然のごとく、人件費とその他の支出のバランスは破綻するし、破綻したままでは研究が進まない。となれば……、想像するだに怖い話である。

もちろん、ボスが新たに人を雇うのは、数年単位で配分される、それなりの額の競争的資金があるからであろう。でも、それがいつまで続くのかはわからない。俺がいうのもアレだが、ポストに対する研究員志望者の数がそもそも多いのである。構造的に、10人の志望者に対して 7人前くらい(ひょっとしたらもっと少ないかもしれない)の料理しか、この世界には最初から用意されていない。まことに厳しい。

この手の話題は、分野の異なる人にはピンと来ないかもしれない。説明し出すと大変長くなってしまうので、機会があれば、また。

2005/11/06/Sun.

「思い付き」にも理由があると考えている T です。こんばんは。

普段なら流してしまうのだけど、そこをほじくり返すと、意外に面白いものが出てきたりする。我が日記は、そのような発掘物を陳列しているようなものだ。コレクションの本質にも通じることだが、並べることによって、また新たに見えてくるものもある。最近では、それらを体系的にまとめることができないか、ということを考えている。

鴬ボール

鴬ボール
鴬ボール

「鴬ボール」という菓子がある。植垣の「鴬ボール」は商品名であって、つまり固有名詞である。これの一般名詞が「バクダン」であるということを、この歳になって初めて知った。「絆創膏」という一般名詞より、「バンドエイド」という商品名の方が通り良いようなものか。っていうか、植垣の鴬ボール以外のバクダンを見たことがなかったんだけどな。

鴬ボール、いや、バクダンの話を周囲にしてみたところ、この菓子の形状の説明に 2種類の比喩が使われた。

俺の比喩だけが皆と違っていた。俺がどちらの比喩を用いたか、あえて書くまい。

Web 日記

サイトのプログラムを少しイジる。素人ゆえ、最初から完成されたコードが書けない。大抵の場合、3つのステップを繰り返すことになる。

  1. とりあえず動くようにする。
  2. 1. を最適化する。
  3. 機能を付け加える。新機能を動かすために 1. に戻る。

今日やったのは 2. の作業。したがって、見た目は何も変わっていない。しかし、これが一番楽しい。この作業の達成度は簡単な目安によって評価できる。全ての場合に当てはまるとは思わないが、「コードが短いほど、そのプログラムは正しい」という経験則がある。俺もよく実感する。

プログラムは数学の問題と似ている。正解に至る道は何本もある。しかし、その中でも効率には差がある。力技で問題を解くのも一つの数学力だが、公理などを用いてスマートに解くのもまた数学力である。プログラムも同じようなものだ。時間を置いてコードを読み直すと、「もっと効率の良い方法があるやん」と気付くことがしばしばである。慣れれば、最初からスマートに書けるようになる。これを学習という。学習の要諦は反復にある。

コードが短くなることによって、プログラム全体の見通しが良くなる。そうすると、「ここに処理を追加すると新しい機能が生まれてくるのでは」ということに思い至る。これが着想である。「天啓」という言葉にもある通り、どうもアイデアやらヒントというものは「天から降ってくる」というイメージがある。だが、それは違うんじゃないか。俺には、大地から植物が芽を伸ばし、やがて花が咲くように着想が訪れるという感覚がある。天には何もなくとも良いが、開花には大地が必要である。その違いだな。

2005/11/05/Sat.

地図が好きな T です。こんばんは。

行ってみたいな能登の国

奥能登に、我が苗字と同じ名前の漁港があるらしい。昨夜、先生と飲みに行った居酒屋の魚の一部は、その港から直送されているという。気になって探してみると、我が苗字と同じ地名は全国のそこかしこに存在する。しかし能登にはない。ひょっとして地名ではないのかとも思ったが、ネット上をどのように探しても情報は得られなかった。幻の漁港である(本当にあるとすれば、だが)。

石川県には、まだ足を踏み入れたことがない。金沢など、行ってみたいと思う土地はある。京都からは、JR 特急サンダーバードに乗れば、七駅二時間強で辿り着く。名古屋に行くようなもんだ。意外と近い。

石川県といえば能登半島である。以下の文章は、でき得ることなら日本地図を御覧になりながら読んでほしい。いつ見ても日本列島は美しい。

日本列島

(北方領土が含まれているのは美学上の見地からで、何ら政治的なメッセージはない)

日本海に錨を打ち込むような能登半島の形状はまことに絶妙である。南に突き出た紀伊半島と呼応し、足りないボリュームは佐渡島と連なることで補いつつ、本州の中心に美しいS字型のラインを描く。ともすれば北海道の巨大さに頭でっかちとなりがちな日本列島がかくも安定して目に映るのは、この仮想的なS字カーブのゆえである。伊豆半島とは点対称の関係にあり、日本アルプスと連動しつつ、本州の中心部に大きな卍を浮き上がらせる。子分のような島根半島との相似にも注目したい。もちろん、能登島を抱く能登半島そのものの造形の素晴らしさは論を待たない。

