- 贅沢論

2004/02/21/Sat.贅沢論

精神の貴族を自認する T です。こんばんは。

精神の貴族という時点で、そいつには現実世界での財力はないことがわかる。財力もあればどうなるか。それを単に貴族という。貴族なんてなくなったことだし、ならば精神の貴族でも良いから標榜するに越したことはない。でも、本当の貴族は、ちゃんと庶民からは見えないところに存在するんだろうなあ。というのはロマンチックな幻想であろうか。是非、いてほしいものである。

ここ数年、「豊かさ」を巡る議論が騒がしい。こういう抽象的な事柄を瞬時に説明できる人は、本当に語彙力が豊富だということがわかるので、良い機会だから色々な人に聞いてみるのも面白い。俺の言葉で言うならば、「豊かさ」とは「選択肢の多さ」に他ならない。「貧乏子沢山」というのは、実はそういう意味である。娯楽が交合くらいしかないので、自然とそうなる。金持ちは娯楽の選択肢が豊富なので、子供は少ない。そう勝手に理解している。別に押し付けるつもりはないが。

今日は「贅沢」に関してブチ切れた。とある広告で「高い食事で贅沢を」みたいな意味で使われている。アホか。高いには高いなりの理由があるわけだろう? 美味い食事に高い金を払うのは当然。それが資本主義じゃないのか。どいつもこいつも貧乏臭い。言うまでもないが、貧乏臭いのと貧乏は違う。

「贅沢」というのは「無意味、無価値、無駄、無為を自覚しつつそれを楽しむこと」ではないのか。贅沢という言葉は、そういうポジティブな意味を持っていると思う。いつから「貧乏人が(貧乏人にしては)多額の金を使う」というネガティブな意味になったのか。そういう行為には「分不相応」という立派な言葉が別にある。俺の辞書がおかしいのか。

俺は貧乏だが(学生だからそれで良い)、それでも分不相応ではない贅沢はできる。例えばこのサイトだ。誰からも注目されていない人間が、自分の意見や作品を好きなだけ開陳できるネットというのは、実に贅沢な場だと思う。だからこれだけ個人のサイトがあるのではないか。

誰が読んでいるのか知らないし、1日で数十のオーダーだが、それでも毎日カウンタが回っている。実に贅沢な気分になれる。いつも読んでくれている方々、ありがとうございます。と綺麗にまとめてみたり。