- 努力論

2005/07/19/Tue.努力論

「あれだけ努力をしたのに」という輩が大嫌いな T です。こんばんは。

努力と結果

努力と結果には何の関係もない。努力は「私」がするもので、つまり主観的なものであり、結果は他者が採点するもの、つまり客観的なものである。そこに連続性はない。結果を見る側からは、あなたが努力したかどうかなんてわからない。意地悪く言えば、興味も関係もない。そのことをまず、しっかりと頭に叩き込もう。

その上でなおかつ、努力は重要であって、というよりも前提条件であって、報われないかもしれないことを冷たく理解しつつ、延々と精進しなければならない。この御時世、ちょっと能力のあるヤツは誰もが努力している。そんな人間がしのぎを削っている中で、少しでも頭を出してやろうと思うのならば、「努力が云々」などとホザいている暇はないはずだ。自らの無能を露呈しているようなものである。

努力は隠せ

「努力を隠す」というのは、奥床しい日本的美的感覚のみならず、対人交渉技術の観点から見ても、正鵠を射たパフォーマンスである。あなたが何かの面接官だとしよう。死ぬほど努力をして 80点を取った人間と、サラリと 80点を取った人間、どちらを採用するか。人それぞれの考え方があるだろうが、俺なら後者を採用する。無論、彼の 80点だって、死に物狂いの努力をした結果なのかもしれない。しかし少なくとも、それを「売り」にしないだけの余裕が彼にはある。「全く努力をしない人間」と受け取られては薮蛇だが、本当に努力をしている人間がそう思われることはない。

誰かに評価されたいという欲求は誰にでもある。ならばなおのこと、努力の痕跡は隠すべきだ。他者が評価するのは、あなたの努力ではなく結果である。そして、結果を出すために努力するのは当然のことで、それがアピールになることはない。「これだけ努力しました」だって? 冗談じゃない。

以上、自戒を込めて。