- Book Review 2007/05

2007/05/29/Tue.

高野優・監訳、柴田淑子・訳。副題に「光るウサギ、火星人のおなら、叫ぶ冷蔵庫」とある。

いわゆるトンデモ研究を紹介する本である。しかし、ちょっとニュアンスが違う部分もある。本書で採り上げられる研究は、査読付きの学術誌に発表されたものばかりである。専門外の人間は、「まともな研究なんだろう」と思ってしまいがちだが、よくよく読んでみると「変な研究」は山のようにある。Nature などの超一流 (といわれる) 雑誌に掲載される論文も例外ではない。

変な研究

今日では世界じゅうで科学技術に関する雑誌は二〇万誌以上を数えるようになった。毎年、各分野における科学者が書く論文の数は二五〇〇万本にも上っている。それは平日の一日あたりにすると一〇万本である。

しかし、残念なことに、このような科学報告は、どれでも面白く読めるというわけではない。実際に大部分の論文は実に難解で、非常にとっつきにくいとさえ言えるのである。たとえば、当てずっぽうに二〇〇三年一一月二一日の《脳研究》誌を開いてみよう。そして一八七頁を見ると、「アラキドン酸過酸化物は Neuro2a 細胞に対して細胞内カルシウム濃度上昇とミトコンドリア障害によりカスパーゼ-3 非依存性アポトーシスを誘導する」というタイトルの研究報告が載っている。(中略) おそらくこの論文はこの分野ではとても重要なのだろう。だが一般の人にはもはや手の届かないところにあるということである。

(「序文」)

これは、実際に現場で研究している人には頭の痛い指摘である。確かに学術誌の大勢はそうなのだ。だが著者は、そんな中から「変な研究」を探し出して私達に提示してくれる。

(T註: DNA の構造を明かすような、真に革命的な論文は面白いと紹介した後)、しかし、読んで面白い科学論文にはもう一つの種類がある。 どのようなものかというと、作者が意図しないようなユーモアあふれる論文である。この種の論文は読む人をかぎりなく愉快な気分にしてくれるのだ。しかもその分野の専門知識がなくても十分に楽しめる。たとえば、「ハトによるモネとピカソの絵画の識別」という論文がある。この論文は一九九五年に日本人の研究者、渡辺と坂本と脇田によって《行動実験分析》誌 (六三巻、一六五 - 七四頁) に掲載された。それはハトをモネとピカソとを見分けられるように訓練する研究である。この実験は慶応大学の行動心理学の研究グループによって行われて、みごとに成功をおさめた。ハトがモネとピカソを見分ける? 聞いただけでわくわくするではないか!

(「序文」)

本書には、このような「変な研究」が 54題も紹介されている。CERN の加速器は史上最も高価な時刻表であり (「満ち潮の物理学」)、ゴッホは 1889年 7月 13日 21時 8分に、傑作『月の出』を描いた (「二一時八分のヴァン・ゴッホ」)。

フランス人の著者による本文はエス・プリが効いており、イギリスやドイツの研究には妙に厳しかったりするのも微笑ましい。純粋にコラムとしての魅力も充分な 1冊。

2007/05/28/Mon.

副題に「宇宙飛行士との対話」とある通り、本書は、立花隆による日本人宇宙飛行士へのインタビューをまとめたものである。『宇宙からの帰還』の日本人版といっても良い。

インタビューの相手は、

の 4人。

フライトを目前にした向井飛行士に対し、立花は、「向井さんが飛行士になってすぐ、例の『チャレンジャー』の事故がありましたね。一般の人間が考えると、やはりああいう万一の場合のことが心配になるんじゃないかという気もするんですが、そういった不安もまったくないんですか」などと、非常に際どい質問もしている (実際、フライト前にこのような質問をするのはタブーらしい)。

しかし向井が応えた内容は全く見事なもので、宇宙飛行士のメンタルな強さというものを垣間見ることができる。こういう部分が面白い。

2007/05/27/Sun.

林一・訳。副題に「アインシュタインと膨張する宇宙」とある。原題は "God's Equation"、副題は 'Einstein, Relativity, and the Expanding Universe'。

著者の本は以前、『天才数学者たちが挑んだ最大の難関 フェルマーの最終定理が解けるまで』を読んだことがある。非常に面白かったので、本書も期待して開いた。

宇宙定数

アインシュタインは一般相対性理論を発表 (1915年) した後、この理論を総体としての宇宙に適用し、驚くべき発見に至る。しかしその結論は、彼の美学に反したものでもあった。

こうしてアインシュタインは——自分が生み出した場の方程式から——宇宙の膨張を発見した。しかし、彼は自ら導き出したこの結論を信じなかった。

(第11章「宇宙論的考察」)

