- Diary 2005/08

2005/08/31/Wed.

今月の「ゴルゴ 13」を精読した T です。こんばんは。

研究日記

今日で 8月も終わり。9月からは現在の病院で正式採用になる、という話を以前に書いた。裏を返せば、今日までは職員でも何でもなかったわけだ。就職が決まるまでも、決まってからも、出勤し出してからも、それはそれは様々なことがあった。特に勤務が始まってからは、もう社会人なんだし愚痴なんぞ書くまいと決めていたが、毎日が強烈な不安感や不信感との闘いだった。

良い人ぶるわけではないけれど、今のラボに不満があるわけでは決してない。周囲の人も素晴らしい方ばかりである。ただ、心理的な足場がフニャフニャとしている状態で、山のような荷物を背負いながら、闇雲に泥濘の中へと突き進んでいくような深い孤独感と恐怖が常にあった。

しかし、それももう終わる。採用がどうこうという、形而下の話ではない。2年近くもギクシャクとしていた歯車が、ゆっくりとだが、確実に回り始めているのを鮮明に感じることができる。この回転を加速できるかどうか、ここからは本当に自分の力量次第である。肝に銘じて、明日も仕事。

明日は、大量発注の最終波が押し寄せる。膨大な試薬等を整理して、来週からはようやく(本当にようやく!)本格的に実験が始められそうだ。楽しみなことである。

台風みたいなもんだけどさ

素朴な疑問。

米南部のフロリダ、ルイジアナ両州に上陸した大型ハリケーン「カトリーナ」は 29日夜までに勢力を弱め、熱帯低気圧に変わった。(産経新聞)

台風やハリケーンの愛称に女性名を使っているが、あれは問題にならんのか? 「女性の地位を不当に貶める」とかなんとか、そういう意見はアメリカで一つも出ていないのか。

2005/08/30/Tue.

雨が降っているので晩飯を買いに行くのが億劫な T です。こんばんは。

帰る途中に弁当でも買って帰れば良かった。いや、最初は自炊をするつもりだったのだ。しかし、鍋や皿を洗った時点で力尽きる。Give me 飯!

研究日記

血清の非働化
培養細胞によっては、血清中に含まれる補体によって抗原と認識され、細胞溶解などの毒性反応が生じる。そのため、培養液に添加する血清は加温処理 (56°C で 30分) し、補体を失活させてから使用する。

血清の非働化を行う。といっても、血清のビンをウォーターバスにつけた後で分注するだけなのだが。

徐々にラボも立ち上がってきたが、例えば培養室でも先住民が幅を利かせており、我々はいかにして領土を確保・拡大していくかという、およそ科学的ではない問題にも頭を悩ませている。いや、別にイガみ合っているわけではないんだけどね。ちょっとしたことで円滑な関係を築けるわけだから、最初は少し気を遣っていこうや、という話。分注といっても大仕事である。

隣のグループの先生が、マウスの心臓カテーテル手術をするというので見学。先生の手捌きは華麗にして繊細である。この境地に至るまでに、このオッサンは何匹のマウスを殺したのだろうか。そんな不埒なことを考える。俺も機会があれば動物実験に習熟したいとは思うが、そうそう簡単に練習できるものでもない。

その点、線虫は偉大であった。放置していても勝手に増えるし、毎日 大量虐殺 たくさんのトレーニングが行えるからなあ。

2005/08/29/Mon.

先輩の土産で、初めて鯨羊羹を食べた T です。こんばんは。

研究日記

いつも月曜日はバタバタするだけで終わってしまう。一度帰宅してから大学へ。設計したプライマーで DNA が増えていたのでホッとする (PCR は別の人が行った)。変異を挿入するために、少々ややこしい手順になっているのだ。まァ、この手のベクターは学部生のときに散々作ったからなあ。大丈夫だろ。

21時よりセミナー。

治療・臨床・基礎

「人体を機械で補う必要はなくなる」という日記を書いて 3週間、早速こんなニュースが。

埼玉医科大の許俊鋭教授は 27日、同医大総合医療センターで記者会見し、急性心筋梗塞(虚血性心筋症)の患者が心臓再生治療で心臓機能が改善したため補助人工心臓を外して同日退院したと発表した。

治療は、患者本人の骨髄を採取。骨髄有核細胞を遠心分離器で分離し、カテーテルを使って壊死していた心臓の左心室の冠動脈に移植した。同医大は動物実験など長期にわたって心臓再生治療の研究を進め、2003年 11月には同大倫理委員会で患者に治療を行う承認を得た。(読売新聞)

大学病院の三本柱は、「治療・教育・研究」であるという。そして「研究」は、臨床と基礎にわけられる。もちろん、理学部出身の俺が携わっているのは基礎的な研究である。そんな俺は、実際の治療でここまでやられちゃうとなあ、と思ってしまう。

