- Book Review 2007/04

2007/04/28/Sat.

「記憶スケッチ」とは何か。

提示されたお題を記憶のみに頼って描いてみることを「記憶スケッチ」とし、その作品を愛でながらも「人間の記憶とは、そして絵心とは」などについて研究しているのが「記憶スケッチアカデミー」なのです。

人間の記憶のでたらめさを白日の下にさらすことによって、己の中にも確実に存在する「間抜け」を不可抗力として認めて生きていこうという、すでに宗教の域にまで達したと言ってもいい理念に基づき活動しています。

(「はじめに」)

このような主旨で、ナンシー関が「お題」を提出し、読者が「記憶のみに頼って描い」た絵を投稿する。それらをナンシー関が選別して、簡単な寸評とともに掲載する。それだけの企画なのだが、投稿される絵が実に味わい深く、色々なことを考えさせられる。

この連載は『通販生活』に掲載されていた。私の実家では『通販生活』を取っており、帰省するたびにこのコーナーを楽しく読んでいたことを思い出す。

人の記憶がいかに曖昧か。例えば「にわとり」という題では、4本足のにわとりの絵が大量に送られてくる。たとえ絵心がなくとも「にわとりは 2本足で立つ」という事実は考えればわかりそうなものだが、絵筆を持ってしまうとそのような常識はどこかに吹き飛んでしまうらしい。それが面白い。投稿者の年齢層は非常に幅広く、「若い人は鳥が 2本足で歩くことを知らない」という単純な結論には至らない。中高年もバンバン間違える。

それから、「動物に眉毛を描く」という行為。かつて「明石家電視台」という番組の中で、間寛平が動物の絵を描くときには、いつも眉毛を描写していたことを思い出した。しかし寛平に限ったことではないらしい。「記憶スケッチ」でもやたらと「動物に眉毛」が出てくる。描かないと落ち着かないんだろうな。

そのような業が垣間見える、素晴らしい素人画集。

2007/04/27/Fri.

「裸婦」をテーマに、古今東西の芸術作品から「裸婦の中のもっともすぐれた裸婦、えらび抜かれた裸婦」(「幼虫としての女」) を鑑賞・論評するエッセイ。全て架空の対話として書かれているので読みやすい。「えらび抜かれた裸婦」は以下の通り。

当初、澁澤龍彦による全12回の連載が予定されていたが、彼が咽頭癌によって入院したことを受け、後半 3回は巖谷國士によって執筆された。巖谷は澁澤の対話体を継承したため、1冊の本として違和感なくまとまっている。

採り上げられた裸婦は絵画のものが多いが、彫刻、写真、人形なども含まれる。口絵としてこれらのカラー写真があり、本文を読みながら何度も見返しては鑑賞した。

晩年の澁澤のエッセイはその衒学趣味が正面切って出ることが少なく、本書の語り口も非常に取っ付きやすい。ゴチャゴチャとしていて澁澤龍彦はどうも苦手だ、という人にもお勧めできる。

2007/04/18/Wed.

野崎昭弘は、以前に紹介した『不完全性定理』の著者でもある。耳に痛そうなタイトルだが、中身は軽やかなエッセイ集である。日記に書いた「自然数が無限に存在することの証明」の出典も、実は本書だ。

数学の威力はその抽象性、一般性にある。しかし本書で扱われるエピソードは全て具体的なものであり、実際に問題を解く過程で「数学的センス」の実例が示される。

直接に数学とは関係のない話も多い。私が気に入った箇所を幾つか引用しておく。

そこで事柄を整理・整頓し、枝葉を捨てて、要点がよくわかるような、形式的にすっきりした説明をすることが時には望まれるわけである。その点をズバリと指摘されたのは、ある研究会議での、吉田耕作先生の次のようなご発言であった。

「わかりやすいように、抽象的に話してください」

(第6話「わかりやすい」ということ)

小平邦彦先生から学生への素朴な質問:「わからないのなら、どうしてわかるまで考えないのですか?」

(同前)

2007/04/17/Tue.