量子論を最後まで全肯定しなかったように、アインシュタインの宇宙観・物理観は、いみじくも彼自らが葬ったニュートンのそれのように、美的な調和を要求する。彼は、宇宙がダイナミックに変動しているとは到底「信じられなかった」。アインシュタインは一般相対性理論よりも彼の直感を重んじた。すなわち、一般相対性理論にはどこか欠陥があるに違いない。

膨張する宇宙を内包する美しい方程式を一見静的な宇宙と折り合わせるという荒療治を迫られた彼は、深刻な心的外傷を負った。だが、彼は自分の言葉どおり、あらゆる努力が無駄だと証明されるまで、方程式と現実を適合させるべく試みずにはいられなかった。そしてそれをやっておのけた。アインシュタインは彼の完璧な方程式を変え、自然現象を記述するうえで、自分にも物理学にも役立つものを創りあげたのである。

(第11章「宇宙論的考察」)

それが、かの「宇宙定数 (宇宙項)」である。

アインシュタインが「膨張する宇宙」に疑念を持ったのは、時代的な限界もある。当時、全宇宙には我々の銀河、すなわち天の川銀河しか存在しない (というか、銀河 = 宇宙) と考えられていた。他の銀河はもやもやとした星の集まりにしか見えず、天の川銀河に存在する星雲として認識されていた。これらの幾つかが別の銀河 (当時は「島宇宙」と呼ばれた) であることを見出したのが、エドウィン・ハッブルである。彼は巧妙な方法で各銀河までの距離を求め、スペクトルの赤方偏移からハッブルの法則を発見する (この過程についてはエドウィン・ハッブル『銀河の世界』に詳しい)。すなわち、「銀河はわれわれからの距離に比例する速度で遠ざかって」おり、「ハッブルの法則を論理的に説明しようと思うなら、宇宙全体が膨張していると考えるほかはない」。

一九三一年、カリフォルニアを訪れてハッブルの計算をその目で確認したアインシュタインは、自分が方程式に組み入れた宇宙定数が不適当であることを認め、公式に放棄した。

(第11章「宇宙論的考察」)

加速する宇宙の膨張

ここまではよく知られた話である。

その後、宇宙物理学は急速に発展し、ロジャー・ペンローズのブラックホール理論 (1965年)、アラン・グースのインフレーション理論 (1979年) などが提唱される。観測精度はますます向上し、エスター・フーは、130億光年の彼方に存在する銀河の観測に成功した (1998年)。これらは全て、ビッグバン理論を補強するものである。ビッグバンによって生まれた宇宙が辿るシナリオは 3つ考えられる。

第一に、宇宙は閉じてしまう、というシナリオ。この場合、宇宙の膨張は最終的には停止し、宇宙はすべての物質間にはたらく重力のために崩壊に転じる。第二は、宇宙は定常状態に達するまで膨張を遅め、その状態に留まる、というシナリオ。

第三の、宇宙の膨張が永遠に続くというシナリオが妥当であると考える科学者は、数えるほどしかいなかった。そして、考えられないことを想像した者は事実上皆無だった。すなわち、宇宙の膨張の速度が実際に加速されているという考えだ。

(第1章「爆発する星」)

ところが、ソール・パールマッターは、「遠くの超新星——およびそれが宿る銀河——は、予期したよりも遅く地球から遠ざかっている。この速さは、もっと近くの銀河よりも遅い」ことを発見した (1999年)。これはハッブルの法則に矛盾する。しかし、彼のデータもまた信頼性の高いものであった。

したがって、得られる結論はただ一つ——彼は結論づけた——宇宙は膨張を加速している。

(第1章「爆発する星」)

ここで、アインシュタインの宇宙定数が復活する。

ということは、何ものかが宇宙を外に向かって押しやっていることになる。では、その "何ものか" とは何だろう? 量子物理学によれば、宇宙空間、つまり "真空" は、じつは空っぽどころではない——エネルギーで沸きたっているのだ。

真空のエネルギー、空間を外側に押しやるこの力は、アインシュタインの宇宙定数によってモデル化されるのである。

(第12章「空間の膨張」)

詳しい解説は本書を読んでほしい。これは、アインシュタインが一般相対性理論を生み出し、一度は挿入した宇宙定数が捨てられ、そしてまた復活するまでのドラマである。

相対論と宇宙論、その他

アインシュタインの伝記に関する部分にも、新しい知見が盛り込まれている。著者は独自の資料に基づき、新たな解釈を提示する (アインシュタイン全生涯の伝記は、矢野健太郎『アインシュタイン伝』に詳しい)。

また、ヒルベルトの先取権争いや、相対論に深く関係する数学者 (リーマンなど) の事跡、光が太陽の重力で曲がることを証明するために遠征した皆既日蝕観測隊のエピソード、ニュートリノの観測などなど、相対論と宇宙論に関わる逸話にも頁が割かれており、読み応えがある。名著。

2007/05/26/Sat.

