- 穀潰し

2005/03/03/Thu.穀潰し

ムダ飯ばかり食っている T です。こんばんは。

これまでにも何度か日記で、「安易なカタカナ語やアルファベットの略語は嫌いだ。日本語を使え」と書いてきたが、その理由について詳しく述べた記憶がないので書くことにする。

カタカナやアルファベットで容易に置き換えられてしまう日本語は、ネガティブな意味を持つ場合が大半である。表意文字である漢字は、見ただけで悪い印象を醸し出す。それを無味無臭のカタカナやアルファベットで代用するのは、要するに隠れ蓑ということだ。現実は何も変わらないのに、あたかもマシになったかのように錯覚する。というよりはむしろ自己暗示に近く、これは文明人、あるいは日本語という優れた言語を操る文化人として欺瞞ではないのか。

開国以降、太平洋戦争までの日本が驚異的な発展を見せたのは、知恵を絞って外国語を訳し続けた明治人の功績に負うところが大きい。日本の初等教育の効果が優れているのは、比較的高等な概念、特に科学に関するそれを、既に定着した母国語で習得することができるからだという。例えば基本的な元素を表す日本語、水素、酸素、窒素などなどが存在しない世界で化学を勉強することを想像すれば、その恩恵がいかに巨大かということがわかる(逆にこのことは、外国語を会得する必要性を相対的に下げてしまったことにもなるわけだが)。

しかしそれは半世紀から1世紀も前の話、という意見もあろう。現代において英語の習得は不可欠であり、「新しく入ってくる言葉」をわざわざ日本語に訳す必要性は薄れつつある。コンピュータ、インターネット、データベースなどに対する訳語の需要はない。何ヶ月前であったか、政府の委員会がこれらの言葉を「正しい」日本語にしようと原案を練っていたが、出てきたのは奇態な訳語ばかりであった。明治人ほどのセンスがないのであれば、もう訳す必要はないと思う。

ではいったい何が問題なのか。俺が腹立たしく思うのは、「立派な日本語がありながら、それをカタカナやアルファベットに置き換えること」である。合理的な理由があるのならばともかく、臭いものには蓋とばかりに、都合の悪い言葉ばかり言い換えるのは言語に対する冒涜だ。例えば「NEET」なんかはその典型だ。何がニートだ。ちゃんと「穀潰し」という日本語があるではないか。心の中で「自分ハ無職ノ穀潰シデス」と呟いてみろ。俺のことだが。ゲッソリするよ。何せ「穀を潰す」のだからな。凄い言葉だ。

とまあ、素晴らしい日本語というのは、このような自省を促すほどの魔力がある。こんな味と歴史のある言葉を、どうして捨てようとするのか。そんなに他人を、自分を傷つけるのがイヤか。殺傷力のある言葉を使いこなせない人間は、言葉で他人を幸福にすることもできないと俺は思うのだが。