爆笑問題の「原論」シリーズは、太田と田中の会話を起こしたような体裁を採っているが、全て太田が一人で書いたものである。しかしながら、ライブ感というか臨場感というか、とにかく勢いがある。

個人的に太田の「いかにも」な文章は嫌いなのだが、「原論」シリーズだけは本当に面白いと思う。本書の序文である「ごあいさつ」も秀逸だった。

アメリカでは、ヒゲを生やしていた無関係な男が、テロリストの仲間とされて、殺された。

人間の DNA のほとんどが解読されたというニュースが流れた二十一世紀初頭、我々が人を見分ける唯一の手がかりとしたのは、"ヒゲを生やしているか、生やしていないか" だった。

(中略)

そのうち、タリバンから解放された人々が、嬉々としてヒゲを剃っている映像が世界中に流されると我々は安心してこう思った。

「やっぱり違いはヒゲだったんだ」

そして我々は、彼らにこう言ってあげたくなった。

「もう一度 "ブラウン" で剃ってごらん。まだヒゲはたくさん残っているハズだよ」

(「ごあいさつ」)

「日本原論」は基本的に時事ネタである。本書の白眉は、「ごあいさつ」でも引用した、アメリカにおける 9・11 テロを扱った回だろう。

田中——しかし今回の事件で世界中が感じたのが、自爆テロの恐ろしさだよね。

太田——確かに、自分も死んじゃうのに、なんで平気なんだろうな。

田中——平気というよりもむしろそれを望んでるんだよね。彼らにとってこれは聖戦で、聖戦で死ぬことがいちばんの夢なんだよな。だから旅客機で貿易センタービルに突っ込むなんていうのは、彼らにとっては最高の喜びなんだな。

太田——まさに、アメリカンドリームってやつだな。

田中——全然違うよ!

太田——テロリストの間では、ニューヨークは "夢がかなう街" って呼ばれてるらしいよ。

田中——いい加減にしろ!

(「『米同時多発テロ』の巻」)

これは色んな意味で、マジでスゴいと思うよ。

2007/04/16/Mon.

英題は "The Brain and Imagination"、副題に 'Immersed in the premonition of things to come' とある。本書は 2005年に小林秀雄賞を受賞した。

「仮想」とは何だろう。これは極めて難しい質問である。確固たる「現実」に対して「仮想」があるのか? テレビゲームを批判する人達はそう思っているのかもしれない。しかし我々は知っている。ゲームという体験が限りなくリアルであること、あるいは現実というものがフェイクであることを。そういうことが見えやすい世の中になってきた、ということもある。

我々の知覚や意識が「培養された脳」のものである、という疑念を完全に払拭することはできない。それを考えているのも脳だから、これはトートロジーでもある。恐らく、確かな「現実」というものはあるのだろう。しかし我々はそれを、「脳」という器官を通してのみしか把握することはできない。全ての現実は脳のどこかで適当に処理される。我々が体験するのは、脳を経た事柄だけである。だからこれを「仮想」といっても間違いではない。

その意味で、他人を理解するのは不可能だ。ただ、彼の仮想と私の仮想はほぼ同じであろうという自然な推測のもと、私の仮想として彼の仮想を忖度することだけが可能である。

私が見る赤と、他人が見る赤は同じか? 絶対的な「赤」という色が現実としてあるのか。あるのかもしれない。しかし、それは仮想の仕方、つまり脳の働きによって異なってくる。犬が色盲である事実を考えれば良い。牛も色盲である。だから闘牛場の牛は、闘牛士が振り回す紅い布の色に興奮しているのではない。赤い色に牛が興奮するという誤解は、我々が牛の仮想を私の仮想として推測していることに由来する。仮想の方法が、つまり脳が異なれば、両者の間で理解は断絶する。