病院勤務の経験が豊富な先輩によれば、心臓を含む循環器系では、臨床研究の方がよほど進んでいるという。何故か。疾患に対する治療が緊急を要するからである。ちんたらとマウスの ES 細胞から心筋を分化させている間に、患者の容体は急変して死に至る。勢い、このような分野では臨床研究が強くなる。そしてニュースのような治療が行われ、成功する。素晴らしいことではあるが、複雑な思いもある。

臨床研究で明らかになるのは、統計学的な相関関係であり、結果に対する経験則である。しかしメカニズムの解明、因果関係の立証はなされない。無論、基礎的なデータも充分に吟味し、高い確率で成功することを確信したからこそ治療に踏み切ったのだろうが、それは 100% ではない。だからこそ、「倫理」委員会の承認が必要となる。メカニズムがわかっていれば、問題になるのは「論理」である。

生きるか死ぬかの瀬戸際では、生物学的興味なんぞはいずこかへ吹っ飛んでしまう。そういう意味で、理学は幸福な学問である(皮肉ではなく)。違う畑に飛び込んで来た俺には、色々と考えさせられるニュースであった。「基礎」といっても、これまで身を置いてきた生物学からすれば、それなりに応用的である。そのような境界領域において、何ができるのか、何をすべきなのか。問いは尽きない。

2005/08/28/Sun.

遊び過ぎを反省している T です。こんばんは。

熱っぽい。朝イチで大量の野菜スープを作り、「食う-寝る」を 3回ほど繰り返したら身体は楽になった。頭はまだ重い。今日は思い付いたことを適当にダラダラと書く。

お茶の香水

お茶って良い匂いだよなあ。お茶の匂いが嫌い、という日本人はいないんじゃないのか。そこで思い付いたのだが、「お茶の薫りの香水」っていうのはどうだろう。消臭効果も期待できそうだし、男でも付けやすい。売れそうだと思うのは俺だけか? 既に存在しそうな気もするけど。

キャリア・プラン

こういう仕事をしていると、「キャリア・プランが云々」とかいう非常に胡散臭いパンフレットや話に接触する機会が多い。プラン通りになれば、誰も苦労しないけれど。そういえばバーのマスターが、「先のわからん世の中だから、予定は来月までで良いよ」と言ってたなあ。来月かよ。

2005/08/27/Sat.

宇治に行ってきた T です。こんばんは。

宇治紀行

先日の日記で「旨い宇治金時が食いたい」と書いたところ、元部長氏から「宇治に美味しい店がある」という情報を頂いた。ありがとうございます。なるほどなあ、宇治金時が食いたかったら宇治に行け、とは当然の話である。ましてや、今の俺は容易に宇治へ行ける場所に住んでいるのだ。こんなことに気付けないあたり、まだまだ新しい土地に馴染んでいないという証左である。

宇治金時を食べにだけ宇治に行く、というのも贅沢な旅行ではあるけれど、そこまで優雅ではないので、近くの平等院も訪れることにした。雑用を片付け、腹ごしらえをしてからブラリと宇治へ。暑い。かき氷日和である。

目指す茶屋に入り、宇治金時を注文すると、とてつもなく巨大なかき氷が出てきた。デカい。「ボリューム満点」とかそんなレベルではない。「常軌を逸した」、そんな形容句が頭に浮かぶ。しかしこれが旨いのだ。ザクザクと食う。食い続けること 15分。旨いのだが、身体が冷え過ぎて完食を断念する。やっぱデカ過ぎるよ、コレ。しかし夏の終わりを飾るに相応しい宇治金時であった。

茶を買ってから店を出る。そのまま歩いて平等院へ。写真も撮ったので、また適当にまとめてアップする予定。今は平等院博物館で買った写真集を眺めながら宇治茶を飲んでいる。ジジ臭いなあ。

「紙 = ディスプレイ」再論

1年前に「紙 - メモリにしてディスプレイ」で論じたことだが。

インターネットコム株式会社 と 株式会社インフォプラント が、携帯電話を利用しているインターネットユーザー 300人を対象に調査を行ったところ、電子書籍を購入しない理由は「読みにくい」がトップで、PC などで文章を読むとき苦痛を感じる文字数は「400字以上」がもっとも多かった。

書く方からすれば、いくら何でも 400字は少な過ぎる。デバイスとしてのディスプレイが劇的に進化しない以上、俺のような長文の日記を書く者にとっては、ちょっとした問題である。そこで次善的な対応として、各 web サイトの運営者は適度に小見出しを付けたり、行間を取ったり、1行当たりの文字数を調整したりと、様々な工夫を凝らしており、それらの多くは体系化されたテクニックとして各所で紹介されている。

問題は、これらのテクニックを電子書籍は取り入れているのだろうか、という点にある。小説を web サイトのようなレイアウトで配付するのは難しいかもしれないが、しかし読まれないことには意味がない。「とにかくディスプレイで文字を読むことはストレスなのである」という認識から始めないと。個人サイトですらそうなんだぜ。ましてや電子書籍は「商品」なんだから。

2005/08/26/Fri.

