- 『昭和天皇 第二部』福田和也

2008/09/19/Fri.『昭和天皇 第二部』福田和也

副題に「英国王室と関東大震災」とある。

前半は欧州遊学、後半は原敬暗殺〜関東大震災の記述に当てられている。欧州遊学は、昭和天皇(当時皇太子)にとって最も甘美な思い出である。一方、帰朝後に摂政となってからは、天皇としての責任を負った日々が始まる。

欧州遊学

皇族、それも皇太子が海外へ赴くなど古今に例がない。欧州遊学に対しては、母である大正天皇妃節子皇后を始め、随分と反対があった。遊学を積極的に進めたのは、元老や政治家だった。次期天皇として世界を検分し、大いに見聞を広めてほしいというのがその願いだ。宮内大臣牧野伸顕の働きによって、ようやく外遊が実現した。

欧州に向かう途中の船上で、皇太子は宮城での日々から解放される。一行がデッキでゴルフや相撲に興じる場面が良い。

西園寺八郎は、山本信次郎と申しあわせて、一切、皇太子にたいして、手加減をしないことにしていた。御学問所では、東宮大夫の浜尾新が、御学友や侍従たちに、相撲でも何でも、けして殿下に勝ってはいけないと、厳命していた。浜尾にしてみれば、殿下を傷つけてはならない、という気持ちから出たものだったろうが、少年の心にどんな屈託を刻んだか。

(略)

彼の人が好む相撲や、柔道でも、西園寺は容赦しなかった。

力一杯、皇太子を投げとばした。

甲板にしつらえられた土俵に皇太子は何度もひっくりかえり、そのたびに、これまでいかに手加減されてきたかを、思いしった。

みずからの身体で甲板が軋むたびに、桎梏から、少しずつ解き放たれていくように彼の人は感じた。

(「イギリスの立憲君主制」)

これらの体験が功を奏したのか。

外遊前、皇太子のコミュニケーション能力には疑問がもたれていた。とにかく無口・無表情なのである。そんなことで、英国王室を始めとする世界の貴顕と上手く交流できるだろうか。しかしその心配は杞憂に終わった。皇太子はいずれの場においても、立派に立ち振る舞い、明晰なスピーチを演じ、深い洞察と教養を見せた。その姿は各国で好意的に報道され、特に日本では皇太子の一挙一動に国民が熱狂した。

英明な青年君主として、国民の熱狂的な歓迎を受け、皇太子は帰朝した。

摂政

身体の優れぬ大正天皇に成り代わり、皇太子は摂政に就任する。以後、その生活は全て公に捧げられる。

世情は少々騒がしかった。巷間にはアナキストや共産主義者が蠢いていた。原敬が暗殺され、健全な政党政治への動きは後退した。そして関東大震災、それに伴う三国人殺害事件、そして皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)。その後の歴史を知っている我々からすれば、どうも時代がキナ臭くなりつつあるなという感想を抱いてしまうが、当時の人々はどのように思っていたのだろうか。

話は逸れるが、大杉栄のエピソードが面白かった。

杉山(註:茂丸)は、大杉栄に、このように問いかけたという。

「君はまだその主義を押通すつもりかい。なぜ罷めてしまはないんだ」

大杉の答えが凄まじい。

「実は罷めたいとも思ふのですが、罷めたら仲間に殺されてしまひます。それから主義者でゐるからこそ食つて行かれますが、主義を棄てたら、口が干上つてしまひます」

ここまで率直に語られては、さすがのホラ丸も笑うしかなかった。

(「虎の門事件」)

関東大震災後、延期になっていた、久邇宮良子女王との婚儀が行われた。結婚に際し、皇太子は、女官を通勤制にする、子供は自らの手で育てるなどの宮中改革を提案している(しかし結局、明仁親王[今上陛下]は里子に出されたが)。英国王室の見聞が大きく影響していると考えられる。

宮中のしきたりは、明治以降、意外と漸進的に改革されている。大正天皇は側女を廃した。行幸もよくした。大正天皇妃は皇后として積極的に公務をこなした。昭和天皇・皇后両陛下は、夫妻で共に行動するようにした。今上陛下は平民と結婚し、親王を初めて手元で育てた。固陋では決してない。むしろ革新的な面すらある。この一連の意志(があるとすれば)は、どこから来ているのだろうか。それを考えるのも面白い。

本巻の最後で大正天皇が崩御する。皇太子迪宮裕仁は以後、昭和天皇として生きることとなる。

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