一方で、仮想は受け継がれもする。我々日本人が「蛍」という仮想に抱く様々なイメージには、和泉式部が和歌に託した仮想も含まれるし、小林秀雄がその光に母の幻影を見たという仮想も含まれる。そういう系譜があって、我々は「蛍」という仮想に何らかのクオリアを見出す。日本人にとっての蛍は、アメリカ人にとっての firefly と「現実」としては同じものだが、「仮想」としては全く違う。

我々は仮想に埋もれて生きている。私なりの言い方で書けば、我々は極めてリアルな世界に住んでいる。住所は脳だ。それまで疑えば哲学になってしまう。脳を最終的な土台とする、せざるを得ないところにサイエンスの限界がある。しかし、何かを見るには大地に足をつけて立たねばならぬ。

2007/04/15/Sun.

副題に「微分積分学の成立」とあるように、微積分の成立という観点から眺めた数学史である。

現在世界中に流布している数学は近代のヨーロッパで成立したものであるが、数学という学問は人類が最も古くから築き上げてきたものでもあり、その源流は当然ヨーロッパばかりではない。その根の一つがギリシアであることは間違いない (アルキメデスが機械学的な方法で原理的に微分を発見した) が、ローマ帝国の崩壊後、その果実を保存したのはインド・アラビア世界であった。近年、中世におけるインド・アラビア数学についての研究が盛んであるようだが、本書ではその成果の一端を垣間見ることができる。

アラビアはまた交易の社会でもあった。ここに中国の数学が輸入される。ギリシア系の数学はその高い抽象性・一般性に特徴があるが、中国やアラビアの数学は貿易という実用上の目的があったため、非常に具体的であり、算術を重要視した。微分積分学というのは解析学でもあるが、解析に用いる高等な計算術は主に非ヨーロッパ世界で発展した。中国数学の流れを汲む日本の和算も、その例の一つである。

中世におけるこれらの世界が十字軍によってヨーロッパにも波及し、ルネサンスによって近代数学の萌芽が生まれる。つまり近代数学は、ヨーロッパ、アラビア、インド、中国の数学が総合されたものなのである。そこで著者は「ユーラシア数学」という概念を提案する。これはなかなか面白いと思う。

最終的に微分積分は、ニュートンによって幾何学的に、ライプニッツによって代数的に確立された。微積分の発見については、ニュートンとライプニッツの間で先取権が議論されるが、どうもライプニッツの微分積分の方が包括的で体系的であるように思う。

どちらが先か、という話は、まァどうでも良い。私が面白かったのは、微分積分に到達するアプローチが様々であったことである。ニュートンの時代まで、数学の王道は幾何学であった。幾何学的な微分積分というのは直感的に理解しやすく、高校の教科書における説明もまた幾何学的である。しかし微分積分がその威力を真に発揮するのは解析においてであり、そのためにはどうしても代数的な理解が必要になる。ライプニッツはそれを成し遂げた。∫ や dxdy という、現在でも使われる記号を発明したのは彼である。

数学史の最新の成果が詰め込まれた良書。

2007/04/14/Sat.

数学に関するエッセイを集めた本。オリジナルは 1969年に雑誌に連載されたもので、いささかデータが古い話もある (「文庫版のための補遺と注釈」が付く) が、それでも面白い。

著者の専門は数値解析であるらしく、コンピュータやプログラム、アルゴリズムの話が多い。とはいえ、話題は多岐に渡る。一つ一つのエピソードは大変短いので気楽に読める。

2007/04/13/Fri.

故ナンシー関の未刊行の原稿を集めたもの。まだあるんだな。とはいえ、彼女の新作は読もう読めない。いつもこの本で最後かと思いながら頁をめくるのである。

本書の前半は「でたとこ映画」と題され、『SF アドベンチャー』で連載された (1990〜1992年) 映画評である。ナンシー関は映画をほとんど観ないらしいが、そのため、ヘンに気取って鼻につく映画評とは一味違ったものになっている。紹介されているのは B級やマイナーな映画が多く、また、そのような作品に限って割と真面目に論じたりしているので面白い。

後半は『Hot-Dog PRESS』に連載された (1991〜1992年) テレビに関するエッセイ。いつも思うことなのだが、10年以上前のテレビの話って、もうどうしようもなく「古い」話題のはずなのに、彼女のエッセイは古びない。何なのだろうな、これは。いつも不思議である。

2007/04/12/Thu.

