- Book Review 2009/12

2009/12/23/Wed.

副題に「『瀬島龍三』とは何だったのか」とある。

1945 年 8 月 9 日、ソ連は日本に宣戦布告し、ソ連軍は満州国境線を突破した。このとき、関東軍総司令部参謀であった瀬島龍三とソ連軍の間で取引があり、多くの在満関東軍が捕虜としてシベリアに抑留された——という噂は根強い。瀬島は帝国軍をソ連に売ったというわけだ。しかし本書では、多数のインタビューを元に当時の様子を以下のように再現している。

つまり関東軍の狙いは「民族再興」のため、満州にできるだけ多くの軍人・居留民を残すことだ。その背景について元大本営対ソ作戦参謀、朝枝繁春が言う。

「日本の四つの島に押し込められては経済再建ができない。再起には資源がある大陸に、たとえ国籍を変えてもかじりついていることが大事だと考えた。邦人が残れば、拠点にして盛り返せると思った」

陳情書と会合記録。これらの文書を見る限り、瀬島らが想定していたソ連軍の関東軍将兵への「処置」は日本送還と満州残留の二つしかない。シベリア抑留は念頭になく、戦後賠償としての労力提供という発想もない。陳情書提出十日前のジャリコーワでの「停戦交渉」でシベリア抑留をめぐる密約がなかったことを裏付けている。

(「第四章 スターリンの虜囚たち」)

極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの副官だったイワン・コワレンコはが言うには、「捕虜をシベリアで労働させようというのはスターリンのアイデアなんだ。関東軍の降伏前から、彼の頭の中には戦争で疲弊した国民経済復興に捕虜の労働力を使おうという考えがあった。問題は関東軍がいつ降伏するかだけだった」(「第四章 スターリンの虜囚たち」) という。瀬島がシベリア抑留に関わったという証拠はない。そも、瀬島自身が 11 年間もシベリアに抑留されているのだ。

瀬島は、戦中は大本営参謀として数多くの作戦を企画立案し、戦後は伊藤忠商事の人間として賠償ビジネスや防衛庁商戦に関わった。こうした彼の経歴と人脈が、黒い噂に尾鰭を付けたものらしい。本書には、戦中の大本営の様子、戦後賠償ビジネスや汚職構造を孕んだ防衛庁商戦の内幕についても詳細な記述があり、現代史の裏側に興味を持つ者にとっては非常に面白い。

「瀬島龍三とは何だったのか」という問いに戻るなら、瀬島は、数奇な運命を辿った戦前のエリートの一人だったのではないか、というのが私の感想である。瀬島だけが何か特別であったという印象はない。目立って表には出てこないが、このような人間は大勢いた (いる) のではないか。そのような人々が「沈黙」している、少なくとも庶民たる我々の目にはそのように見えるのは確かである。本書は、その「沈黙」を掘り起こした見事な一冊である。

2009/12/22/Tue.

現代芸術論が良かった。

現代美術というのはコンセプトであり、作品物体そのものはいくらでも代替がきく、というのを原理としている。だから画家の手わざのオリジナリティが珍重されていた時代の芸術 (印象派とか表現派までの) とはまるで違う価値観で構成されている。

(中略)

河原温の日付けだけの作品などはそのわかりやすい典型ではないかと思う。キャンバスにその日の日付けの数字だけが、単色で、しかも無機的な活字体で描かれている。商品世界の考えでは、それは看板屋に頼んで手間賃だけで描かせればいいのだけど、しかしこれは商品ではなく芸術としてこそあるのだから、作家の河原温が描いたという保証を要求される。

(「3 現代美術と鼻の関係」)

これを突き詰めると、「つまり誰それが作った、誰それがおこなったというだけでぎりぎり芸術があるという状態」(「3 現代美術と鼻の関係」) となる。はて、芸術を創る人が芸術家ではないのか、芸術家が創ったから芸術であるとはこれ如何、という奇妙な撞着に陥る。私が前衛芸術やコンセプト・アートのほとんど全てに理解が及ばず、決して評価しないのはこの矛盾に起因するらしい。

私が上記の論を読んですぐに思い浮かべたのが『4 分 33 秒』という楽曲 (?) の存在である。理屈としてのコンセプトはわからないでもないが、「それを聴きたいと思うか。聴いて快い (あるいは不快である) のか」という疑問から前に進むことができなかった。それじゃあ我が部屋の 4 分 33 秒も芸術なのか? ——以前から抱いてきたこの子供っぽい疑問は本書で氷解した。『4 分 33 秒』はジョン・ケージという人が作曲したから芸術なのである。まことにつまらないものだと、私は思う。

2009/12/17/Thu.

