- Book Review 2009/10

2009/10/26/Mon.

夏目漱石について吉本隆明が語った講演を本に起こした 1 冊。採り上げられている漱石の作品は以下の通り。

『猫』『坊っちゃん』などの初期における例外はあるものの、漱石文学の主要なテーマが、「一人の女性をめぐって二人の男性が愛情について葛藤を演ずる」「その二人はかならず親友であるとか、たいへん親しい切ってもきれない血縁の間柄にあるということ」(「資質をめぐる漱石」) であることは、作品を読めば誰でも気付く。特に後者の条件——二人の男性の関係性——は重要で、「一人の女をめぐって二人の男がやりあって、一人が勝利を得て一人が敗北した、それはそれで堂々たるふるまいだという西欧的な不倫小説、浮気小説」(「青春物語の漱石」) とは趣を全く異にする。漱石が日本の代表的な作家とされ、作品が今日なお読解に耐えるものとして残っている所以である。

この奇妙な——しかしいかにも日本的な——主題に漱石が固執したのはなぜか。それが吉本の主要な興味である。無論、漱石亡き今、この問いに答える術はない。色々と説はあるようだが、吉本は漱石のパラノイア的な資質に重点を置く。漱石の妄想癖はつとに有名だが、妻が『漱石の思い出』に描く以下のエピソードなどは凄まじいものがある。

たとえば、火鉢があって、向こう側に長女がいて、五厘銭か何かそこに置いた。火鉢のこちら側に漱石がいて、いきなり娘をひっぱたいちゃうわけです。娘のほうは、なぜひっぱたかれたか全然わからないで泣き叫ぶわけですが、奥さんの追求にたいして漱石が答えています。じぶんの英国留学時代にロンドンの町を散歩していたら乞食がいて銭ごいをした。じぶんは銅貨を一枚、その乞食にあげて下宿に帰ったら、下宿のトイレの窓のところに、それとおなじ銅貨が置いてあった。漱石は、これは下宿の女主人が、おれのあとをつけてきて、おれが乞食に銅貨を一枚恵んだというのを諷刺するために、つまりおまえのやることはぜんぶしっているよというふうにいうために、トイレのところに銅貨を置いておいたんだと、そう漱石は解釈するわけです。パラノイア的になってきたときには、そういう関係づけの妄想がおこります。

ところが、火鉢の向こう側にいたじぶんの娘が銅貨をこれ見よがしに置いているのは、ロンドン時代のそれがぜんぶ結びついて、おれが下宿の女主人からそういうふうに追跡されたのを知っていて、わざと五厘銭を置いたんだと解して、ひっぱたいたというわけです。つまり、この種の妄想の連結の仕方は、漱石はしばしば実生活のうえでやっております。『吾輩は猫である』のなかにもずいぶんその種の場面は出てきました。

(「資質をめぐる漱石」)

本書は、そのようなパラノイア作家・漱石の作品として、上に挙げた小説を読み解く作業である。結果、ある作品像のようなものが浮かび上がってくる。もちろんそれは解釈の一つに過ぎないが、「読む」という行為は創造的であるという立場に立つならば、本書もまた素晴らしい「作品」であるといえよう。

2009/10/22/Thu.

岩瀬孝雄・訳。副題に「ケネディ暗殺犯を追え」とある。原題は "On the Trail of the Assassins"、副題は 'My Investigation and Prosecution of the Murder of President Kenedy' となっている。

ケネディ暗殺事件——とりわけ、事件にまつわる多くの疑念——については広く知られているので詳述しない。

事件当時、著者はニューオリンズの地方検事であった。ダラスで発生した暗殺事件に関わったのは、実行犯である——とされた——リー・ハーベイ・オズワルドがその夏、ニューオリンズに住んでいたからである。オズワルドの奇妙な生活を追いかける内に、次々と怪しげな人間関係が浮上してくる。同時に、政府・マスコミによって発表された事件の「真相」についての疑惑が頭をもたげてくる。

著者は検事局のメンバーで特別チームを構成し、地道な捜査、根気の要る手続き、膨大な資料と格闘しながら、彼らの真相に迫って行く。この過程が警察小説、法廷小説のようであり、またスリリングな調書のようでもある。複雑な背景が交錯に交錯を重ねるが、頁をめくる手は倦むことがない。

著者は地方検事になる以前は第二次世界大戦を欧州で戦い抜いた軍人でもあり、その気質は剛直にして誠実、絵に描いたような「法の人」である。捜査が核心に近付くにつれ、彼は、徐々に露骨となる妨害工作 (捏造された事件によって連邦政府に起訴される、マスコミにネガティブ・キャンペーンを張られる、など) に晒されるが、彼の態度は終始一貫しており、常に毅然としている。暗殺事件の背景にはドス黒い陰謀が示唆されるが、彼を中心とする検事たちの爽やかな人間性は、この記録における貴重なアクセントになっている。

ケネディ暗殺事件は、CIA を中心とする中央情報コミュニティの一部分子が共謀した「クーデター」というのが著者の結論である。この時期、CIA の、暴力を伴う独自秘密外交が奇形的に拡大していたことを思うと実に納得がいく (肥大化した CIA の独走を詳述した書物を読んだはずだが、ついに本棚から見付けることができなかった)。

