- 『幻影城』江戸川乱歩

2007/02/09/Fri.『幻影城』江戸川乱歩

光文社文庫版「江戸川乱歩全集」第26巻。

本書は、江戸川乱歩が戦後に発表した評論を系統的にまとめた古典的名著である。内容は非常に豊富で、大きく分類してみると、

となる。本書には『幻影城』の他に、「城外散策」として幾つかの随筆が収録されている。全集の名に恥じない、充実した解題、注釈、解説も付せられる。

大乱歩

日本の探偵小説史を考えるとき、江戸川乱歩の偉大さを思わずにはいられない。『幻影城』を読めば、どれほど乱歩が日本の探偵小説を思っていたか、その発展に心を砕いたか、そして奔走したかがよくわかる。本書は評論集ではあるが、乱歩の (小説執筆の外での) 活躍の記録ともいえる。

戦前・戦中・戦後と、海外小説の入手が困難な時期に、乱歩は驚くほどの原書を手に入れて読みこなしている。そして戦後、小説や評論、果ては雑誌に至るまでを積極的に紹介する。後に多くが翻訳され、後進の作家に甚大な影響を与えた。この一事を考えるだけでも、乱歩の大きさが伺い知れる。

乱歩と本格探偵小説

乱歩の探偵小説論は、大きく 2つの主題を持つ。1つは文学論、1つは本格論である。

文学論については木々高太郎との論争 (探偵小説は文学たり得るかどうか) が有名だが、その様子は本書でも知ることができる (「二つの比較論」「英米探偵小説評論界の現状」「探偵小説純文学論を評す」など)。

本来の探偵小説的興味を無造作に逸脱して、純文学的なものを書くというのは、作家によっては決してむずかしい事ではないが、本格にしてしかも純文学(高度な意味の)となると、これは至難の業である。尤も、私は至難というのであって全く不可能とは云い切っていない。そういうものが、若し出来たならば、探偵小説の革命であり、その時こそは私は帽子を脱ぐにやぶさかではないつもりである。(「一人の芭蕉の問題」参照)

(「探偵小説純文学論を評す」)

これが乱歩の主張であり、本書で何度も繰り返される。「探偵小説」と「純文学」が融合すれば素晴らしい作品になるだろう、是非とも目指すべきだ。この点では、乱歩も木々も意見が一致している。問題は、それが「至難の業である」というところにある。では理想に向かう現実的な手法として、まずは文学ありきとするのが木々であり、まずは探偵小説であるべきとするのが乱歩である。そして、上の文章にもある「本格」が問題として浮上する。

探偵小説において特に期待されるのが「本格探偵小説」 (論によっては「純探偵小説」) である。これは具体的に、エラリー・クイーンを頂点とするような「謎と論理」の探偵小説を指す。乱歩の有名な定義を引用しておこう。

探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする文学である。

(「探偵小説の定義と類別」)

定義の中に「文学」の 2字が認められて興味深い。ともかく、乱歩にとって理想の (つまり「本格」) 探偵小説とはこのようなものであった。しかし同時に、日本の探偵小説に「本格」がほとんど見当たらないのが不満でもあった。戦前の探偵小説がいわゆる「変格」に偏ったのは、乱歩自身にも責があった。彼が執筆した本格らしき作品は、初期の幾つかの短編 (『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』『心理事件』など) だけであり、大衆に受けたのは、いわゆるエログロものが多かった (加えて乱歩は、本格探偵小説の真骨頂は長編にあるとも述べている)。

日本の探偵小説の潮流が英米とは遠くかけ離れていることを憂慮した乱歩は、各種評論で積極的に海外の名作を詳解する。国内の作家に刺激を与えようとしたのである (一方で、日本の探偵小説の方が文学的に優れているものが多いと指摘してもいる)。戦後の乱歩は、評者、論者、紹介者、オーガナイザーに徹した。評論執筆以外にも、探偵作家クラブ (後の推理作家協会) を組織するなど、極めて重要な功績を残す。

乱歩の影響

乱歩は生涯、彼が理想とした本格探偵小説を自らの手で書くことができなかった。しかし戦後、横溝正史『本陣殺人事件』、高木彬光『刺青殺人事件』、坂口安吾『不連続殺人事件』などが相次いで発表され、日本に本格探偵小説が根付いていく。また、乱歩と木々が望んだ「一人の芭蕉」は松本清張という形で後に出現する。現在でも、島田荘司など、乱歩を敬愛し、その意志を受け継ぐ作家は多い。まさしく乱歩は、日本のエドガー・アラン・ポーであった。

ところで、乱歩がポーを評した「探偵作家としてのエドガー・ポー」という評論も本書に収録されている。絶品である。本書に興味のある方は、まずはこれを立ち読みしてみたらいかがか。