- 写経で生み出すバリエーション

2005/03/14/Mon.写経で生み出すバリエーション

写経をしたことがない T です。こんばんは。

就職活動日記

暇である。就職活動中といっても、先方に「では会って話をしましょう」と言ってもらえなければ、基本的にやることがない。書類審査の返事がなかなか来ない。「なかなか」というのも主観的な感覚で、ひたすら待っている俺にとっての1週間と、年度末の業務に追われているであろう先方にとっての1週間では、体感的な「早さ」が全く違うことは想像に難くない。おまけに、仲介役の斡旋会社も大変に忙しいらしい。順を追って考えると、一々もっともなことばかりであり、時間を持て余している俺の方がおかしいのだということに気付く。この時期はどこも忙しい。俺は写経でもしながら待つとしよう。

コピーとバリエーション

冗談で書いた「写経」でフト思ったのだが、経典をキーボードで打ち込む行為は「写経」になるのだろうか。感覚的に「写経ではない」と断ずるのは簡単だが、「どうして写経ではないのか」という問いに答えるのは難しい。突き詰めて考えると、「肉筆かどうか」が一つの争点になると思う。肉筆というのは、言い換えれば「同じものがない」ということ。その相違に、写経した人間の個性(この場合は「祈り」や「願い」)が宿り得る。つまり「写経」という行為は、コピーではなくバリエーションを産むためのものではないか、というのが我が仮説である。

俺が写経した般若心経と、高僧が写経した般若心経は、そこに書かれている文字は同じでも、やはり別物だ。それが霊的な力の依代となる(仏教は霊魂を否定しているが、あくまで便宜的な記述)。これがキーボードで入力し、プリンタで印字したものだとどうだろう。俺の経典も高僧の経典も全く同一になってしまう。恐らく霊験も希薄であろう。それはコピーであって、バリエーションではないからだ。

あれえ、似たような話をどこかに書いたなあ。探してみたら、1月 1日の「年賀状に見るアニミズム」で同じような主張をしている。写経した経典をモノとして捉えるならば、通ずることがある考え方かもしれない。

話を戻す。バリエーションを、狭義に「個体差」と言っても差し支えはあるまい。となると、これは生命の営みにも深い関わりがある。細胞分裂を基本とする繁殖活動の根本原理は「コピー」である。しかし様々な要因が重なって、完璧なコピーは達成されず、結果としてバリエーションが生じる。それが生物種の豊饒さであり、もう少し狭く見るならば、同じヒトの中でも「私」が唯一無二であることの理由なのだ。

このように考えると、人間が「コピー」に生理的嫌悪感を抱きがちなのも、当然のように思えてくる。現代では「個人」が盛んに叫ばれているが、それはコピーが巷間に溢れていることの裏返しではないか。経典を筆写している時代には、本当の「コピー」は存在しなかった。全てがバリエーションであり、ことさらに「個」を主張するまでもなかった。そういう意味で、近代的なマスプロダクツは、人類が手にした初めての「完璧なコピー」だったのではないか。工業製品にも「個体差」はあるが、それは通常の人間の認識能力では判別できない。全きコピー品なのである。個人主義とやらは、濁流となって溢れ出したコピーに対するアンチ・テーゼなのかもしれない。