何とも頼もしいタイトルである。副題には「ひとりの時間をもつということ」とある。執筆されたものではなく、語り下ろしなので 1時間もかからずに読破した。

要旨を抜粋する。

テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提として報道がなされています。でもそれは、テレビのキャスターなど、メディアに従事する人たちが、自分たちの職業を基準に考えている面があるからではないでしょうか。

世の中の職業の大部分は、ひここもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計をする人もそうですし、事務作業する人や他人にものを教える人だってそうでしょう。

家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。

(第1章「若者たちよ、ひきこもれ」)

この主張を基底に、いじめや不登校、自殺、老い、そして引きこもりがちだった吉本自身の想い出などが語られる。私も引きこもるのが好きな性質だから、吉本の意見には基本的に賛成である。

吉本は、引きこもりを優しく容認するが、手放しで認めているわけではない。

働くというのは、ある一定の仕事をして賃金をもらうことです。働くことが大事であるのはいうまでもありませんが、ボランティアのように無料で何かをするというのは働くということに含まれません。労働の対価として、賃金をきちんと受け取ることがすべての基本です。

ひここもりの人にボランティアをやらせて、それでもって世の中と関わらせようというのは間違っているとぼくは考えます。安い賃金でも、本人が大変でも、お金をもらって働くことが大事です。

(第4章「ぼくもひきこもりだった」)

要するに、ニートは不可、ということだ。また、ボランティア活動や、不登校児のためのフリー・スクールを主催する側にも問題があると断ずる。最初に引用した部分でも明らかだが、吉本の引きこもり論は、最終的に社会へ出ることを前提にしている。つまり彼にとって、「引きこもること」と「社会に出ないこと」はイコールではない。そこを履き違えているから、巷間で引きこもりが問題になる。彼の指摘は、そういう構図になっている。

さて、私が興味深く読んだのは、三島由紀夫、太宰治、江藤淳の自殺について触れられた箇所である。三島や太宰の自殺は「親の代理死」であり、江藤のそれは「完全に自分の意志力による死」であるという。そしてその行為を否定しない。

江藤さんの死を潔いとぼくが述べたのは、こうした老人特有の自然死への執着もなく、また青春期の生命の過剰さから来る死でもなく、もちろん親の代理死でもなく、自分の意志力だけで死を選んだからです。

(第3章「子どものいじめ、そして死について」)

2007/05/25/Fri.

村上和久・訳。原題は『The Men Who Stare at Goats』(山羊を見つめる男たち)。

アメリカのオカルト事情は想像を絶する。ダーウィンの進化論問題などは可愛い方で、疑似科学、カルト宗教、超能力、UFO と宇宙人、セックス、ドラッグ、そして陰謀論。枚挙に暇がない。陰謀史観は、これらのオカルト・アイテムが現実の歴史と交錯した地点に出現する。陰謀論・陰謀史観については、海野弘『陰謀の世界史』に詳しい。

アメリカの歴史には、至る地点にカルトが出現する。本書がレポートする「超能力部隊」もその 1つだ。本書における著者の取材は、広範かつ克明である。しかし、「常識」ではとても信じることができない。単なる陰謀論の方がよほどマシだ。それほどイカれた内容である (言うまでもないが、イカれているのはアメリカ軍であって本書ではない)。

当時のアメリカの情報関係者は本質的に、頭がまったくどうかしていた。

(2「山羊実験室」)

第一地球大隊

ベトナム戦争に敗北したアメリカでは、軍全体が PTSD (心的外傷後ストレス障害) にかかっていたようだった。一方、世間では、オカルティックな宗教団体、研究所、セミナーが林立していた。

ベトナム戦争に参加したジム・チャノンは、軍全体が変わらなければならないと考えていた。軍の変革を志した彼は、その方法を求め、様々な団体・個人に接触を試みた。彼は極めて奇妙な平和主義、精神主義、疑似科学的手法に出会う。そして、それらをまとめ上げた『第一地球大隊作戦マニュアル』を上官に提出した。

「世界を楽園へとみちびくことがアメリカの役目なのだ」とジムは書いている。

その一行目にはこうある。「アメリカ軍には実際のところ、すばらしくなる以外に満足な選択肢は残されていない」

これがジム・チャノンの『第一地球大隊作戦マニュアル』である。

兵士たちは子羊のような「象徴的な動物」を敵国にたずさえていく。動物たちは兵士の手に抱きかかえられている。兵士たちは「きらきらと光る瞳」で人々にあいさつできるようになっている。それから彼らは地面にゆっくりと子羊を置き、敵を「自発的に抱擁する」のである。

