- Book Review 2007/11

2007/11/24/Sat.






文庫版全18巻。原案は李學仁だが連載の途上で死去している。

本書は曹操伝である。物語は彼の幼年に始まり、死で終わる。三国志や魏伝を期待していると、いささか物足りないかもしれない。

張飛の字が「益徳」となっていたり、基本的には演義ではなく正史に則っているようだが、孔明の扱いや赤壁の描写など、オリジナルな部分も多い。私は三国志に詳しくないので、個々のエピソードについて出典を明らかにする能力はないが、三国志が好きな人なら、「ここは演義、あそこは正史」という発見の楽しみがあるかもしれない。あるいは逆に、それが興を削ぐこともあろうが、それは歴史を題材とした全ての作品に付きものの宿命だから仕方ないだろう。

横山三国志と違い、人物描写はかなり大胆で、熱く、濃い。私が気に入ったのは呂布と陳宮。強大な武と理解しがたい行動原理で乱世を渡り歩く呂布に、あくまで忠誠を尽くし献策を続ける陳宮。陳宮の計は (主に呂布のムチャクチャによって) 無駄になることも多いが、次第に (個人的な) 実りを結んでいく。人に仕えるとは何か。呂布という極端な主を仮想して考えてみるのもまた面白い。

あと、賛否が分かれそうなのが劉備の人物像。従来の蜀漢王像とは違い、良くいえば人間臭い、悪くいえば頼りない人物として描かれている。彼が恃むのは己の「器」だけ。投降と流浪と居候を繰り返し、民に人気はあるけれど、それで天下をどうするというビジョンもない。口を開けば「明日から頑張る」「俺はやればできる子」的な発言しかしない。かなりのダメ人間である。チャレンジングな劉備像だとは思うが、好き嫌いは別れるかもしれない。

登場人物は膨大であるが、それぞれが非常に丁寧に細かく描かれている。特に魏の人材は、一人一人がストーリーを背負い、曹操という人間を顕にするこの物語に奉仕する。荀彧、何晏などは人物造形が良い意味で漫画的であり、私は強い印象を持った。

物語の多くの部分が戦場の描写に費やされるが、数万数十万の軍勢が対峙する雰囲気がよく出ている。攻城戦は出色のできだ。

曹操が目指したものは何か。その思想的な敵として、前半に董卓、中盤に袁紹、後半には儒者が立ちふさがる。董卓の人物像もまた従来の三国志のイメージとは大きく異なっており、彼が死ぬときに吐く台詞は非常に興味深い。

本作は読みどころが多いので、ここで全てに触れるのは不可能であるし、私が読み落としている事柄も少なくないだろう。三国志が好きな人は必読。

2007/11/23/Fri.


文庫版全5巻。

第1巻には、『伝染るんです。』の名付け親である竹熊健太郎が、その経緯に関するエッセイを寄せている。

本書は不条理ギャグ漫画の嚆矢——などという解説も、もはや陳腐以下のものだなあ。久し振りに読んでみての感想は、「やっぱり面白い」の一言に尽きる。過去の漫画を読むときに湧き上がる「懐かしい面白さ」ではなく、今読んでも新鮮に面白い。すぐに古くなるギャグ漫画としては異例のことだ。

『伝染るんです。』の連載は 1989〜1994年。もう一回り以上も昔のことである。当時の私は高校生だ。「私」という条件を除けば、20世紀末の高校生が読んでも、21世紀のオッサンが読んでも面白いことになる。センスや感覚だけでは、なかなかこうはならない。ではそこに何らかの構造があるんじゃないか、という話になるのだが、『伝染るんです。』はそのような解体を拒否する。というか、最初から解体されている。

10年後に読んでも、まだ面白いのだろうか。楽しみである。

2007/11/15/Thu.


文庫版が出たのでパラパラと再読。短い感想は、ノベルス版を読んだときの日記に書いた。また、本書が探偵小説の五大奇書の候補として挙げられていることも以前に書いた。

ノベルス版を読んだときと感想はあまり変わっていない。面白いといえば面白い。非常に長い小説だが、途中でダレることはない。様々な要素が緊密に挿入されている。ただ、それらは全て、これまでの綾辻行人的なモノでしかなく、悪くいえば寄せ集めとも思える。特に新しい何かがあるようには思えない。いや、エンターテイメントだから別にそれでも構わないんだけど、世評がイヤに高いので、「それほどかなあ」とつい思ってしまう。

本書で使われた、視点に関する「ある仕掛け」は賛否が別れるところだろう。チャレンジではあると思うが、もう少し洗練された形にできなかったのか、という問い掛けも残る。解説は以下のように弁護する。

