- 面白いかつまらんか、それが問題だ

2005/09/25/Sun.面白いかつまらんか、それが問題だ

今日はダラダラと布団の中で過ごす時間が多かった T です。こんばんは。

信じる・疑う・味わう

俺は多くの現代日本人同様、強烈な宗教体験を経験したこともないし、確固たる自分の信仰を持っているわけでもない。俺は宗教というものを真面目に考える以前に、歴史や文学を大いに好むようになっていたから、それらを読み解くためのツールとして既存の宗教に触れてしまった。西洋の小説を深く読むためにはキリスト教を知らねばならないし、日本の歴史を読み解くためには仏教・神道を理解せねばならぬ。しかしそれらは知識であっても信仰ではない。もちろん俺の中にも素朴な宗教心というものはあるが、一方で、科学を飯の種にもしている。はなはだ分裂しているようだが、自分にとってはそうでもない。

例えば、あまりのありがたさに見たら目が潰れるという御本尊があったとする。この言い伝えを信じて御本尊を見なかったとすれば、それは信仰である。逆に、そんなことがあるかと目を見開いて御本尊を凝視するならば、それは合理主義的な行動であるといえる。どちらが優れているというものではないが、どちらも筋は通っている。だが、俺はどちらでもない。

恐らく俺は、「見たら目が潰れる御本尊」を見ないだろう。目が潰れる道理がないことは理解している。肝心なのは、「見たら目が潰れる」という言い伝えが残されており、そして実際に「見ない」ことなのだ。そうすることによって「見たら目が潰れる御本尊」というファンタジーは生命を持つ。生き永らえる。しかし御本尊を信仰するつもりはないし、だからといってファンタジーを暴こうとも思わない。

多分、俺はそういった「お話」が好きなだけなのだろう。京都に来てからますますそう思う。一条戻橋なんてのがある。文章博士三善清行が死んだとき、息子の浄蔵はこの橋で父の葬列と出会った。嘆いた浄蔵が祈ると、父は生き返った。以後、この橋は戻橋と呼ばれる。俺の感想は「面白い話だ」、ただそれだけである。「生き返るわけねえだろ」とか「ありがたや」なんて感情は湧かない。別にニヒリズムを気取っているわけではなくて、本当にそうなのだ。

全ては「お話」

で、だ。極端な話をすれば、歴史や科学も壮大な「お話」なんだよな。そもそも歴史や科学と声高に叫んだところで、その境界は茫洋としている。平家物語は歴史か? 小説か? 進化論は科学か? 精神分析は? 別に歴史や科学に限った話ではない。宗教も哲学も、全部「お話」だろう。

こう考えていくと、人類の営みというのは非常に曖昧模糊たるものがあって、無理矢理に共通項を引っ張り出してくるのならば、それは全て「お話」を作る行為であった、としか言い様がない。神話から経典から文学作品から科学論文まで、あれは全部「お話」なのだ。俺は工学も力学もわからないが、安心して飛行機に乗る。それは物理学という「お話」を信じているのと同義である。「ヒトはサルから進化した」という話と、「人間は造物主が作られた」という話と、いったい何が違うのか。俺はどちらの現場も見ていない。突き詰めると、「こちらの方がもっともらしい」とか「あちらの方が面白い」とか、そういった判断基準しかないのではないか。当たり前だ、「お話」の評価基準はそれくらいしかないのだ。

何だかムチャクチャな結論になってしまった。穴も沢山あるだろう。また機会があれば書いてみたい。でもなあ、やっぱり「今日の日記が面白かったかどうか」が一番の、というよりか唯一の問題だと思うんだよなあ。面白い・面白くないを言い換えれば、快・不快となって、これは生物にとって大事なことなのだが、それもまた今度。