こうした手段がうまくいかなかった場合にそなえて、新種の武器が開発されることになっていた——殺傷力を持たない「心理電子」兵器である。そのなかには、敵意を持つ群衆に正のエネルギーを向けることができる機械もふくまれていた。

(3「第一地球大隊」)

爆笑である。が、笑ってばかりはいられない。

上官たちはもはや笑っていなかった。実際、ジムは何人かが涙を流さんばかりであることに気づいた。彼らはジムと同じようにベトナムでの体験で打ちのめされていた。ジムは大将や少将、准将や大佐たち——「まさにトップの人間たち」——に話しかけていたが、彼は全員を魅了していた。その場にいたマイク・マローンという大佐などは、感動のあまりすっくと立ち上がり、「私は鯔 (ぼら) 人間だ!」と叫んだほどである。

(3「第一地球大隊」)

かくして『第一地球大隊作戦マニュアル』は軍に受け入れらた。その精神を実現するべく、様々な研究が行われることになる。

アメリカの二面性

著者の関心を最も引いたのが、原題にもなっている「心霊山羊殺し」である。見つめるだけで山羊の心臓を止めるという訓練が、軍の基地内で秘密裏に行われていた。実際に山羊が死んだ、という伝説があり、著者はその真実を辿っていく。その過程で CIA、FBI、そしてホワイトハウスまでが登場する。当然のことだが、彼らの「成果」は散々なものだった。

他にも、バカバカしいとしか言い様のない事実が次々と明らかになる。サブリミナルに代表される、様々な音響効果の研究は、彼らが最も熱心に研究したことの 1つだ。驚くべきは、イラク戦争で問題になったアブグレイブ刑務所の拷問で、その「成果」が使われていたらしいことである。もっとも、効果は非常に疑問的であるようだが。

その他にも『第一地球大隊作戦マニュアル』を源流とする様々な「成果」が、アメリカ内外の至る所で実験され、実際の目的にも使われた。著者は辛抱強い取材を繰り返し、1つ 1つの事件を丁寧に検証する。

各々の内容については本書を読んでほしいが、本当にどうしようもない話ばかりである。こういう話を読むたびに、アメリカという国がわからなくなる。私は 2度、学会でアメリカを訪れた。私が実際に知っているアメリカは、このときの体験が全てである。巨大で快適な学会場、優秀な科学者達。ホテルを出れば、良質な商品とサービス。アメリカの一番良いところだ。その経験と、本書が提示するような事実が、どうにも結び付かない。ヘンな国である。日本もそうだけど。

2007/05/24/Thu.

「精神科医の現場報告」と副題にある。

著者は長年、東京都立松沢病院に勤務した精神科医。松沢病院の前身は上野の癲狂院であり、小石川癲狂院、巣鴨病院と移転を繰り返した後、世田谷にて松沢病院となる。日本最大の精神病院である。かの芦原将軍もこの病院の患者だった。

松沢病院は東京の精神科救急医療を担当する施設でもある。夜間休日にも診療を行っているわけだが、精神科に「救急」とは不思議な感じがする。そもそもそのような制度があること自体、私は知らなかった。

精神科救急に回される患者の多くは、警察に逮捕・保護された「触法精神障害者」である。確保された容疑者が、精神に異常があり治療が必要と判断された場合、彼・彼女は精神科救急に回される。「要治療」の判断は警察が、つまり精神医学の素人が行う。そして病院はこれを (事実上) 拒否できない。警察の任務は容疑者を病院に搬送した時点で終了する。ここでは医療と刑事、司法が解離している。法の整備も徐々に進んでいるようだが、まだまだ不充分なようである。

このような現場報告がされた後、著者が実際に治療に当たった患者 (多くの犯罪者を含む) のケースが紹介される。日本の場合、殺人などの重罪を犯す精神病患者の多くは統合失調症 (精神分裂病) である。これは病気であり、裁判では「犯行時の責任能力」が云々される。本文では宮崎勤についても触れられる。彼の事件が示す通り、精神病の正確な診断は困難を極める場合が多々ある。

ところで、いわゆるシリアル・キラー、快楽殺人者などは精神病質 (サイコパス) であり、統合失調症とは事情が異なる。精神病質が病気であるかどうかは曖昧な点が残るようだ。精神病質は基本的に改善されることはなく、殺人者は殺人者として生涯を終える (だから連続殺人になってしまう)。サイコパスに関しては、ロバート・D・ヘア『診断名サイコパス』に詳しい。

保安病棟

統合失調症は治療の対象ではあるが、完治が難しいことに変わりはなく、「治療を終えた」患者が再び犯罪を重ねることも珍しくない。そのたびに世間は、この病人を社会に受け入れるかどうかで紛糾する。著者が提案するのは、欧州で発達している「保安病棟」の導入である。本書で報告されている英国の制度を以下に抜粋する。