副題に「大学制度の先駆け」とある。まことにその通りで、東京大学は日本最初の国立大学、つまり唯一無二の帝国大学であった。後にできた大学は、全て東京大学の制度を基準としている。

本書では東京大学の成立を、その前段階から丁寧に掘り起こす。例えば 4月から新学期という日本の慣習も、帝国大学の発足とともに制定されたという、意外に知られていない逸話が、豊富な資料を駆使して説明される。非常に興味深い。

帝国大学は明治政府が総力を挙げて作り上げた大学であった。初期の教授は全て外国人 (いわゆる御雇外国人) であり、世界中から招聘された彼らの給料は世界一高額であった。貧しい明治政府が国の将来を見据え、高等教育に莫大な投資をした事実を思うと涙が出てくる。

とはいえ、いつまでも外国人教授の世話になるという考えがあったわけではない。帝国大学の卒業生は順次留学し、帰朝してからは御雇外国人と入れ替わるように教壇に立つ。日本の学問の礎を築いたのは彼らであることに間違いはない。

帝国大学と明治政府は長らく一心同体であった。それは癒着ではない。日本の学問・教育の質を向上させるにはどうすれば良いかという難問に対して、手を取り合って模索していたのである。この過程で、大学と政府の間で方向性の違いが顕になってくる。帝国大学は政府に対し粘り強く、時には強気に交渉を継続し、徐々に大学としての自治権を獲得していく。

本書の後半では、現在の東京大学についても触れられる。国立大学が法人化され、大学は再び改革の時期を迎えた。東京大学がどうするのか。良くも悪くも、注目されている。

2007/04/11/Wed.

語り口調で書かれた (口述筆記かもしれないが)、何というのだろう、人生について語った本である。

養老孟司が助手時代に大学紛争に巻き込まれたことは様々な本に書かれてあるが、本書ではその部分がかなり掘り下げられている。大学とは何か、学問とは何か。真面目だった彼は紛争が終わってからもそのことを考え続けた。このあたりのことは、私にはわかるような気もするし、わからない気もする。仮に私が大学について、学問について、著者と同じ考えに到達したとしても、もうそれ (例えば英語の論文を書かないこと) が許されないことは確実である。

時代が違う、というのは簡単だが、それでも考えるきっかけにはなる。特に何かを感じたわけではないが、大学紛争の話だけは印象に残った。

2007/04/10/Tue.

光文社文庫版「江戸川乱歩全集」第24巻。

収録作品は『悪人志願』『探偵小説十年』『幻影の城主』、その他の雑文である。全て探偵小説に関する評論、または随筆である。以前に紹介した『幻影城』の戦前版といえよう。

初期の江戸川乱歩は優れた短編を立て続けに発表し、いつしか探偵小説文壇の指導者的立場に祭り上げられるのだが、それと反比例して探偵小説が書けなくなっていく。原稿の求めには評論や随筆 (正直いってかなりヒドいものも多い) で応じるようになり、本書に収められたような本を幾つか出版した。

やたらと泣き言が多く、ときにはフラッと 1年ほど行方をくらましてしまう。本書ではそのような「人間」としての乱歩が滲み出ており、面白いといえば面白い。また、当時の探偵小説界が記述された貴重な資料という側面もある。特に『探偵小説十年』は、後に書かれる大著『探偵小説四十年』の元型であり、記録魔・乱歩の面目躍如といった感がある。

乱歩自身による解題と、編集による注釈が付く。

2007/04/07/Sat.