終電 2本前の列車で帰宅した T です。こんばんは。

研究日記

業者が入れ替わり立ち替わり。注文していた機器が大量に届く。合間に論文を 2本ほど読んで終了。

酒宴日記

ラボのメンバーで飲み会。その後カラオケへ。どいつもこいつもテンションの上がる選曲ばかり。血管がブチ切れるかと思った。いや、俺ももう 25歳だし、『愛をとりもどせ!』とか無理だから。「You は shock !」とか歌ってる場合じゃないよ。とほほ。何が哀しいって、嬉しそうに歌っている自分が自分で哀しい。

2005/08/25/Thu.

立ち読みで肩が凝った T です。こんばんは。

研究日記

我が書架には岩波の「生物学辞典」第2版がある。第3刷で、発行は 1979年 10月 25日とある。俺が生まれる以前だ。当時の価格で 6,300円のこの本を、数カ月前に古本屋で手に入れた。確か 2,000円だったと思う。変遷の激しいこの世界では、もはや立派な古書である。試みに「ゲノム分析」という項目を引用する(ちなみに、ゲノム関連の項目は「ゲノム」と「ゲノム分析」しかない)。

ゲノム分析 [genome analysis]
生物のゲノム構成を明らかにすること。特に染色体対合を利用してゲノム間の相同性を調べ、ゲノムの変遷・種の由来などを分析する場合をさすことが多い。この方法は木原均 (1930) によって、コムギ 3群の群内および群間雑種の細胞学的研究のなかから命名・確立された。まずゲノム組成の明らかになった基本的な種をできるだけ多く集め、それらと被分析種の間で F1 をつくり、F1 の減数分裂における染色体の対合状態をしらべて、両親が相同ゲノムをもつか、あるいは異質性ゲノムをもつかなどを判定する。

読んでいて普通に面白い。色んなことを考えさせられる。今の仕事の資料としては直接使えないけれど、息抜きの際には、時折この古い本をひもといている。

人物スケッチ二つ

その人が持つ矛盾を暴いてやりたいと思うことはよくある。

例えば、

「あたし小食だからァ、ライスは SS でいいの。小さいライスが好きなの」

お前が好きなのは SS のライスじゃねえ。お前は「小食な私」が好きなだけなんだ。気付け。

例えば、

「俺ァ、酒の肴にはこだわりがねぇんだよ。何でも良いんだよ。こだわんないから。肴にこだわってるうちはダメだね。俺みたいにさァ、こだわりを捨てたら本当の味がわかるんだよ。な。こだわるんもんじゃねえんだよ」

メッチャこだわってるやんけ。

2005/08/24/Wed.

夏休みが終わってしまった T です。こんばんは。

八坂神社と建仁寺を散策。写真も撮ったので、また適当にまとめてアップする予定。いや、ホントだから。

この夏は美味しい宇治ミルク金時を食べようと思い続けながら、いまだ果たせずにいる。俺の頭の中には、抹茶色のかき氷に白玉、小豆、ミルクが絶妙のバランスで配置されている宇治金時のイメージがあるのだが、なかなか理想的なモノに出くわさない。普段は食べ物に頓着しないので、こればかりは納得いくものを食したい。早くしないと夏が終わる。今週末こそは。それにしても、どうして宇治金時なのか。自分でもわからない。特に好きってわけでもないんだがなあ。

明日から仕事再開。

2005/08/23/Tue.

ジン・ベースのカクテルが好きな T です。こんばんは。

近所の画材屋を覗いてから祇園をブラブラ。八坂神社にも足を踏み入れたけど、時間が遅かったし、カメラも持ってきていなかったので、明日にでもリベンジする予定。夏休みもあと 1日。きっちりと遊ぶぞ。

研究日記

分化した細胞を幹細胞化できれば便利だよなあ、と書いた矢先に。

成人の皮膚の細胞に、身体のさまざまな細胞に分化する能力があるヒトの胚性幹細胞 (ES 細胞) を融合させると、全体として ES 細胞と同様の増殖・分化能力を持つことが分かった。融合細胞から ES 細胞側の染色体だけ除去できれば、手軽に再生医療を実現できると期待される。米ハーバード大の研究チームが 22日発表した。研究論文は米科学誌サイエンスに掲載される。(時事通信)

記事を読んだ限りでは、クローン羊のドリーと同じような発想に思われる。要するに、環境条件としての細胞質と、情報媒体としての核を別個に融合させようという話である。モジュール的に組み合わせて、望む「細胞」を手に入れようということなのだろう。

2005/08/22/Mon.