英国内務省および特殊病院行政管理局が管轄する「保安病棟」は、ベスレムの敷地の中で最も奥まった場所にありました。英国における触法精神障害者を対象とした施設には、二種類あります。一つは巨大な収容施設である「特殊病院 (special hospital)」であり、もう一つがこの「保安病棟」です。

保安病棟とは地域保険局が運営する小規模な病棟で、重大な犯罪を犯した精神病患者と精神病質者を収容、治療するための専門施設の一つです。正式な名称は、「地域保安病棟 (regional secure units)」と言います。

特殊病棟は再考の保安施設であり、周囲を高い塀で囲まれ、警備には万全の措置がとられています。特殊病院の機能を地域に分散する目的で、小規模の治療施設である保安病棟が設立されました。

英国においては、精神医療と司法の間に古くから密接な関係がみられ、十九世紀初めより触法精神障害者の処遇は、最終的な決定権を司法的、行政的判断に委ねるという枠組みの中で発展してきました。

英国の精神保健法は一九八三年に大幅改正されました。しかし依然としてこの法においても、二百年前からのその流れは変わっていません。犯罪を犯した精神障害者の強制入院は裁判所の命令で行われ、重大な犯罪に関しては、退院の決定についても司法機関が強い権限を有しています。

(第八章「保安病棟」)

本書では、精神医学 (特に刑事事件と深い関わりのあるそれ) の現場報告、問題点の指摘、改善のための提案がなされている。私が「精神科救急」を知らなかったように、日本でこの種の啓蒙・議論が活発だとは思われない。この問題を考える上で、本書は良い契機となるだろう。

2007/05/23/Wed.

日本で見られる奇妙な事物について、その根元を探り経過を見る。テーマは時事的なものが多く、そういう意味ではいささか古い本 (単行本の刊行は 1991年) だが、その切り口は鋭く、今読んでも充分に面白い。

天皇と記号

第1部は「天皇と記号——ミカドの祝祭空間 (Emperor and Signs)」と題され、今上天皇 (平成天皇) の家庭モデル、紅白と黒白の幔幕、神前結婚、高御座 (たかみくら)、そして近代天皇制について語られる。我々が「伝統的」と思い込んでいる事物も、その源泉は近代にあったりするから面白い。そして何より興味深いのは、なぜ「伝統的」と思い込んでいるのか (思い込ませれているのか、思い込まそうとしたのか) という謎である。それは意図的であったり偶然であったりするのだが、猪瀬はそのような綾を 1つ 1つ丁寧にほぐしていく。

彼の持論で目を引いた部分を引用する。

僕はつねづね、天皇の死はアッパーカットのように瞬時に効果を顕すものではなく、ボディーブロウのように徐々に効いてくる、と述べてきた。

昭和天皇は、明治天皇のイメージと重ね合わせることができる。その功罪はともかく、両者とも "偉大な天皇" としてカリスマ性をもっていたからだ。

藩閥政治は政権交代のない自民党政治に似ていた。薩摩と長州による政治中枢の独占は、派閥による政権のたらいまわしになぞらえられよう。こうした藩閥体制から、政党により政権交替のある政治に転換するには、大正7年の原敬内閣出現まで待たねばならない。

「大正デモクラシー」は、明治の藩閥政治に対する批判と政党政治の勃興をもたらした。しかしいっぽうで、ひたすら観念の (思想の、言葉の、と言い換えてもよい) 水位を低下させた。おおよその事態はそのまま今日にあてはまるだろう。

アンチ消費税でスタートした「平成デモクラシー」は、大量の婦人議員を誕生させた。しかし、これも一時的な現象にすぎないだろう。消費税ブームにわいた世論も一過性の昂奮にすぎない。したがって女性票をあてにした社会党の "好景気" もまた短命となろう。

婦人議員が増えたことは別に進歩でもなんでもない。「人、人を疑い、我、我を疑う」というのっぺりとした時代が再びやってきたにすぎない。伝統的権威が消えたとき、状況はただ裸でされされてしまうのである。

(『自民党と「ミカド喪失」について』)

日本人と記号

第2部は「日本人と記号——記号化された心的空間 (The Japanese and Signs)」とある。ここで採り上げられる話題は天皇よりは柔らかい。Vサインの変遷、スピッツは和犬である、コーヒー、校歌、CI、などなど。探求の目は様々な事象に向けられる。

第3部は「大衆文化と記号——集合的無意識の画一的空間 (Mass Culture and Symbols)」。松竹梅のオリジナルは何か、参議院の「参」の字の由来、ブロック塀、エンゲル係数、国会議員の呼称、テレビ税、などなど。

