- Book Review 2009/09

2009/09/28/Mon.

現代数学とは何であろうか。「20 世紀に入って発達した数学を現代数学と呼ぶなら、その特徴は『モノからコトへ』と集約できる」とはカバー裏の言である。つまり、具象から抽象へということだろう。

19 世紀まで、ユークリッド空間は唯一の幾何学空間であった。しかし、非ユークリッド幾何学の誕生により、ユークリッド幾何学は単なる幾何学空間の一つ、恣意的に設定された 5 つの公理によって導かれる具体的で特殊な空間でしかないことが明らかとなる。非ユークリッド幾何学は位相幾何学へと発展し、座標という具体的な位置 (モノ) に捕われることなく、図形の繋がり方から、果ては「"近い" とは」といった「コト」を数学的に扱えるようになった。

ユークリッド幾何学は 5 つの公理をその基礎に置く公理系でもある。公理とは、点だとか線だとかの具体的な定義ではない。公理は記号の論理的操作を表すルールに過ぎない。したがって、「線、点」の代わりに「卓、椅子」といた記号でも幾何学が構築できる。ヒルベルトに始まりゲーデルに終わる数理論理学、数学基礎論については以下の書に詳しい。

もう一つ、数学で重要なコトが「無限」である。例えば自然数という数がある。有理数があり無理数がある。これらは具体的な数字である。ではこれらの集合を、延々と続く数列をまとめて操作したときに何が起こるのか。その基礎となったのがカントールの集合論であり、本書では有名な対角線論法についても詳細に解説されている (対角線論法はまた、ゲーデルの不完全性定理にも登場する重要なアイデアである)。

さて、1988 年に出版された本書の最後では、ファジィ理論、カタストロフィ理論、複雑系、カオス系についても簡単に触れられている。これらは近年の進展が目覚ましく、興味がある向きは以下の書も面白いかと思われる。

現在、スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』に似た主題の本 (マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』) を読んでいるが、この種の書物に挑戦するウォーミング・アップとしても、本書は優れていると思う。

2009/09/07/Mon.

安原和見・訳。原題は "ON KILLING"。

生 (性) と死は永遠の哲学的テーマである。生死は常に宗教の主題であった。また、ここ 100 年で性に対するタブーも大方が葬り去られた。さらに近年では、自殺や、精神病質者 (サイコパス) による殺人といった死のテーマも大きく研究が進んでいる。これらは精神医学、心理学の発展に依る部分が大きい。

しかし、普通の人間による「人殺し」(これはつまり同族殺しでもある) について我々はどれほど知っているだろうか。「普通の人間による人殺し」のサンプルはどこにあるのだろう。殺人事件か。否。もっと広範で膨大で一般的な症例を提示する事象が存在する。戦争である。人類の歴史の大半は戦争の歴史でもあった。だが、戦争における「普通の人間による人殺し」の体系的な研究はほとんどない。

本書は、豊富な事例とともに戦争における殺人を扱った 1 冊である。

まず、意外と盲点になっている事実が挙げられる。戦争に参加する戦闘員は、ほとんどが「敵を殺したくない」という強烈な思いに捕われ、それだけでなく、実際に「敵を殺さないように」行動しているという事実である。

第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか一五から二〇パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない (多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。

(第一部「殺人と抵抗感の存在」)

20% 未満の発砲率とは、驚くべき低率である。なぜ兵士たちは発砲しなかったのか。答えは単純である。人を殺したくないからだ。殺人に対するこの忌避感は、ときに自分が負傷・死亡することに対する恐怖をも上回る。戦争という極限状態においてさえ、「人殺し」とはこれほどまでのタブーなのだ。考えれば当然のことかもしれないが、あらゆる「戦争神話」がこの単純な事実を覆い隠してきた。

一方、戦争において多くの者が死ぬという厳然たる事実が存在する。やはり誰かが誰かを殺しているのである。上記のようなタブーを越えてしまった者が存在するのだ。その禁忌の巨大さゆえ、殺人者——特に対人殺におけるそれ——である「彼」は、深刻な心理的葛藤と、死ぬまで続く罪悪感に責められる。ベトナム戦争以後、PTSD (心的外傷後ストレス障害) は広く世間に認められるようになったが、本書ではその生起のメカニズムについても詳細な考証がなされている。

しかし、何よりも問題なのは、兵士を「殺人者」に仕立て上げる訓練方法の発達である。第二次世界大戦では 20% 未満だった発砲率が、「訓練法の変更によって、マーシャルの研究によれば朝鮮戦争では発砲率が五五パーセントに上昇し、さらにスコットによればベトナムでは九〇〜九五パーセントに上昇している」(第一部「殺人と抵抗感の存在」第 3 章「なぜ兵士は敵を殺せないのか」) 事実である。発砲率の上昇は「殺人者」の増産を意味するが、真に慄然とするのは、「さまざまな変数を操ることで、現代の軍隊は暴力の流れを管理し、水道の蛇口でもひねるように殺人のエネルギーを出したり止めたりしている」(第四部「殺人の解剖学」第 25 章「すべての要因を盛り込む——死の方程式」) という現実である。人間は、適切な条件付けさえすれば、ほとんど躊躇うことなく「人殺し」ができるようになるのだ。

だが、その代償はあまりにも大きい。「プログラム」の効果は一時的で限定的なものである。したがって——、

戦闘中の兵士は悲劇的なジレンマにとらわれている。殺人への抵抗感を克服して敵の兵士を接近戦で殺せば、死ぬまで血の罪悪感を背負いこむことになり、殺さないことを選択すれば、倒された戦友の血への罪悪感、そして自分の務め、国家、大義に背いた恥辱が重くのしかかってくる。まさに退くも地獄、進むも地獄である。

(第二部「殺人と戦闘の心的外傷」第 11 章「殺人の重圧」)

このような悲劇はいずれ回避されねばならない。そのためには「戦争における人殺しの心理学」を我々は理解する必要がある。

著者は、心理学者・社会学者であると同時に——いや、それ以前に——、米国陸軍に 23 年間奉職した「兵士」である。著者自身は「人殺し」の経験はないという。主観的にも客観的にもなり過ぎず、重い主題と適切な距離を保ちつつ、淡々と、しかし真に迫る筆致で描かれる「人殺しの実際」(その多くは実際に人を殺した兵士たちの証言である) は、人間性の根源に関わるがゆえに読者の胸を打つ。自国が戦争に巻き込まれ、自分が徴兵されたとき、私はどうするのか (どうなるのか)、一度は考えてみる価値があろう。目前に立った「敵」(人間) の内臓に、ズブリと銃剣を刺せるのだろうか。刺すべきなのか。刺さざるを得ない状況に陥ったときにどう行動するのだろうか。そして、刺してしまったときに自分はどうなるのか。考えるだに恐ろしいが——、それゆえに目を背けてはならない問題である。