生物の飼育は好きな T です。こんばんは。

書斎のネタになりそうなモノを探しに街中へ。「ちょっと良さげ」と思えるものは全て、類似品の中でも値の張る部類にある。資本主義って上手くできてるよなあ。

結局何も買わなかったが、小さな植物でも栽培してみようかと思うに至った。トボトボと家に帰ってきたとき、卓上に緑があれば素敵ではないか。要するに寂しいわけなんだが。名前とか付けて語りかけそうだな。枯れたら泣いたりして。サボテンとか松とか、手間要らずで常緑の植物が良さそうだなあ。

2005/08/21/Sun.

身体がピシピシと痛む T です。こんばんは。

伏見の藤森神社と稲荷大社を巡る。写真も撮ったので、また適当にまとめてアップする予定……って、下鴨神社に行ったときにも書いたんだよなあ。いや、忘れていたわけじゃなくて、本当にコンテンツを作るつもりなんだけれど、ダラダラと放置し続けているのが現状。まァ、気長に取り組んでいくか。あくまで予定だし。

2005/08/20/Sat.

今日から 5連休の T です。こんばんは。

叔父上より就職祝いのシャツが届く。滅多に服を買わない俺には、こういう贈り物がありがたい。

夕方からは近所のホテルの屋上のビアガーデンへ。夕立に濡れる街角を見ながら痛飲……のつもりだったのだが、食べるのに必死で、結局は 2杯しか呑まず。珍しいことだが、たまにはこういうのも良いか。

2005/08/19/Fri.

「面白いかどうか」こそ大事だと思う T です。こんばんは。

集中するときに「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんていうけれど、いくら何でもそれは滅却し過ぎだろ、心頭を。どう考えてもアブない。そこまで心頭を滅却してしまうと、集中するべき事柄まで忘却の彼方へ飛翔してしまうと思うのだが。

研究日記

生物学をネタに、しょうもないことを考えるのは面白い。以下に 2つ、最近思い付いたネタを記録しておく。

逆翻訳

遺伝子が発現する一連の流れをセントラル・ドグマという。

DNA ↔ RNA → protein

上のフローを見るたびに、「逆翻訳 (protein → RNA)」があれば便利なんだけどなあ、と思う。ポリペプチドを鋳型に、ポリ tRNA が合成されるわけである。必要があれば、さらにそこから RNA → DNA と合成していけば良い。微量タンパク質の同定などに役立つと思うのだが。

未分化化

幹細胞は様々な細胞に分化する。幹細胞研究の最大テーマは、「どのようにして細胞が分化するのか」である。そして次は、「いかにして幹細胞は未分化の状態を保っているのか」である。乱暴を承知でいえば、前者は再生・発生の研究、後者は老化・ガンの研究でもある。

俺が個人的に興味を持つのは、「なぜ分化した細胞は未分化の状態に戻らないのか」ということである。分化の逆、適当な述語がないので「未分化化」と書くが、どうして細胞は未分化化しないのか。分化を不可逆にしているストッパーは何か(あるいはどういうメカニズムか)。仮に未分化化を報告できたら、これは逆転写なみの大発見であって、ノーベル賞は間違いない。応用範囲も広い。一々幹細胞を取ってこなくても、採取しやすい細胞をチョイチョイと未分化化してやれば事足りる。便利だよなあ。

2005/08/18/Thu.

引き止められるくらいの人間になりたいと思う T です。こんばんは。

研究日記

研究員室の引っ越し。バカでかいコピー/プリンタ/スキャナ/FAX 複合機が搬入されたりして、いよいよ本格的に立ち上がってきたなあ、という感じ。人も増えてきたし、来月からはズコバコ実験を進めていこうという機運が高まっている。とにかく最初は勢いが大事であるから、テンションを高めに保っていきたい。

酒宴日記

ボス、直属の先生、俺の 3人で焼き鳥屋へ。話題は先生の留学について。先生は非常に優秀な方であるから、ボスとしては留学せずにラボに留まってほしいわけだ。俺はといえば微妙なところで、先生の将来を考えるなら、早めに留学してバリバリと業績を上げてもらいたいのだけれど、同時に、ラボに残って徹底的に俺を指導してほしくもある。だからついつい、ボスと協同して引き止め工作を計ってしまうのである。少し酔っていたとはいえ、失礼なことを言ってしまったかもしれない。そんなことで怒るような方ではないけれど。

俺としては、どちらに転んでも対応できるよう、精進あるのみ。でもやっぱ残ってほしいよなあ。怒られるかなあ。

2005/08/17/Wed.

