- 切ないコーヒー牛乳

2005/07/22/Fri.切ないコーヒー牛乳

缶コーヒーもコーヒーも好きな T です。こんばんは。

缶コーヒーは「缶コーヒー」という飲み物であって、コーヒーではない。別の飲み物である。だからコーヒー党の、「缶コーヒーなんてコーヒーじゃねえよ」という意見には賛成だ。しかし、それで缶コーヒーの価値が減じるわけではない。

思うに、缶コーヒーはコーヒー牛乳の系譜につらなる飲料である。俺はコーヒー牛乳も好きだ。感情移入の度合いは、缶コーヒーより大きいかもしれない。コーヒー牛乳に感情移入しているのは俺くらいのものだろうが、そこには日本人の切ないストーリーがある(と俺は思っている)。

散切り頭を叩いてみれば、コーヒー牛乳の味がする

要するに、コーヒー牛乳は飲料界における鹿鳴館ではなかったか。

「文明開化だっぺ」
「異人さんはコーヒーっちうのを飲んどるそうな」
「わしらも飲んでみるっぺ」
「苦ッ!」
「こら、吐き出すでねえ。散切り頭が泣くど」

……とまあ、このようなやり取りがあったと推測する。そのうち彼らは、コーヒーに牛乳と砂糖を入れて飲みやすくするという習慣を学習する。そして、彼らの口に合うまで牛乳と砂糖を加え続けた結果、コーヒー牛乳という奇天烈な飲料が誕生したのではないか。

コーヒーが日本に伝来したのは、江戸時代の長崎であったという。『長崎見聞録』には、

かうひいは脾を運化し、溜飲を消し、気を降ろす。よく小便を通じ、脾臓を快くす。

とある。まるで薬だ。これは無論、コーヒーに実際の薬効があるからではない。コーヒーを飲んだ日本人が、「これは苦い。メチャクチャ苦い。しかし毛唐はコーヒーをガブガブ飲んでいる。こんな苦いものを毎日飲むのは、何か効能があるからだろう。恐らく薬に相違ない」と、勝手に思い込んでしまったからではないか。つまり、それほど日本人にとってコーヒーは苦かったのである。

そんなマズいものを、どうしてコーヒー牛乳にしてまで飲まなければならなかったのか。そこで俺は鹿鳴館を思い起こすのである。無理をして築いた西洋風の檻の中で盆踊りダンスを踊る日本人と、顔をしかめながら「旨い旨い」とコーヒーを胃に流し込む日本人は、同じメンタリティーを持っているように思える。その光景が、俺にはたまらなく切ない。この滑稽なまでの欧化が、良くも悪くも繁栄した現代日本の礎となっている。俺は日本人としてコーヒー牛乳を誇りに思うが、しかし同時に、ビン入りのコーヒー牛乳を見かけるたびに重くて辛い気恥ずかしさも覚える。

もはやコーヒー牛乳ではない

そこで缶コーヒー、となるわけだ。カチャカチャと音を鳴らしながら自転車で宅配・回収されるコーヒー牛乳が、かつての日本の貧しさを思い起こさせるのとは逆に、自動販売機で購入され、飲み終わればゴミとして廃棄される大量の缶コーヒーは、モノ作り世界一となって西洋コンプレックスを脱却した消費大国日本の、明るくてポップな「良い一面」(とカッコ付きで書いておく)の表象ではないか。だから俺は、「仕事の前の缶コーヒー」「仕事の合間に缶コーヒー」というのは、缶コーヒーの消費の仕方として極めて正しく思う。

「大人になってブラック・コーヒーも飲めない男なんて」という側面が、いまだに「本当の」コーヒーにはある。21世紀になってなお、コーヒーは日本人にとって「背伸びのアイテム」という一面を持つ。缶コーヒーは、そのような風潮とは無縁に、伸び伸びと消費量を拡大している。

そもそも地政学的に、日本人がコーヒーを飲む必然性はない。水が旨い日本では、茶などで香り付けした程度の飲料で充分に嗜好品として成立する。大航海時代の香辛料と同じで、要するにコーヒーは、「飲めたものではない水を、どうにか飲めるようにするための方便」にしか過ぎなかった。刺し身にできるような鮮魚が手に入らないから、仕方なく薫製を食っているようなものである。元来が旨いわけがない。「背伸び」になるのも当然だ。ひょっとしたら昔の日本人は、コーヒーを飲めば西洋人みたいにデカくなれるとでも思ったのだろうか。

デカくなる必要なんて全くないのにな、と思えるのは、俺が 21世紀にいるからである。当時の日本にそんな余裕はなかったであろうことを思うと、俺はまた切なくなるのである。妄想し過ぎだろうか。ちょっと病的な感情移入だよなあ。