超自然的な "視点" の存在は、あらゆる伏線・矛盾点をたった一人の作中人物に拾わせて、この長大な小説を一個の本格ミステリーとしてフェアに成立させるための異例の手段として要請された。

(佳多山大地「解説 最終回」)

でも、どうしてそうしなければならなかったのかというと、本作が「館シリーズ」の 1作であるからなんだよね。本書の外にそういう枠が課せられてある以上、そうせざるを得ない。それによって、古くから建築家・中村青司を知る人はカタルシスを味わうことができるわけだ。本書の最大の興味がそこにある。

しかし、本書をただ 1個の探偵小説として読んだとき、私が求めるような「新しい何か」があったかといえば疑問。そこで評価の軸がブレてしまって、「面白いといえば面白い」という曖昧な評価になってしまう。シリーズの読者でない人間の感想が聞きたいところである。

2007/11/07/Wed.

副題に「点と点が線になる」とある。これは、

日本史の専門家というのは、狭い分野の専門家であって、日本史全体、日本通史の専門家というのは、実は驚くことに一人もいないのです。それが現状なのです。だいたい日本通史学という学問すらありません。

(「序章 なぜ教科書では歴史がわからないのか」)

という、井沢元彦の主張を反映したものと思われる。上に引用したような「専門家」が教科書を書いているからダメなんだ、という歴史教育批判もまた年来のものである。

本書では日本の歴史を古代から現代まで駆け足で辿っている。通史のおさらいもされているが、それとは別に、現行の教科書を引用して教育問題も個別かつ具体的に行っている。むしろこちらの方がメインといえるかもしれない。

教科書の説明によると三世一身法 (七二三年) では、四代目になると土地が国家に戻ってしまうので土地が荒れてしまう。そこで、もう少し長く所有したいという要望が出て、墾田永年私財法 (七四三年) というものが発布されたということになっています。

しかし、この説明は明らかに嘘です。

というのは、三世一身法が出てから墾田永年私財法が出るまで、わずか二〇年しかないからです。いくら寿命が短い昔のことだといっても、二〇年のうちに四世代も経って田畑が荒れるなどということはありません。

(「2章 <中世>朝幕並存の謎を解く」)

律義だなあ、と思う。このような井沢の指摘の仕方を「揚げ足取り」と思う向きもいるかもしれないが、私は彼の継続性と粘り強さにはいつも感心している。上に引用したような文章って、実際に書くのは面倒だと思うんだよね。それを毎回厭わないところに著者の誠実さを感じる。歴史教育に問題があることは事実なのだから、このような具体的な指摘こそ重要であるだろう。

2007/11/06/Tue.

副題に「人類と宇宙の未来」とある。『宇宙を語る I』の続編だが、特に順番が決まっているというわけでもない。本書には、宇宙をテーマに立花隆が交わした対談が収録されている。対談相手は、

である。人数は少ないが、各人のバックグラウンドは多様であり面白い。最後に「有人宇宙活動の意義」という立花の講演も併録されている。巻末にはそこそこの分量がある用語解説が付く。

ちなみに、司馬遼太郎との対談は、『司馬遼太郎対話選集 8』に収められているものと同じである。

2007/11/05/Mon.

ある時期から島田荘司御大の文章は非常に軽くなっているだが、最近はとみに違和感を覚えることが多い。本作に至っては、冒頭を読む限り「これはマジで下手なのでは……」とまで思ってしまった。文章がいやに説明的であったり、視点が不安定であったりといった点に引っかかって、どうも作品世界に入り込めない。

もちろん、島田御大はそんなことに躊躇することなくガンガンと物語を進める。最終的には読み進めてしまうわけだが、御大一流の幻想がツルツルと滑っていくような感じで、彼が意図しているであろう不思議や恐怖が一向に迫ってこない。余計な挿話や軽過ぎる会話が多いのも原因であるように思う。面白いといえば面白いのだが、それが物語全体に協調性をもって奉仕しているのかといえば疑問である。そもそも、「龍臥亭」である必要性というのもよくわからない。

人物描写はさすがに島田御大で、特に最後で明かされる犯人の行動には熱いものを感じる。以前に「最近の島田御大は『推理』というものを放棄している」と書いたが、これは本作でも同様。真相は明らかにされるが、推理によってではない。また、作中に登場する不可解な現象の 1つは最後まで説明されない。これは、推理小説という合理的な世界に不思議を不思議のまま残すという、一昔前に流行った手法を狙ったものなのだろうか。それとも御大がエピソードの回収を忘れたに過ぎないのか。とにかく中途半端で、読後に余韻というよりは、むしろ禍根を残しているように感じる。

意図的なものなのか、はたまた単なるボケなのか。にわかに判断できないのが 21世紀御大なのである。

2007/11/04/Sun.