制限酵素で切れなくなってしまうようなプライマーを注文するところだった T です。こんばんは。

研究日記

ボスから研究棟のカード・キーを渡される。来月から正規に採用されるからかなあ、と思いつつ。

俺「これってどうやって使うん?」
臨床検査技師嬢「私、持ってないです」
テクニシャン君「僕も持ってないです」
俺「何で君ら持ってへんねん。いや、逆か。何で俺だけ渡されたんやろ?」
臨床検査技師嬢「オマエは夜も土日も働け、ってこととちゃいます?」
俺「……」

いいけどさ、別に。

2005/08/16/Tue.

初めて大文字焼きを見た T です。こんばんは。

今夜の京都は大文字焼き。早々に仕事を切り上げて帰宅。20時前、缶ビールを片手に屋上へ。我が豪邸からは大文字焼きが間近に望めるのである。

20時。火が点き始め、煙と共にゆっくりと「大」の字が浮かび上がってくる。この建物は大文字焼きを観賞するために建てられたのかと思うほど、真っ正面から巨大な送り火を眺められる。

大文字焼き

お盆が過ぎるということは、夏もほとんど終わりということ。屋上に吹いた涼しい風は、充分にそのことを実感させてくれた。

2005/08/15/Mon.

アミノ酸配列を眺めるのが好きな T です。こんばんは。

研究日記

研究対象となる遺伝子の塩基配列とタンパク質のアミノ酸配列を入手する。アミノ酸配列は見ていて飽きない。じっと眺めていると、ここらへんにこんな残基が固まっているとか、ここいらはフラフラ動きそうだとか、そういった事柄がボンヤリと見えてくる。そんな観察ともいえぬ感想がタンパク質の機能や構造とリンクし始め、徐々に相貌とでもいうべき姿形が浮かんでくる。親近感というか、感情移入というか。そのうちアミノ酸配列が夢に出てくる。これまでの経験上、必ず出てくる。かなり異常だと思う。

それはともかく、アミノ酸残基にはそれぞれ特徴があるので、性質を考えながら配列を「読む」楽しみがあるし、記憶もしやすい。俺は楽譜がロクに読めないけれど、音符を眺めてニヤニヤできる人ならば、この感覚を理解できるんじゃないだろうか。楽譜を観賞するだけでは飽き足らず、いずれ人が楽器に手を伸ばすように、俺もまた長き実験の旅に出る。しかし今夜は、この新しき友の姿を想像しつつ極小の世界に游ぶのも良かろう。

なんてな。勉強するか。

2005/08/14/Sun.

アッという間に狭くなってしまった机で日記を書いている T です。こんばんは。

「書斎を作るぞ」と意気込んだものの、雑事にかまけて全く進んでいない。というよりもむしろ、ますます散らかるばかりの最近である。散らかってはいるとはいえ、日常的に作業をしていると、自然選択的に使い勝手が良くなってくるもので、あえて片付ける必要もないかなあ、なんて思えてくる。

蔵書の収納には文庫本専用の本棚を買うつもりだが、いまだ実現していない。まずは、休日に時間指定配達が可能な通信販売業者を探すところから始めている。培養する細胞によっては、培地を毎日交換する必要がある。本棚の到着を待つためだけに休日を潰すわけにはいかない。無論、気に入った本棚を扱っていることも必須条件である。この上でさらに値段がどうのこうのと言い出すと、本棚が買えなくなる。難儀なことだ。

これからちょっと掃除でもするか。収拾がつかなくなりそうだが。

2005/08/13/Sat.

付け焼き刃から始めている T です。こんばんは。

研究日記

大学に行き、これから飼うことになる細胞の培地交換・継代のレクチャーを受ける。何ということはない操作だが、モタモタとしてしまう。慣れてないから仕方ない、というしかない。彼らにとっては線虫の植え継ぎが難しいかもしれない。そういうレベルの問題である。ヒマを見付けて練習するしかないわな。

観察に限れば、やはり培養細胞よりも線虫の方が面白い。細胞と個体を単純に比較はできないが、こと線虫に限ればそうでもない。そもそも、線虫の個体観察が細胞レベルなのである。培養細胞も線虫も、同じような顕微鏡、同じくらいの倍率で観察する。観察の勘所というか、そういう面での不安はない。これもヒマを見付けて観察するしかないな。「顔」を覚えないことには始まらない。

細胞培養の課題

以下は初学者の感想である。

細胞培養はまだまだ発展途上のシステムである。細胞を培養するには、多くの場合、何らかの血清を培地として用いる。血清には様々な種類がある。つまり、生物学を行う上で最も基本となるところの「飼育条件」がいまだに定まっていない(培養細胞を生物と呼ぶべきかどうかについては棚上げする)。血清の何が問題なのかというと、その中に何が入っているのかわからないのである。

これらの事実を知識としては知っていたが、いざ自分が細胞を飼う、血清を注文するとなると、これは非常にヘンな感覚である。例えば同じ細胞を培養するにしても、分化しやすい(しにくい)血清があるという。同じ銘柄の血清であっても、Lot No. によって微妙に違うこともあるらしい。そういうことが、経験上知られている。理由は判然としない。血清の成分が完璧にわからないから。