ノンフィクションを文学史に位置づける

巻末では猪瀬と小島信夫の対談が載せられている。これがまた面白い。

猪瀬 自分史、私ノンフィクションは、私小説と同じことですからね。私小説の場合は、文章修業が厳しかったということが唯一の看板で。

小島 よく知ってるね (笑)。なぜ私小説はとくに修業が必要だったのかねえ。

猪瀬 生活空間が四畳半の世界で、アイテムが少ないから、磨かなきゃいけないんですよね。アイテムが一〇〇個しかなければ、一〇〇全部磨けるけど、一万になると、全部磨いている暇はないですから。(笑)

(対談「ノンフィクションと文学の間」)

爆笑である。『殺祖』というふざけた小説を書く、小島らしい、飄々とした姿勢である。

猪瀬 高度経済成長が六〇年代で、七〇年代からはまあ豊かな社会ということで、そういう時代っていうのは、一種の毒が免疫になって、太宰治みたいにピエロを演じてももはや毒にならない。三島由紀夫が死んでみても、個人の毒っていうのはなかなか効かない。これは作家としてもつらいところでしょうけれども。

小島 つらいことだ。個人の毒を資本にしてやってきたわけだからね。

猪瀬 そのときにどういうスタンスでやるか、どういう距離をとるか、どういう世界観をもつかを再考するよりなかった。で、七〇年代から九〇年まで、だいたい二十年にわたってノンフィクションというものが一つの時代を作ったんですが、これは広い意味で明治以来の文学史のなかの一つのつまり自然主義とかプロレタリア文学とか私小説なんかがあったように、ノンフィクションという時代があったと考えたほうがおもしろいと思うんです。

(対談「ノンフィクションと文学の間」)

さて、では 21世紀初頭はどのような時代になるのだろう。この対談直後に起こった湾岸戦争 (1991年) は、ノンフィクションである戦争を、一気にフィクションの世界へと押し込んでしまった。先のアイテム論を援用すれば、インターネットがもたらしたアイテムの数は 1万では済まされないだろう。ネットを流れる情報はフィクションか、ノンフィクションか。我々は次の時代を、再び考えなければならないだろう。

2007/05/22/Tue.

養老孟司と玄侑宗久の対談本。

養老 僕の仏教は完全に自前なんです。「門前の小僧」どころか、うちは「墓地入口」にあるんですけど、誰にも仏教習ったことがないんですよ。不思議なことに自分で真面目に考えると、仏教になっちゃうんですよ。

旧制高校では、「社会を生きるには儒教、個人の問題を考える時は道教、抽象思考は仏教」って教えられたそうですよ。なかなかいい結論でしょ。

抽象思考するなら仏教に拠れ。おまえらの考える大概のことは、既に仏教に入っているよ、ってことですよ。

(第二章「都市と自然」)

対談の中で、日本人の思考・感性の拠り所としての仏教 (もちろん日本化されたそれ) がボロボロと出てくる。「抽象思考するなら仏教」というのは、宗教的な問題ではなく、恐らく言語的な問題が大きい。抽象思考とは言葉の操作である。明治期に多数の翻訳後が創出される以前、日本人の抽象思考を支えるに耐える言葉は、仏典の中にしかなかった。というのは言い過ぎだろうか。しかし、祝詞の和語では抽象的なことを考えにくいのは事実である。

仏教が広まったから仏の言葉が広まったのか、あるいは、抽象的な表現をするための方便として仏典を借用する内に仏教が深化されたのか。両方の経緯があったと私は推測する。だがそもそも、言葉や論理で捉え切れないのが宗教である。宗教には必ず、個人的な体験が伴う。言葉と宗教は、ゆるやかな螺旋を描いて互いに絡まりあってきたが、近世になって急速に分離する。これを養老風に言えば、頭と身体の分離、となるだろうか。

問題なのは、そのことが問題として認識されていない点にある。身体的な作法や行儀は、一部の世界を除いて失われてしまった。それを示す面白い逸話が披瀝されていたので引用する。

玄侑 ほんと、作法の失われ方というのは、末期的ですね。だからもう坊さんの言うままっていう感じがあって、坊さん嘘つくとそれが広まるんですよ。嘘ってことないけど、最近、献杯やりません?

献杯って、ある坊さんが冗談で始めたんです。あれが出てきたのって、昭和四〇年代ですよ。その後ある坊さんが、「乾杯は右手で、献杯は左手で」って言ったら、それが本当に広まっていくんですよ。みんな何も知らないから、それが正しい作法だと思って「お前、知らないの? 献杯は左手だよ」なんて、わーっと素直に広がっていくんですよね。「あれ言ったの、俺なんだよ」って言ってる坊さん、今も生きてますよ。

(第一章「観念と身体」)

作法が生まれる瞬間とは、こういうものなのかもしれない。献杯があっという間に広まったのは、我々がどこかで何らかの作法を求めているから、とも解釈できる。作法が失われたこと自体に問題があるわけではない。身体的なフォームが必要とされているのに、それがないという現状が危機的なのである。

2007/05/13/Sun.