文庫版上下巻。収録作品は、上巻が、

下巻が、

である。歴史的にはマイナーな事件もあるが、タイトルが暗示するように、これらは全て何らかの謀略が関与している (明らかになっていないものもあるが、示唆はされている)。

さて、本書で扱われている事件は、朝鮮戦争を除き、全て GHQ の占領下に起こった事件である。

だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。

(中略)

私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。

(「なぜ『日本の黒い霧』を書いたか あとがきに代えて」)

戦後日本史 (= 昭和史) を考察する上で GHQ に対する理解は欠かせない。GHQ は巨大な組織であり、関係する部署、人員は膨大な数に上る。元より GHQ は一枚板ではなく、各部各人の間で激しい対立が存在した。まず、チャールズ・ウィロビー (Charles Andrew Willoughby) 率いる参謀部第2部 (G2) と、コートニー・ホイットニー (Courtney Whitney) 率いる民生局 (Government Section, GS) が主要な対立軸として存在する。これは、激変する当時の世界情勢に対するアメリカ本国の諸勢力の代理戦争ともいえる。そして、この GHQ 内での摩擦の余熱が、日本において奇怪な事件を生じさせる。個々の事件とその「事情」については、とても要約することはできぬ。本書を読んでほしい、と書くより他はない。政治、軍事、外交、経済、あらゆる分野で地殻変動が起こっていた。

本書で扱われた種の奇妙な事件は全て、朝鮮戦争に集約される (事実、GHQ が日本から撤収した後には、本書で採り上げられたような性質の事件は発生しなくなった)。

これまで書いてきた一連の事件の最終の「目的」は朝鮮戦争のような極点を目刺し、そこに焦点を置いての伏線だったと云うこともできる。もっとも、米軍は最初からこの戦争を「予見」したのではあるまい。

(中略)

前にも云う通り、この「予見」の集中点が必ずしも朝鮮でなくてもよかったのである。地理的に、それはヴェトナムでもよかったし、ラオスでもよかったし、或はもっと別の地域でもよかったのだ。(略) たまたま、その条件が合致し、やりやすい場所が朝鮮だったというにすぎない。朝鮮はその「黒い栄光」に択ばれたのだ。「朝鮮は一つの祝福であった。この地か、あるいは世界のどこかで、朝鮮がなければならなかったのだ」(一九五二年、ヴァン・フリート将軍がフィリッピン代表団に語った言葉)

(「謀略朝鮮戦争」)

要するに、いずれ極東で起こるに違いない「朝鮮」に西側 (というか、太平洋を自分の庭だと自負するアメリカ) が勝利するための基地として日本は工事された、ということである。振るわれたつるはしの 1つが下山事件であり、打たれた釘の 1つが松川事件であり……、という構図だ。これは今では半ば常識的ともなった史観であるけれど、本書が発表された当時 (1960年) としては果敢なチャレンジだったはずである。

サンフランシスコ条約後、GHQ は日本を去ったが、彼らが残したレールはそのまま残った。日本は基本的に、そのレールを継ぎ足した方向に走り続ける。日本は、朝鮮戦争を契機とした高度経済成長の時代に突入し、繁栄を謳歌する。皮肉な書き方をすれば、これは一連の奇怪な事件の代償とも受け取れる。

さて、その後の日本はバブルの崩壊という (ひとまずの) 終焉を迎えるわけだが、同時に、我々は物質的に豊かになっただけで、これからの日本の将来を方向付ける何物をも築けなかったのではないかという猜疑が、国民に等しく残った。昭和という時代を実感として知る最後の世代であり、かつ、新しい局面を迎えつつある日本 (および世界) を担いつつある私達の年代はこれからどうあるべきか。本書は、その問題を考えるときに読み返されるべき名著であるといえよう。

2007/11/03/Sat.

2冊まとめて。

本シリーズについては『空想科学読本 2』で軽く触れている。この種の本の特徴として、扱われる題材が著者の年齢に大きく依存するという点が挙げられる。本書で多く扱われているのも、ウルトラマンであったり古い戦隊ヒーローであったりする。著者と読者の年代が合えば面白く読めたりする部分もあるのだろうが、そうでなければさすがに飽きてくる。それでも読むのだけど。