ES 細胞は、さらにそのあたりが曖昧になる。分化機構の研究とは、今のところそのようなパラダイムで行われている。物理や化学の人から見れば、砂上の楼閣かもしれない。先生は、「ES 細胞の分化研究は臨床報告みたいなもの」という。こうしたら、ああなった。そういう報告に意味があるという、そんな段階なのである。

細胞培養の歴史を簡単に調べてみた。初めて組織培養が行われたのが 1885年、細胞レベルでの生命現象が報告されたのが 1907年、合成培地が開発されたのが 1960年だという。以前に書いた分子生物学の爆発的発展に比べ、ゆるやかな歩みと言わざるを得ない。それほど複雑であり、未知の事柄が多い、ということでもある。やるべきことは山とある。

2005/08/12/Fri.

T です。こんばんは。

酒宴日記

職場全体の飲み会。すれ違うときに御挨拶していただけのダンディーな先生と談笑できたのが収穫。

我がボスの言動は非常に特徴がある。ヒマがあればモノマネしているのだが(何やってんだか)、それを披露すると大いにウケた。「ボスが乗り移ってる」とまで言われたので、しばらくは封印しようと反省する。

途中から眠くなり、躊躇う間もなく意識が切れるようにして寝る。2時間くらい寝ていたらしい。週末はひたすら疲れている。早く慣れて、もう少し余裕のある働き方をせねば。

2005/08/11/Thu.

目から落とす鱗が足りないくらいの T です。こんばんは。

研究日記

昨日の日記にも書いた通り、9月から現在の職場で正式に採用される。そのために必要な書類を書いている。その中に、「これまでの研究成果と今後の研究に関する抱負」というお決まりのフォームがある。就職活動中にもイヤというほど書いた。

このような文章を書きながらいつも再確認するのは、「どうも俺は応用的な研究をやりたいらしい」ということである。いまだにそれはモヤモヤとしていて、俺の中でハッキリとした形にはなっていないのだけど、書き上げた文章には志望が滲み出ている(ような気がする)。大学に残ることは基本的に考えず、企業などの研究所ばかり訪問していた就職活動の底辺には、やはりそのような意識があったのではなかったか。

毎日思うことなのだが、基礎と応用では考え方が全然違う。面白い。どちらが面白いとかではなく、その違いが面白い。つまり、「応用研究がやりたい」というのは「一度はやってみたい」という意味であって、「基礎よりも応用がやりたい」のではない。ということに、最近気付いた。

陳腐に過ぎるが、やってみないとわからない。

2005/08/10/Wed.

仕事をドカンと渡されると燃えるタイプの T です。こんばんは。

研究日記

就職をしてから古巣の方々に御挨拶もせず、少々心苦しく思っている。これには色々と理由があって、説明するのが面倒であったり、あるいはそのような時機を得ていなかったりで、のらりくらりと不義理を働いていたのだが、ここで簡単な報告をさせて頂くことにする。

4月から大学病院で採用されることになったのだが、何だかんだで仕事が始まったのは 6月になってからであった。実は、今の職場は大学病院ではない。別の病院で新たなラボを立ち上げがあり、半ば居候のような立場で、そのお手伝いをしている。結局、9月から現在の病院の職員として正式に採用されることになった。同時に、大学病院から新たに先生が着任される。その先生の下で ES 細胞の研究に携わることが、目下の我が予定である。

その先生は来年から留学される予定で、現在進行中のプロジェクトの引き継ぎを、俺は求められている。そのためにはヘラヘラと実験しているだけではダメで、その先生の知識、技術、考え方をできるだけ完全な形で吸収しなければならない。無理だ、と言ってしまうのは容易だが、そんな弱音を吐く余裕もない。

昨日今日と、先生と顔を突き合わせながら、新たなラボで研究を進行するために必要な試薬・機器を 200ほどリストアップし、それらの存在を一々確認している。なければカタログを引っ繰り返して発注する。見覚えのないものも多い。それが何であるかを調べる。実験のどこで使うのか、プロトコールと照合する。関連文献を積み上げる。あまりに畑違いなため、その論文を読むために勉強するべき事柄がモッサリとある。どこから手を付けたら良いか、途方に暮れる。日が暮れる。年も……アッという間に暮れそうだな。

まァ、それくらい厳しい環境に身を置かないと成長できないわな。図々しくも、まだまだ伸びるつもりの俺であった。

2005/08/09/Tue.