本書は『仏教・神道・儒教集中講座』の前作に当たる。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はその源流を一にしながら、似て非なる面も多い。だからといって、それらを比較するときに、対応表のようなものを作って、受験勉強よろしく相違点を暗記したところで理解は難しい。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は時系列的に発生したものであり、その「発生史」を追う方が、歴史的にも易しく実感できる。

本書の第1部では、ユダヤ教、イエス (ユダヤ人) とキリスト教、ムハンマドとイスラム教の誕生、が時代順に記述される。この順番が、それぞれの宗教の主張に重要な意味を持つ。例えばキリスト教には、それより「古い」ユダヤ教と「新しい」イスラム教に対して、という形で何らかの主張がある。ユダヤ教、イスラム教においても同じである。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の言い分

第2部が興味深かった。井沢元彦が各宗教の代弁者と対談し、例えばキリスト教徒に、ユダヤ教やイスラム教をどう考えるか、などの突っ込んだ質問をする。それぞれの宗教の代弁者は以下の通り。

現在の (米国の) キリスト教は親イスラエル的である。キリスト教徒のロバートソンは、現実にイスラエルへの多大の援助を実行している。彼は言う。

ユダヤ人とクリスチャンは本来、同じ「アブラハムの子孫」であり、互いに「兄弟」なのだと私たちは思っているのです。だから「アブラハムの子孫」であるユダヤ人を、私たちは彼ら個人の思想や宗教にかかわらず祝福する。親切にしていきたいのです。

(「キリスト教の言い分」)

これらキリスト教徒の「祝福」「親切」を、ユダヤ教徒はどう思っているのか。

イエスの再臨は、すべてのユダヤ人がイスラエルに帰還を果たしたあとである。また彼らユダヤ人がみなクリスチャンに改宗したときであるという。

そういう予言が新約聖書にあるから、クリスチャンたちはユダヤ人に親切をし、キリスト教に改宗するように手助けをしなければならない。そういう動機がある。

私がイスラエルに行くと言えば、彼らは航空券を五分で用意してくれます。あっという間。なぜなら、こうした親切が新約聖書の予言の成就を早めることになると、彼らは理解しているからです。つまりそれはキリスト教徒のため。私を愛するというよりは、キリスト教を愛するがゆえなのです。

(「ユダヤ教の言い分」)

これだけで、もう日本人は頭が痛くなる。宗教の対立とはかくも根深いものか。ところが、イスラム教徒は「宗教対立などない」という。パレスチナ問題も、あれは政治や文化、経済の問題であって、宗教はダシに使われているだけで別に対立はない、と。

今、世界で起きている対立には、宗教は関係ないわけなんです。

よく見ると、その当時の権力者の欲望が、宗教より上なんです。だから戦争を起こしている。宗教対立で戦争が起こるはずがないんです。

十字軍はどうして起こったのか。当時は、ローマ法王の力が非常に弱っていたということがある、さらには、ヨーロッパにはたくさんの兵隊がいたが、何も仕事がなかった。だから、ローマ法王が、自分の力をもう一度取り戻すために、スペインやヨーロッパ全土に呼びかけたんです。パレスチナへ行こうと。あそこには天国みたいにいろいろなものがあるとか、扇動するようなことをあれこれ言ったわけ。結局、本当の原因が宗教かということは、私はいまだに疑問です。

これは楽観的な考え方かもしれないけれども、宗教戦争というのは、もう少し頭を冷やして考えると、戦争が起こるはずがない。やっぱり必ず裏に絡みがある。

とにかく、宗教へ持ってきても話にならないです。要は、誰の利益になるのかなのです。今、世界は、考え方が全部ブッシュ的。政治以外は、もうどうでもいいんです。でも、宗教を利用する人がいるんです。それを忘れてはいけません。

(「イスラム教の言い分」)

対談なので、短い引用で論旨を明確にはできないが、大体こんな感じである。もちろん、各発言者にはそれぞれの公的な立場があり、どこまでが本音なのかはわからない。しかしそれぞれの主張を並列してみると非常に面白い。

キリスト教は基本的に博愛精神であり、非常にものわかりが良いように語っているが、聖書の記述は絶対である。一方、ユダヤ教は現実的でしたたかな面が強いが、聖書 (ユダヤ教の聖書は旧約のみだが) の解釈は柔軟である。意外にイスラム教がクレバーだったのが印象的だった。もちろん、本書に登場した対談相手が各宗教の「一般的」教徒であるという保証はない。高度の教育を受けてきた人達であることは間違いなく、語られている意見は非常に穏健な部類であろう。それでも日本人を考え込ませるには充分である。

