- 記録論

2004/08/04/Wed.記録論

と学会に西原理恵子と、今日は頭のワルそうな本ばかりを 5冊も買った T です。こんばんは。

昨夜はヒゲマン氏と S海岸へドライブ&ツーリング。結局、K君は来ず。「海に行って何をするのか」と問われた。バカ野郎、することがないから海に行くんだよ。寂しい奴とかって言うな。

信号を無視して入ったコンビニでビールを買っていく、というアナーキーな往路。いい加減にしろよ > ヒゲ。付き合う俺も俺だが。ま、ビールといっても 350 ml 缶を 1本だけだし、飲んでから 4時間も経ってから帰ったので問題はない。はず。帰途で小雨に遭ったりもしたが、概ね楽しいツーリングだった。

良い記録とは

筒井康隆『天狗の落とし文』を読了。内容が内容だけに「Book Review」に書く予定はない。が、いやしくも「記録」と銘打つからには、読破した全ての書物を記しておきたい、という気持ちもある。ますます読書の義務化が進みそうなので、今のところそうするつもりはないが。

良い記録とは何か、を考えるに、それは単純に情報量の多寡で決まるのではないかと思う。どんなつまらないことでもとりあえず記しておく、というのが、良い記録を作るために唯一必要な作業ではないだろうか。

そもそも「つまらない」情報かどうかは、その記録を参照する人によって決まるわけで、一次的に記録を作るときに、記録者によって情報の選択が行われる必然性はない。特化した目的のためには、参照者がそれぞれ記録を選別し、加工し、まとめ上げ、見やすく、理解しやすいように要約すれば良い。それを実現するには、前提として網羅主義的に記述された膨大な記録が要求されるんじゃないかという話。最初から小綺麗にまとめられた「記録」なんかに、何の価値があるというのか。

コンピュータどころか、タイプライターもない時代に編纂された、巨大なボリュームを持つ辞書、字典、歴史書を見よ。人間の「知りたい」という欲求は止まるところを知らない。未来の子孫が欲するところを満たすには、とにかく記録して記録して記録しまくるしかない。ここまで来ると一種の歴史論になってしまうが、エラいと思うのはやはり中国人である。起居注とか、記録へのこだわりにはスゴいものがある (じゃあ文化大革命は何だったのか、という疑問も残るけれど)。