「短い夏」という言葉の意味を生まれて初めて実感している T です。こんばんは。

素人考えである。

「時間」は物理学の難問である。あらゆる物理現象は、エネルギーの高い状態から低い状態への遷移である。しかるに、時間が流れるのにエネルギーは必要でない。あるいは、宇宙全体のエネルギー遷移の別の側面を、我々は「時間」と呼んでいるだけなのかもしれない。例えば、宇宙全体が熱死して全ての粒子が運動を停止したとき、それは時間が停止したことと同義なのだろうか。それとも、そのような状態においても、時間だけは淡々と流れていくのだろうか。

仮に、時間の流れも力学の範疇にあるのなら、その首根っこをつかまえて引き戻すことができる。そうでなくとも、流れる速度をゆるやかにすることが可能である。できることならば、そんなパワーが欲しい。

2005/08/08/Mon.

盗んだバイクで走り出したことはない T です。こんばんは。

酒宴日記

一昨日の土曜に、義兄弟と我が地元で酒盛り。呑んで歌って、グタグタになって解散。今さら改めて話すこともなく、話題は近況報告と昔話がほとんど。そのような会合に、時間と金を使って参集する。無駄なような気もするが、やはりそうではない。つまるところ、四人が揃ってツラを突き合わすことに意味があるわけで。次はいつになるかわかりませんが、またやりましょう > 各位。

研究日記

来月から、少なくとも今よりは忙しくなりそう。望むところだが、果たして我が能力で対応できるのか。

2005/08/05/Fri.

今週は ELISA 三昧だった T です。こんばんは。

研究日記

進化そのものを実験・観察することはほぼ不可能である。必然的に、様々な議論の余地が生じる。

ブッシュ米大統領が、進化論に異を唱えるキリスト教右派の主張に同意し、公立学校の授業で進化論以外の考えも示すべきだと発言、波紋を広げている。

大統領は 1日に行われたテキサス州の地元紙とのインタビューで、聖書を厳格に解釈するキリスト教右派が熱心に説いている「インテリジェント・デザイン (ID)」に関する見解を聞かれた。

人間の複雑な細胞の構造は進化論だけでは説明できず、「高度な理知」の手が入ることにより初めて完成するというのが ID の骨格。一部の学者は支持しているが、「科学の衣をまとった信仰だ」との批判が大勢だ。(共同通信)

現在の進化論が全てを説明するとは俺も思わないが、それにしてもなあ。

「人間の複雑な細胞の構造は〜」というあたり、バカ丸出し。高等動物の細胞はよく分化しており、誤解を恐れずにいえば、単純でさえある。一つの細胞でアレもコレもやり遂げる単細胞生物の細胞の方が、よほど複雑である場合も少なくない。逆に、細胞レベルで見る限り、ヒトとイヌ、サル、キジの区別はほとんどつかない(見たことないけどさ)。

進化論を非難するのは構わないが、それならばまず、しっかり勉強してからにするべきだろう。もっとも、これは進化論に限った話ではないが。

Web 日記

やはりというか当然というか、募集していた「Guest Entry」に手を挙げてくれる方は現れず。第1回だし、そんなもんだよなあ。細々と盛り上げていくか。というわけで、明日・明後日と、さるお方にゲスト・エントリーを依頼した。快く引き受けて下さった氏に感謝。お楽しみに。

2005/08/04/Thu.

1日に数十回は「それ何?」と言っている T です。こんばんは。

わからないことだらけだ。とても幸せである。わからない領域を満たすことによって、俺はそこまで大きくなれる。可能性の上では。

2005/08/03/Wed.

ロボットになってまで働きたくない T です。こんばんは。

研究日記

昨日に引き続き、ELISA を行う。操作は違えど、抗原抗体反応にかかる時間はウエスタンなどと変わらない。チャチャっとくっつかんもんかね。待ち時間にネットをブラブラ。

「万能細胞」と呼ばれる ES 細胞を用い、光を感じる役割を果たす視細胞への分化を誘導することに、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市中央区)と京都大付属病院(京都市左京区)の研究グループがマウスで成功した。「世界初の成果。研究が進めば網膜疾患による失明などの治療に応用できる可能性がある」としている。論文は 2日、米国科学アカデミー紀要オンライン版に掲載された。(時事通信)

ついに視細胞まで作れるようになったか。もはや何でもアリだな。

ロボ・コップの悲劇

飛行機を始め、人類が夢想したもののほとんどは実世界に現れたが、ここまで再生医療の研究が進むと、サイボーグの現実味は薄れてくる。ロボットそのものの研究はまだまだ発展するだろうが、人体を機械で補う必要はなくなる。衰えたり損傷した組織は、自分の幹細胞から分化・培養したもので補償するだろうし、先天的な異常であれば、遺伝子治療を行うようになると思われる。臓器を再生するまでの間、一時的に機械と置換することはあるかもしれないが。

サイボーグになる必然性を無理に思い描いてみる。例えば、「人間が生存し得ない環境に行く」というシチュエーションがある。しかしこれも、相当の部分を機械に任すことができるだろう。わざわざサイボーグになってまで、人間そのものが赴かねばならない場所・場面というのは、ちょっと想像がつかない。

第一、これからは人工臓器の研究に金が回ってこなくなるだろう。サイボーグという発想そのものが、ゆっくりと死に絶えていくに違いない。後世の人間は、名作映画『ロボ・コップ』をどう見るであろうか。自分の細胞から組織を再生できるというのに、本人の許可も取らず(!)ムリヤリ機械の身体にさせられ、危険な重労働を強制される。女工哀史もビックリだ。人権無視もはなはだしい、昔の人間は何て愚かなんでしょう。そんな悪評にまみれるかもしれない。

2005/08/02/Tue.

