- 『戦争と天皇と三島由紀夫』保阪正康/松本健一/半藤一利/原武史/冨森叡児

2008/09/06/Sat.『戦争と天皇と三島由紀夫』保阪正康/松本健一/半藤一利/原武史/冨森叡児

保阪正康をホストとした対談集。各対談の内容は以下の通り。

タイトルを見て、保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』の副読本に良いかなと思って購入したが、三島が登場するのは松本健一との対談においてのみ。全体としては、昭和天皇を中心に戦前〜戦後を俯瞰するという構成になっている。現代天皇制の問題、宮中祭祀、戦後政治家と天皇など、様々な話題について論じられ、いわゆる秘話なども数多く紹介されている。大変面白い。

以下、それらの中から、二・二六事件について述べる。

保阪の昭和天皇観がまず面白い。

保阪——私自身は、一九四五 (昭和二十) 年八月十五日の「終戦の詔勅」から始まって、一九四六年一月一日の「新日本建設に関する詔書」、いわゆる「人間宣言」まで、あの時期に発する詔書を分析すると、昭和天皇自信が歴史的な戦いを挑んだというふうに思える。

どういう意味かというと、"天皇制下の軍国主義" というものを天皇自身は否定しようとしている。例えば「新日本建設に関する詔書」のなかの冒頭部分に五箇条の御誓文を入れています。「あれは絶対に入れたかった。あれが目的なんだ」と昭和天皇はのちの記者会見で語っている。

これらの事実を勘案すると、"天皇制下の軍国主義" は "天皇制下の民主主義" にきわめてスムーズにスライドさせることができると昭和天皇は判断していた。(略)

しかし、結果的に昭和天皇は勝負に敗れた、というのが私の考え方です。なぜなら "民主主義下の天皇制" に変容していくからです。

(原武史×保阪正康「昭和天皇と宮中祭祀」)

そして「民主主義下の天皇制」を自ら進んで体現しているのが、今上陛下と皇后陛下である——、という理解である。良くも悪くも、現在の皇室問題の裏には「昭和天皇の敗北」があるのではないか。

大日本帝国憲法下における皇族は、軍属でもあり貴族院議員でもあった。

半藤——一九一〇 (明治四十三) 年に「皇族身位令」が制定された。要するに、皇族の男子である宮様はすべて原則として終身陸海軍の武官となる、死ぬまで陸海軍の軍人であるということが、天皇だけではなくてその他の弟宮、あるいはその孫の皇太孫まで、皇族身位令によって定められることになりました。

また「貴族院令」によって、皇族の成人男子は全員が貴族院議員になることが定められました。したがって、皇族は貴族院議員であると同時に軍人であり、両方の資格を有することになる。

(半藤一利×保阪正康「昭和の戦争と天皇」)

昭和天皇はこの環境で生まれ育った唯一の天皇であった。そして昭和天皇は、政治的存在、軍事的存在、それからもちろん「天皇」であるという歴史的存在、宗教的存在、文化的存在である自分を非常によく理解していた。これは話者全員が認める観察である。

この多重性の中、それぞれの歴史的場面において昭和天皇は適切な衣装を身に纏う。その歴史的センス、精神的タフネスにはやはり畏敬の念を抱かざるを得ない。

しかしながら、複雑に過ぎるその在り方において、どうしても矛盾が露呈することがある。その一つが二・二六事件ではなかったか。

松本——二・二六事件のときの昭和天皇はきわめて政治的な決断をして処置をした。「私の大事な重臣たちを殺してしまって!」と激怒する。即座に「あれは反乱軍である」というふうに呼び始める。もちろん初めは「朕が股肱の臣を殺して!!」という私怨みたいなものがあるわけですが、立憲君主という立場からすれば、非常に理性的な対応だった。

では、二・二六事件のときの青年将校は、間違ったことをしたから理性的に政治的に処罰されたのかというと、国民のほとんどは「青年将校たちは可哀想」という反応だろうと思います。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

そして 25年後、三島由紀夫は天皇制を擁護しながらも、「人間宣言」をした昭和天皇には絶望する。

松本——<美しい天皇>を汚したのは、一つには昭和天皇ご自身であるという考え方がありますね。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

<美しい天皇>への渇望と昭和天皇への絶望にさいなまれた三島は、自らを二・二六事件の青年将校になぞらえるようになる。

松本——三島さんはあきらかに "遅れてきた青年将校" ですね。ですから、一九六一 (昭和三十六) 年の『憂国』あたりから、遅れて "二・二六事件に参加する" という明確な意識を持っていたと思います。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

三島の自決は不可避であるばかりか、むしろ当然の結末という流れになる。そして「三島事件にもっとも恐怖感を持ったのは天皇その人じゃないか」(保阪) という推測。これは非常に興味深い。

松本——私は、昭和天皇が生涯、口にしなかった三人の人物の名前があると確信しています。この三人については絶対名前を覚えているはずなのに、決して公には口にしない。彼らの起こした運動や行動に対して驚愕し、まさに戦慄した。それは二・二六事件の北一輝、大本教の出口王仁三郎 (略) そして三島由紀夫である、と。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

二・二六事件は、昭和天皇にとってまさしく急所なのである。そこを衝いた三島の鋭さを称揚するのは簡単ではあるが、そこにしか行き着きようがなかった、と解釈をすることもできる。もしも後者であるならば、その歴史的・思想的導線を詳しく検証する必要があるだろう。それは「昭和天皇の敗北」とも密接に関係しているに相違ない。