- 年賀状に見るアニミズム

2005/01/01/Sat.年賀状に見るアニミズム

下宿で新年を迎えた T です。明けましておめでとうございます。

年賀状

高校生の頃からほとんど出していなかった年賀状だが、大学生になって完全にやめた。「やめた」というほどの決意があるわけではなく、要するに面倒臭いから出していないだけなんだが。それでも、俺宛に届いた年賀状には返していた。

しかしここ2、3年、店舗や企業からの DM 年賀状を除き、友人知人からは 1枚も年賀状が来ないようになっている。全てメールに取って代わられてしまったわけで、こうなると、いわゆる年賀状ソフトの存在意義がわからなくなる。名前と住所を打ち込んで、文章や絵をちょこちょこと選んだり作ったりするわけだが、それって年賀メールを同じような気がするんだが。手間が等しい分、印刷や送付にコストがかかる年賀状の方が非合理的である。

非合理であるから悪いとは限らない。そこに価値を見出すのが「文化」の神髄である。では年賀状文化の本質とは何か。年賀状ソフトによって作製された「文面」は、もはやメールのそれと相違はない(手書きだから良い、という議論は成り立たない)。最終的に違いが残るのは、年賀状という紙 1枚、極論すれば物質的実体である。これを有り難がるのは、要するにアニミズムであろう。

山川草木悉皆成仏、雑草や石ころにまで八百万の神様がおわす我が日本。年賀状は、その最もハレの日たる正月に相応しい慣習であると思うのだ。俺は年賀状を書かないが、別に年賀状をバカにしているわけではないし、完全に消滅してしまえば、それはそれで残念な気もする。

アニミズム

アニミズムという感覚は非常に興味深い。あまりにも適用できる心理が広過ぎて、どこまでがアニミズムの所産なのかもわからないくらいだ。アニミズムの定義はさておき、それではデジタル時代のアニミズムはどこに向かうのかについて考えてみたい。

貴方がどういう信仰を持っていようと、人間の根源的な宗教心に関わるアニミズムは、必ず胸の内にあるはずだ。例えば聖書(仏典でもコーランでも良い)を踏みつけることができる人でも、家族や愛する人の写真を足蹴にする人は、まずいないだろう。聖典といえどもただの紙束、そう思える人でも、印画紙1枚を粗略には扱えない。その印画紙に、ある種の感情(この場合は愛情)を喚起する霊的なものを感じているからだ。その感覚を励起しているのが、このケースでは印画紙上の画像である。

この感覚が鋭敏になると、引き金となる刺激がなくとも、モノに霊的な感覚を抱くようになる。果たしてこの感覚が原始的なのか、それとも高尚な精神の発露なのかは議論の別れるところだが、今はその問題を不問とする。とにかくこれが、アニミズムが発動するまでのアウトラインである(専門家ではないので間違っているかもしれないが)。

重要なのは、霊的なものの依代となる「物質」がアニミズムの触媒となっているということだ。では、モノをどんどんと排除していくデジタル時代、この感覚はどこに向かうのだろう。

手紙を大事に取っている人は多いだろう。そして、「手紙」というモノ自体に愛情を向けることは可能である。では、メールはどうだろうか。大事な人からのメールを大切に保存したとする。この「メール」に感情を抱くことはできるだろうか。これは難しい。「メール」の物質的実体は、メモリやハードディスクにある。携帯電話やパソコンからそれらの部品を取り出し、「この中に大事なメールが入っていますよ」と言われたところで、我々は「手紙」のように、モノとしてのそれらを愛することはできるだろうか。できない、と思う。

デジタル時代のポスト・アニミズム

別に必ずアニミズムを持つ必要はない。だから無理矢理に「メール」を愛することもないわけだが、人間というものは、そう単純ではない。本当に好きなものに対しては、「愛情を注ぎたい」という「欲求」が沸き起こる。モノがある時代、その欲求は容易にアニミズムとして昇華させることができた。しかしモノがないとき、我々はいかにして欲求を満たせば良いのだろうか。方法は二つある。一つは、モノを手に入れてアニミズムを発動させること。もう一つは、アニミズムに代わる方法を選択すること。

一つ目の方法は、それほど難しくはない。メールならプリントアウトすれば良い。例えば K先生は、大事なメールは印刷してファイリングする。俺は当初その行為を、パソコンに疎い老人の非合理的な行動としてしか解釈していなかった。が、どうもそれだけではない。というのも、実は俺も同種の行為をしているからである。大事な実験データなどは、CD-ROM などの外部メディアに保存して、大切に保管する。原理的にはバックアップなのだが、しかしやはり感情が入り込んでいる。大切なデータは、20枚入りの安売り CD-ROM にコピーする気がしない。ちゃんとしたケースに入っている、1枚売りの CD-ROM をわざわざ買ってきてコピーする。凡百のデータとは、モノとしての差別化を無意識に行っているのである。こんな例は、探せばもっと例が出てきそうだ。

さて、実体を手に入れる > アニミズムを発動させる、という方程式の究極のパターンは、「本物」を手に入れることである。ここまで来れば、それはもうアニミズムではないのだが、これについて少し書く。というのも、「出会い系サイト」や「メル友」がしばしば引き起こす、まるでストッパーが外れたような事件と大きく関わっている気がするからだ。逆に言えば、「手紙」というモノがあればアニミズムが発動し、それで欲求不満をある程度は解消できるはずだが、それがないために、一気に「本物」に走ってしまうのではないか。「本物」に触れた途端、それまで抑圧されていた欲求が、刹那的に解放されてしまうのではないか。そんな推論が立てられる。確証はないが。

話が逸れた。欲求を満たす二つ目の方法について考察……したいのだが、果たしてアニミズムに代わる方法が実際にあるのか、俺にはわからない。これはデジタル時代に乗り越えなければならない壁だと認識しているが、どうも上手い具体案が見られない。

それは市販ソフトウェアのパッケージにも現れている。デジタルデータは、その知的財産や所有権に本当の価値がある。しかしそれはなかなか認知されない。というか、認知が拒まれている。そこにモノがないため、人間は価値を「認めたがらない」からだ。だからソフトウェア会社は、たった 1枚の CD-ROM に収まるソフトウェアを、あんなバカみたいにデカいパッケージに梱包する。これは実話だが、立派な箱に入れて陳列しないと、どんなに優れたソフトウェアでも「売れない」という。このエピソード一つ取っても、いかに我々がアニミズムに縛られ、真のデジタル時代へと飛翔できていないかは明白である。

困ったものだ。だから、まだまだ年賀状は必要なのである。

謹賀新年

……などと、年賀状について思いを巡らしていたら、とんでもない長さになってしまった。正月の様子とか、今年の目標などについては、明日の日記で書こうと思う。それでは、良いお正月を。