どんなに「簡単」と言われても、初めての実験には緊張してしまう T です。こんばんは。

やはり結果を自分の目で確かめるまでは不安である。もっとも、それは初めての実験に限ったことではないが。肝が小さいだろうか。しかし、実験科学の研究者が実験をナメたら終わりだとも思う。

研究日記

ELISA
Enzyme-linked immunosorbent assay。酵素結合免疫測定法。タンパク質の定量測定法の一つ。プレートに固着した抗体に、測定したいタンパク質を結合させる。さらに、目的のタンパク質を認識する別の抗体-酵素複合体を結合させる。最終的に生じた抗体-抗原-抗体-酵素複合体の量を、酵素作用によって検量する。非常に感度が高い。多くのタンパク質に対して、第一抗体をコーティングしたマイクロプレートがキットとして販売されている。

ELISA を行う。これまでずっと「エリザ」と発音していた(周囲の人間もそうだった)のだが、今のラボでは「エライザ」と呼ばれている。最初は何のことだかわからなかった。

「え? エライザ知らない?」
「聞いたこともないです」
「聞いたことくらいあるでしょ」
「いや、ないです」

どんな凄い実験なのかと身構えたら、何のことはない、ELISA である。さすがに知ってはいる。やったことないけど。といっても、全てはキット化されており、付属の試薬もほとんどは ready to use である。プロトコルさえ読めれば誰でもできる。書いてある通りに希釈して、混ぜて、放置して、最後にマイクロプレートリーダーにブチ込めば、検量線が出てくる。失敗する方が難しい。

なんだかなー。

(この感覚を正確に述べると長くなるから割愛する。研究全般にまつわることなので、いずれまた論じたい)

2005/08/01/Mon.

できるだけカタカナ語を使わないようにしている T です。こんばんは。

カタカナ語(外国語の音訳)を使いたくない理由は色々ある。主に信条の問題なのだが、それはあくまで俺の主観であるから、論じたところで大した意味はない。なので、文章技術の問題に限定して考察する。

カタカナ語の問題

ほとんど唯一といえる問題は、外国語の発音をカタカナで正確に表記することは不可能、という点にある。例えば、「entertainment」をどう表記するか。

「エンターテイメント」 : 1,620,000件 (44%)
「エンターテインメント」: 2,030,000件 (56%)

上記は、「エンターテイメント」および「エンターテインメント」の、本日現在における Google での検索結果である。あなたが「entertainment」に関する日本語の情報を調べようとしたとき、「エンターテイメント」(あるいは「エンターテインメント」)と入力した時点で、およそ半分の情報は検索対象から外れる。

「エンターテインメント」という表記が普及したのは最近である。昔は「エンターテイメント」が優勢であった。日本語の発音として自然だからだろう。「テインメント」の勃興は、「tain」の発音を正確に表そうという意志の結果と思われる。しかし、「mail」はいつまで経っても「メール」で、決して「メイル」にはならない。逆に、「entertainment」が「エンターテーメント」と書かれることは稀である。同じ「ei」の発音なのに、全く一貫性がない。

大袈裟にいうならば、カタカナ語を使う限り、「entertainment」情報を発信する日本人の労力の半分は無駄になる。「外来語を使わずに日本語を使いましょう」という主張は、単なる保守主義ではない。情報資産の価値を高めるために必要な行為である。その意味で、かたくなに自国語を守り続けるフランス人は立派である。明治人もそのことをよく認識していた。彼らは翻訳に熱心であり、適切な訳語がない場合は、必ず原語のまま書き記した(芥川の小説が良い例だろう)。それは単純な知的虚栄心の産物ではない。「いずれ適当な訳語が現れるはず」という、自国の文化に対する鷹揚な自信の現れではないか。

サジ加減

上述したのは非常に極端な例である。カタカナ語を絶対に使うな、と主張したいわけではない。それは不可能だ。先に述べた「メール」という言葉にしたところで、他に書きようがない。どこまで外来語を使うかが問題の本質で、そのサジ加減が難しい。書く人のセンスという、漠然とした結論になってしまいそうである。しかしたまには、カタカナ語で書き流す前に辞書を引いてみるってのも良いんじゃないかな。