土地が人文を決定する

能登は興味深い土地である。今日、石川県の観光資源が集中しているのは金沢を中心とする地域であろうが、それは加賀であり能登ではない。能登は古来より大陸との往来が繁かったと考えられており、江戸時代には北廻船の寄港地として栄えたという。海洋と関係が深く、それはひとえに能登半島の形状によるものとしか思えない。土地が人文を決定する良い例であろう。

日本列島は海岸線から内陸に至るまで、驚くべき奇観を豊富に内蔵している。そしてしばしば、その土地の性質そのものが日本人に決定的な影響を与える。京都は風水の条件を満たしていたがために都となったし、富士山は、ただ単独でそびえ立つゆえに霊峰となった。富士山は日本一標高の高い山だが、これは単なる偶然だと俺は考えている。例えば、日本アルプスに富士山より高い山があったとしよう(この仮定はそれほど不自然ではあるまい)。しかし仮に富士山が日本一高い山でなくとも、我が国の至峰は富士山しか考えられない。それは、かの山が孤貴として単立するその風景に、我々が聖を感じるからである。古代人なら尚更だろう。

……能登からエラく話が遊離してしまった。が、地図を見る楽しみはここにある。

2005/11/04/Fri.

仕事を始めて、しんどいけれども「辛い」と思ったことはない T です。こんばんは。

今日の俺は相当疲れているように見えたらしい。あろうことか、先生から「働き過ぎじゃない?」という言葉を頂く。俺を働かせているのが先生自身であるところに、問題の微妙さがある。これは皮肉で言ってるのではなくて、現在、仕事がそういう時期にさしかかっているので仕様がない。お互いが努力して、できるだけ気持ち良く乗り越えていくしかない。立場の違う人間がチームを組んで働くことの難しさがここにある。大学にいた頃は 1人 1テーマという形で仕事をしていた俺にとって、これは何としても身に付けねばならないスキルであると思っている。

そういうわけで、今週も土日は仕事。まだまだ修業の身ですから。

2005/11/03/Thu.

これから今月のゴルゴ13 を読むつもりの T です。こんばんは。

文化の日

午後からラボへ。今日は休日だが週末ではないので、掃除洗濯などの諸々の家業もせず、昼前まで眠る。幸せ、などと感じる自分が少し可愛そうではある。

今日、11月 3日は文化の日であり、戦前は明治節と呼ばれていた。明治大帝の生誕日である。文化の日は明治節と関係なく定められた、とものの本には書いてあるが、それは嘘である。文化の日がハッピー・マンデーになっていないことがその証拠だ。文化の日には文化勲章その他の叙勲があるけれど、もちろん勲章は天皇陛下によって授与される。本当に明治節と関係がないのなら、勲章ではなく賞状にでもして政府が与えれば良い。

俺は叙勲自体に反対しているわけではない。この国最高の名誉の一つとして、これからも続けていってもらいたい。ただ、やるならやるで筋を通さねばならない。誰に遠慮しているのか知らないが、変な気遣いは叙勲される人々、勲章、そして天皇陛下に失礼であろう。授与するからには最大限の価値を付加しないと。いらない人は辞退すれば良いんだから。日本のセレモニーは、こういうところが下手である。自然、権威も発生しない。

式というのは、それに参加する人々が一定の枠組みに入ることを確認するためのものである。したがって、主催者は毅然としていなければならない。逆をいえば、参加者のことを考える必要はない。参加したいのならば従え、従いたくなければ参加せずとも良い。これだけなのである。これがわかっていないから、成人式が無茶苦茶になる。式は、開催しても開放してはならない。多くの式は、選抜が終わった後に開かれるものであることを思い起こすべきだろう。成人式をするのなら、その前に成人選抜試験でもやればどうか。

「文明」がグローバルなものであるのに対し、「文化」はローカルなものである。文化を共有するためには共同体の一員にならねばなるまい。その通過儀礼が式である。大した話ではない。例えば神社という文化を本当に感得したいなら、まずは手水で手を清めろというだけのことだ。こんな些細なことで、目に見えるものが違ってくる。無論、手を洗わなくても神社は拝観できるが、そういう問題じゃないんだな。わからない人には一生わからないかもしれないが。

行動原理

暖房の電源を入れるたびにパソコンが再起動する。一時的に過負荷になるからだろうか。それほど大量の電気を使っているわけではないけれど、住まいとしている建物が古いので、あるいはそのせいかもしれない。