怪物的というか、妖怪じみたというか——、山県有朋という一個の人間が発するそのような気配の源泉を、いつかは正確に把握したいと思っていた。そこで手に取ったのが本書である。

山県の功績はよく知られている。長州奇兵隊で活躍した有朋こと狂介は、維新後、天皇絶対主義に基づいた全体国家を軍隊と警察によって成立せしめるべく、軍制と警察制度の確立、徴兵制、軍令と軍政の分離、帷幄上奏権、軍部大臣現役武官制、軍人勅諭、教育勅語、軍学校の設立、治安維持法などなど、無数の政策を陰に陽に駆使することで戦前の日本を形作った。

彼の功罪、特にその罪の部分は、結果論的に (主として大東亜戦争の敗北を反省する形で) 語られることが多い。しかし本書は、一貫して山県目線で物事が描写され、リアルタイムに時局が進行する形式で書かれている。筆致は淡々としているが、なぜそのときの山県がそのような行動に出たのかが——少なくとも山県の理屈としては——、よく理解できる。ここがまず新鮮だった。

山県の信念は徹底しており、人生を通して貫徹された。以下の逸話は、彼の天皇絶対主義がいかに「純粋」であったかを雄弁に物語る。

明治四十五年七月十日、東京帝国大学に行幸の天皇は、階段を一段あがるごとに足をそろえねばならぬほど、衰弱していた。にもかかわらず、天皇はきめられた行事のために、最後の気力をふりしぼってつとめた。七月十五日、天皇は枢密院の会議に出席した。このとき天皇は、それまで一度もなかったことであるが、もう堪えられぬほど弱っていたのであろうか、うとうとと仮睡した。山県は、議長席にあってめざとくそれを見つけると、軍刀の先で床を強く何度も叩いた。そのきびしい音によって、天皇を目覚めさせ姿勢を正させたのである。山県が尊崇したのは、かれの理念にそうような天皇でしかなかったのではあるまいか。

(第七章「勤王に死す」)

山県の理念は純粋に過ぎ、その行動は冷徹さを厭わぬ完璧主義によって実行された。周囲の人々はその心理を計りかね、彼を恐れた。

本書はそのような山県の内面を活写した、見事な一冊である。

2009/12/16/Wed.

全ての史書は偽史的である——、という史書論 (偽史論) を立てることは可能である。何をもって偽史とするかは難しい。例えば神話を含む『古事記』は偽史なのか。『信長公記』と『徳川実紀』の記述が食い違うことをもって、どちらか (あるいは両方) を偽史とするのか。

そういう論を踏まえたとしても、『東日流外三郡誌』はお粗末に過ぎる。描かれている内容や使われている文言、筆跡から紙質に至るまで、あらゆる証拠が『外三郡誌』が戦後の創作であると証明している。偽史として非常に幼稚なのだ。孫引きになるが、民俗学者の谷川健一によれば「偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である」。その詳細は本書に詳しい。

私が『外三郡誌』を知ったとき、真偽論争の決着は既に着いていた。それでも私が『外三郡誌』に興味を持つのは、この稚拙な偽書がなぜ多くの人間を惹き付けるのか (『外三郡誌』はオウム真理教の歴史観にも影響を与えている)、そして『外三郡誌』を含む膨大な和田文書を捏造した和田喜八郎の情熱はどこから生まれてきたのか、という疑問を覚えるからである。

鎌田彗が解説で鋭く指摘するように、『外三郡誌』が徹底的に否定されたのは「壮大な『三内丸山遺跡』が出現する直前、という時代の幸運もあった」。『外三郡誌』の「発見」が三内丸山遺跡の発掘と前後していれば、事態の推移はまた別のものになっていただろう。我々は、よくできた嘘にではなく、自分が信じたいと思う嘘にこそ騙される。その真理は、ゴッドハンド事件で鮮やかに示された。

本書は、『外三郡誌』事件を最初から最後まで追いかけた新聞記者による克明なルポルタージュである。『外三郡誌』とはいったい何であったのか。関心がある人は必読の一冊であろう。

2009/12/01/Tue.

篠原勝・訳。原題は "THE ENIGMA OF JAPANESE POWER"。

外国人による日本論の大半は噴飯物であり、冷笑の対象になればまだ良いほうで、大抵は無視され忘却される。「外国人には日本 (人) が理解できない」と心底で信じているところが日本人にはある。一方で西欧人は、「現代日本は民主主義と資本主義という西欧のルールに則って我々のゲームに参加しているメンバーである」と (一応は) 信じており、その文脈で日本を読み解こうとする。日本人が海外製の日本論を無視するのも、また実際に、その論の多くがヒドいできであるのも、この捩れに依るところが大きい。

本書は日本の構造を、その権力の行使のされ方という観点から読み解いたものである。著者は 1962 年以降、日本に在住している新聞記者だという。

本書が優れているのは、冒頭の問題を提出することで、「外国人が日本を誤解しているのはなぜか」が、外国人にも日本人にも理解できるように記述されている点にある。つまり本書は、外国人のための日本論であると同時に、日本人のための西欧論にもなっている。これは非常に大きな特徴である。

外国はなぜあんなにも日本にプレッシャー——ときに相当に理不尽に思える——をかけてくるのか? そう疑問に思ったことのある日本人は多いだろう。このような例が、日本と外国の discommnucation の結果であることが、本書を読めば理解できる。日本は外国を誤解しており、外国は日本を誤解している。誤解を正すような書物や PR は過去に何度もあった。しかし対処療法的に各問題の誤解を正しても、誤解のメカニズムが双方に自覚されない以上、新たなテーマに対して再び誤解が起こるであろう。そこで本書の、「なぜ誤解するのか」という主題が生きてくる。

本書はあくまで西欧社会に提出された日本論であるが、日本を愛する著者による、日本人に向けられた温かい提言も数多くある。蒙を啓かれるという表現に相応しい名著。