副題に「なんとなくクリスマス」とある。本シリーズについては前作以前を参照されたい。

このシリーズは 3ヶ月おきに出版されるのだが、新作を手にするたびに「もう 3ヶ月経ったのか」と思い、愕然とする。その間に、森博嗣は 1冊の本になる分量の日記を書いているわけである。私の日記も結構長いから、やはり 3ヶ月で文庫本程度の分量になるのだろうか。結構書いているな。時間の経過は年々早く感じられてくるが、あながち無駄に過ごしているわけでもないらしい。などと自分を励ましたくもなる。

2007/04/05/Thu.

ハンニバル・レクター博士のシリーズ第4作。高見浩・訳。原題も『HANNIBAL RISING』。

希代の怪物、ハンニバル・レクターはいかにして生まれたか。本書では、彼の幼少から青年期までの物語を追った、ルーツものである。アナキン・スカイウォーカーが暗黒面に墜ちるまでを描いた「STAR WARS」新3部作もそうだが、「ルーツもの」は作中で扱う時間が必然的に長くなるので、1つ 1つの事件に対する描写は駆け足にならざるをえない。濃厚な筆致が魅力であった、これまでのレクター・シリーズとは、そういう意味で本書はいささか趣を異にする。

ハンニバル・レクターはリトアニアの貴族の末裔として、先祖代々が領する古城で何不自由なく育った。しかし彼が 8歳のとき、ナチス・ドイツがソ連と戦端を開き、彼の生地も東部戦線に巻き込まれる。そのため彼は、財産・家族・そして一部の記憶を失ってしまう。これが本書の最初の山場である。

孤児となった彼は戦後、フランスの叔父夫妻に引き取られてパリで暮らすようになる。叔父は高名な画家であり、ハンニバルの美術的な素養は彼によって養われる。だが、彼により大きな影響を与えたのは叔母である日本人女性・紫であった。彼女はレクターに日本語、和歌、習字などなどの日本文化を教授する。日本人から見れば爆笑ものの説明も多々あるが、トマス・ハリスはまだよく勉強している方だろう。しかしまた、この「ちょっとヘンなニッポン」のおかげで、本書のクオリティがこれまでに比べて低く感じられるのもまた事実である。我々が日本人だから仕方ないのだけれど。

日本に対する個々の勘違いは大目に見て、レクターの精神的支柱の 1つに日本文化が選ばれたことの意味について考察してみるのは面白い。「解説」で訳者はこう述べている。

仇敵の身許を探るべく故郷リトアニアに単身もどったハンニバルが、亡き妹に語りかけるシーン。そこで彼はこう言っているのだ——「この世に神は存在しないという事実に、ぼくらは心の平安を見出しているんだよな、ミーシャ。だからこそおまえは、天国で奴隷にされることもないし、この先永久に神の尻にキスさせられることもないんだ……」

ハンニバルが反対キリスト教的無神論者であることをはっきりと宣明した印象的なシーンである。こういう——西洋人から見て——不逞な世界観を持つに至った若者が、その成長期につちかうに相応しい教養の素地は何か。それを考えた結果、ハリスは、キリスト教文明の影響とは一切無縁で、なおかつ歴史的な深みと一貫性を併せ持つ日本の伝統に着目したのではあるまいか。

(高見浩「解説」)

己の世界観を築きつつあったハンニバルは、先に引用した「仇敵」の処刑を繰り返す。指摘しておきたいのは、ここではまだ、彼の残忍性に「報復」という大義名分があることだ。後年の彼に見られるような快楽殺人的な要素はまだ、少なくとも、最重要ではない。ハンニバル青年が、「人喰いハンニバル」(ハンニバル・カンニバル) に変貌したのは何故か。それが本書後半の山場である。とはいえ、それも半ばは予想できる理由によるものであったが。

純粋に小説として評価するなら、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の方が面白いとは思う。ただ、ハンニバル・レクターの出生譚として、本書が非常に興味深いものである点は間違いない。シリーズの読者なら必読だろう。