- 『昭和天皇 第四部』福田和也

2010/10/02/Sat.『昭和天皇 第四部』福田和也

副題に「二・二六事件」とある。

本巻では同じく、五・一五事件に関する描写もあるが、いずれもその頁数は少ない。もっとも、本書は昭和天皇の評伝であるから、軍部の細々とした動きを一々書く必要はないかもしれぬ。しかし、二・二六事件が日本史に与えたインパクトや、昭和天皇の人生における位置付けを考えるなら、もう少し工夫があっても良かった。

とはいえ、二・二六事件を含む一連の流れの「意義」を問い始めるなら、いくら筆を費やしても足りぬ。

この数年で、二・二六事件を描いた書物を何冊も読んだ。いつも思うのは、当時と現在の時世の相似である。何かヒントになることはないかと考えながら読み進めるのだが、大体は遣り切れない気持ちのまま読了することになる。

例えば、当時、学者たちは恐ろしく無力であった。天皇機関説の美濃部達吉博士など、気骨に溢れた人物はいた。日本という国が、歴史の中でそのような学者を得たことは誇るべきことだけれども、結果論でいうなら、無力なのであった。

力がある者は陰謀を巡らし、クーデターを画策した。地位のある者は権勢を拡げようと奔走するか、さもなくば保身に汲々とするばかりであった。金のある者は、力のある者や地位のある者にすり寄った。何も持たぬ者は、不満と諦観の狭間でただ日々を送るしかなかった。義憤を抱いた者たちが結集することもあったが、共産党のように堕落するか、歴史の泡沫として消え去るくらいしか途はなかった。

現在や昭和初期に限らず、歴史の変わり目とは、およそこのようなものなのかもしれぬ。人間が根本的に変化しない限り、同じような状況が訪れれば同じような流れが生まれるのであろう。そのとき、大抵の人は無力である。

しかし、このような変えられぬ流れの中で、自分をどのように位置付けるか、どのように振る舞うかくらいは選択の余地がある。自分の在り方——生き方といっても良い——のモデルを探索する際、やはり歴史に学ぶところが大きい。

時局に嘆いたり憤ったりするのは簡単である。だが、悲憤慷慨したところで何も変わらぬ。かといって、変えようと運動したところで、よほどの歴史的幸運がない限り、これまた何も変わらぬのである。何も変わらないのだから何もしない——、それもまた選択であろうが、それでは虚しいと思うのもまた人間である。どうすれば良いのか。当世の不安の根本には、そのような疑問があるのかと思う。

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