今回、この事件と CIA について新たな感想を覚えた。それは、この時期の CIA と昭和初期の大日本帝国陸軍の相似である。CIA の暗躍は上層部の決定に依るものだけではない。一部の者 (強烈な反共主義者、極右的思想の持ち主が多い) と非正規のエージェント (外国人を含む) が独自かつ内密に計画を立案し実行する。議会や政府は、しばしばそれを事後承諾的に黙認させられた。これは、青年将校や大陸浪人が跋扈し、張作霖爆殺事件、五・一五事件などを引き起こした我が旧軍の歴史を彷彿とさせる。

米国が孕むこの問題は現在まで尾を引き、近くは 9・11 事件についても奇怪な噂が絶えない。今後アメリカ合衆国が没落することがあるとすれば、経済や軍事の敗北によってではなく、自らの国民を欺くことすら厭わない選民思想的な人物・組織によって崩壊するのではないか。……ということを思った。

2009/10/20/Tue.

副題に「金融恐慌と血盟団事件」とある。

摂政であった裕仁親王が昭和天皇として即位する場面から本巻は始まる。描写が徐々に小説めいてきて、ときにコミカルに感じられさえするシーンも散見される。本書は歴史書ではなく評伝であるから、それはそれで面白いのだが、どこまでが事実であるかわからぬ。わからぬのは史書でも同じであるが、「読み物」として面白くあろうとするような志向を本書からは覚える。

以下は三月事件において、清水行之助 (大川周明一派) が徳川義親 (松平春嶽第六子、尾張徳川侯爵) に金を無心する場面である。

さすがに殿様は、考え込んだ。悪いけれどもう一度来てくれ、という。

二日後、行くと殿様はニコニコして、金は出来たという。

事情を家令の鈴木信吉に話したら、そういう御用ならば、切腹覚悟で案配しましょう、と云って、同家秘蔵の金塊を処分して金を作ってくれたという。

切腹は可哀想だな、と清水は思った。

(「三月事件」)

このような叙述をどう受け取るかで本作の評価はわかれるのではないか。主題が主題であるだけに、なおさら。

以下、気になった逸話を紹介する。政治情勢については松本清張『昭和史発掘 2』同『3』などで書いたから省略する。

現皇后美智子陛下が宮中祭祀に熱心であることはよく知られるところである。「国母」として国民の尊敬を得るには、祭祀への寄与が不可欠である。そういう風潮がある。皇太子妃雅子殿下に一部の人間が不信を覚える原因の一つもここにある。

天皇のみならず、その妃にまで祭事が求められるようになったのはいつからだろう。本書では、大正天皇妃節子 (貞明皇后) が非常に信仰心に篤かった様子が描かれている。昭和帝も祭事に熱心ではあったが、貞明皇后から見れば「陛下は、形ばかりの敬神です。本当に、真実に神を敬わなければ必ず神罰を受けるでしょう」(「神ながらの道」) というのだから恐れ入る。神がかっていた方なのかもしれぬ。

さて、天皇の祭事で一般的に最も有名なのは、田植えと稲刈りであろう。ところが、これは昭和天皇に始まる、大変新しい行事なのであった。

昭和二年六月十四日の午後一時三十分、彼の人ははじめて田植えをした。

(中略)

天皇による田植えと稲刈りは、今日まで継続されている。いかにも瑞穂の国の大君にふさわしい行事であり、国民からも国柄を象徴する営為と捉えられている。そのため、太古から続く祭儀と捉えられがちだが、実は昭和の新儀なのである。皇室の長い歴史は、新しい発議を積極的に取り入れながら、時代時代に変わりつつ、変わったからこそ脈々と続いてきた。

(「女官制度の改革」)

前巻の感想で、皇室は「決して固陋ではない。むしろ革新的な面すらある」と感想を述べたが、それは本巻でも強く思うところである。

関連

2009/10/19/Mon.

本書は高度経済成長期の通産官僚を描いた小説である。

主人公の風越信吾は「野人」と呼ばれる粗野な面もあるが、筋の通った人間である。「おれたちは、国家に雇われている。大臣に雇われているわけではないんだ」というのが信念であるため、大蔵省にも政治家にも経営者にも頭を下げぬ。特定の誰かのためではなく、「国のため」に政策を立案する。

風越のもう一つの特徴は、人間に対する興味である。「わたしは、いちばん、人間に興味があるんです。だから、もっともっと、これはと思う人事をやってみたい。あたりさわりのないトコロテン人事を、この通産省からしめ出したいんです」。彼はいつも手元で名刺を繰っている。省内の人間の名刺である。このカードを、ああでもないこうでもないと並び替え、将来実現するべき理想の人事を夢想する。いつしか「人事の風越」と言われるまでになった。

この風越と、彼を慕う、あるいは彼と対立する人間の群像が本書の主題である。官僚とは何なのか、どうあるべきか。政策とは、政治とは。人事とは、権力とは。それらの問いが、よく描き別けられた人物像によって体現され、彼らが摩擦することによって鮮烈に浮き上がる。そういう意味で、本作はよき「典型」が多数登場する小説である。