アメリカのキリスト教

「後書きにかえて」と題された文章が巻末にある。これは、米国中西部に住む民主党支持者 (日本人) が、友人である著者に送ったメールの抜粋で、ブッシュとケリーの大統領選挙 (2004年) の頃のものである。米国の宗教事情がつぶさに報告されていて面白い。

我々日本人が「アメリカ人」と聞いて反射的に思い起こすのは恐らく、東海岸、西海岸、あるいは五大湖周辺の大都市に住むデモクラットである。しかし、この種のアメリカ人は全体の半数に過ぎない。中西部および南部の主流はリパブリカンであり、彼らの多くは原理主義的なキリスト教徒でもある。2004年の大統領選挙の結果を地図で見ると、そのあまりの明確な塗り分けに驚く。

アメリカがそういう国である、ということは頭では知っているが、生々しいメールを読んでみると、実際に報道されていることの少なさに気付く。

2007/05/12/Sat.

歴史や文化を知るには、その当時の宗教がどうであったかを知らねばならない。日本は世界一早い段階で政教分離を実現した国であるが、それですら徳川幕府以降 (宗門改、檀家制度、鎖国) のことである。それ以前の歴史には密接に宗教が関係していたし、近年でも太平洋戦争時における国家神道という問題がある。宗教を抜きにして歴史は語れない。

というのが井沢元彦の年来の主張である。『逆説の日本史』などでも、折りに触れて各宗教について書いている (例えば第6巻の半分は仏教の解説である)。本書は、これまでの本で断片的に採り上げられた宗教論、宗教解説をまとめたような感じになっている。逆にいうと、どこかで読んだ話が多い。内容は 3部構成。題名の通り、各部で仏教、神道、儒教について述べられる。

仏教

仏教では、釈迦による原始仏教の誕生から、大乗仏教の成立、中国への伝播、日本への伝来と聖徳太子、最澄と空海、鎌倉仏教の開花、織田信長による比叡山の焼き打ち、徳川幕府による檀家制度の創設などなどが描かれる。登場する宗派の簡単な教義の解説と、近現代の仏教に対する若干の警鐘が付される。いつもの井沢節である。彼は仏教にやや優しい。

神道

神道には体系的な教義がない割に、日本人の深層心理に深く入り込んでいるので解説が難しい。いまだに神道といえば「国家神道」のイメージが強く、誤解や偏見も根強く生き残っている。

この部でも井沢節が炸裂する。聖徳太子の「和」、穢れ、怨霊、言霊、芥川龍之介『神神の微笑』などなど。同じ話といえば同じ話であるが、そんなことは本書を買う前からわかっている。最後は靖国神社について、若干の擁護をしている。彼は神道に優しい。

儒教

最後は儒教である。「儒教は宗教である」というのが彼の前提であり、それなりの論拠もある。儒教がいかにバカげたものか、それを語る井沢の口調は熱くなる。中国、韓国に苦言を呈するのも、いつものこと。彼は儒教には厳しい。

何だかんだと言いながら

何だかんだと言いながら、それでも井沢の本を手に取るのは、基本的に彼の主張に私が賛同しているからである。揚げ足を取るのは簡単なことで、実際に批判も多いようだが、毎度毎度、同じことを最初から説明しながら理論を補強している彼の主張にはやはり (議論としての) 説得力があるし、何より読んでいて面白い。

私は歴史を体系的に学んだわけではないので、井沢の文献学的・考古学的解釈が、専門家から見てどのようなレベルにあるのかを正確に判断できない。ところで私は、「歴史は過去から教訓を読み取るためのストーリーだから、リアリティさえあれば別に創作でも構わない」という、ある種の極論を持っている。もちろん文献学的・考古学的証拠 (リアル) との一致度が高いほどリアリティが増すわけだが、事実の集積と物語の構築はまた少し違う問題でもある。例えば文献という証拠、あれもまたストーリーに他ならない、という事実は忘れられがちだ。

井沢の本を読んだことがない人にとって、本書は色々と発見があって面白いと思う。

2007/05/07/Mon.

副題に「生きた哲学のために」とある。

「経験」「言語」「存在」といった哲学概念が辞書風に採り上げられ、それぞれについて数頁の説明がなされる。引用が大変豊富で、そのタームについて、誰が何という本でどんなことを言っているか、どういう変遷を辿ったのかがよくわかる。興味のある概念について適当な書物を当たりたいとき、本書が土台として役に立つだろう。

著者は翻訳家である。見返しによれば、フーコー、デリダ、フロイト、メルロポンティ、カントの訳書を成している。これらは全てちくま学芸文庫で、大学生協なんかではよく見かける。以前から読みたい本でもあったので、これを機会に手を伸ばしてみようかな。