このアパートは築何年だったか、とにかく俺が生まれる以前から建っている。内装は今風に整えられているが、外観はそれなりに古色を帯びている。故に家賃が安いのだと不動産屋は言っていた。中がいくら綺麗でも、外見が劣っていると、特に女性からは敬遠されるという。そんなものかと思いながら、俺は契約書にサインをしたのだった。

似たような話がパソコンでもある。価格以外で男が重視するのは性能、女性が検討するのはデザインだという。数字で定量化できるかどうかを考えたとき、性能は文明であり、デザインは文化である。言葉の遊びだが、ある傾向を表してはいると思う。一般的に敷衍するつもりはないけれど。

「車を運転している間、自分は車体を見ることができない。だから車のボディは何色でも良い」という台詞が、確か森博嗣の小説にあった。住まいに関してはその考えに賛同する俺だが、果たして車も同じように選ぶかと問うてみれば、はなはだ疑問である。あらゆる選択の基準は、ほとんどの場合ゆるやかなグラデーションを描く。そんなことを思うとき、「行動原理」という言葉のリアリティを疑わずにはいられない。極めて仮想的なものであるからこそ、原理を持つ人間の行動は共感を呼び起こすのだろうな。

2005/11/02/Wed.

ウエスタンを失敗した T です。こんばんは。

研究日記

雑用をしながら実験していたら、2次抗体を入れ忘れるという大失態。アホか。明日やり直し。給料を貰っていると、こういう凡ミスが身に染みる。気合いを入れねば。

新たな辞令を頂く。実は昨日から身分が変わっているのだ。といっても、表面的には何の変化もない。単に給料のトラブルを回避するがためである。骨を折ってくれたボスに感謝。最初から手を打っとけよ、という噂もあるけれど。まァとにかく一安心。

業者から「お家は XX の方ですか」と訊かれる。フラフラ歩いて出勤しているところを見られたらしい。京都は狭い街だが、本当に誰がどこで見ているかわからんな。

抽出して保存しておいた RNA から cDNA を逆転写し、Q-PCR をかける。このへんの実験は全く初めて。「誰でもできるはずだから」と先生が言うので、本当に cDNA が合成されているのかどうかも確認していない。時間があれば、コッソリ濃度などを測定してみよう。こういうことは自分でしないと、いつまで経っても感覚として身に付かない。

Web 日記

ここ数ヶ月、この日記のスタンスについてちょくちょく触れている。

仕事の話ばっかりだなあ、と最近の日記を読み返して思う。我が日記は「日記」と銘打っているものの、その日の出来事ではなく、日々考えたことや思い付いたことを書くという色合いが強かった。毎日ネタに困るということは、つまり思考に時間を使っていないということであり、残念ながらそれは事実である。

ゆっくり考えるためには、時間のみならず、体力的精神的余裕も必要となる。それがない、あるいは「ない」と思い込んでいるのは、色んな面でいっぱいいっぱいになっているからだろう。ようやく最近、ポツポツと余裕の芽のようなものが出始めているのを感ずる。もう少し、このままのスタイルで続けていこうかな、と考えている。

2005/11/01/Tue.

ネイティブでない人が、無理をして関西弁で演技をする必要なんかないと思う T です。こんばんは。

いつものことではあるが、先生と遅い晩飯を共にする。飯屋のテレビには、実写版『火垂るの墓』が映っていた。褒められた感想ではないが、いかにも辛気臭い。自分が疲れているので、そういったものに対する感受性が鈍くなっているのである。

ところが先生は笑顔で、「いやあ、こういったテレビを観ながら食う飯は旨いね」などという。慌てて脳内補完をする俺。恐らく、「生きていくための栄養にも事欠いていた時代を考えれば、こうして御飯を食べている我々は何と幸せなのだろう。そう思うと御飯を美味しく頂けるね」という意味だったのだろう。しかし省略範囲がデカ過ぎて、一聴しただけではトンデモない問題発言に聞こえる。

このような無邪気さは、先生の良いところでもあり悪いところでもある。理学部出身の俺から見ても、先生は典型的な理学部人間である。ところが彼は医者なのだ。この事実を、ついつい俺も忘れてしまうことがある(先生自身もあまり自覚はないような気がする)。思い出してヒヤッとするようなことがないといえば嘘になる。医者がどうした、という議論は棚上げする。ただ、実際問題として、社会が求める医者像や、医者が求める庶民像というものが存在するのは確かだ。

我々の逸脱は軽やか過ぎないか。そんなことを時々思う。半年前、俺はおっかなビックリで医学という世界に片足を踏み込んだのではなかったか。そのプレッシャーの何割かは、「医者」という人種と付き合っていかなければならない、という意識に起因していたはずである。それがいつの間にやら。かといって、今から改めて畏まるのもヘンだしなあ。