- 『4000万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』ピート・デイヴィス

2007/02/04/Sun.『4000万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』ピート・デイヴィス

高橋健次・訳。原題は "Catching Cold"。「風邪をひく」と「風邪 (インフルエンザの正体) を捕まえる」の double meaning かと思われる。

邦題は安っぽいが、中身は硬派なノンフィクションである。いい加減、こういった真面目な本に、下品で扇情的なタイトルをつけるのは止めにしないか。読者をバカにしているとしか思えない。

香港の鳥インフルエンザ・ウイルス

インフルエンザは歴としたウイルス性の感染症であり、感染力が弱い年でさえ、世界中で 1億人が感染する。この数字は WHO のサーベイに基づく数値であり、彼らの監視が及んでいない地域で、どれほどの患者が発生しているかはわからない。インフルエンザの症状は比較的短期間で治まることが多いが、高熱が発生し、体力の衰弱が激しいため、高齢者や幼児ではしばしば肺炎その他を併発し、ときに死に至る。感染力は非常に強く、患者がちょっと人混みの激しい場所に行けば、爆発的に蔓延する。にも関わらず、我々はインフルエンザを単なる風邪のようにしか認識していない。

インフルエンザは恐ろしい。少なくとも潜在的な危険性はエイズに優るとも劣らない。そのことをまず著者は力説する。インフルエンザの恐ろしさは、1997年の香港における、鳥インフルエンザ・ウイルスによって少しは一般にも知られるようになった。第1章では、香港の危機を未然に防いだインフルエンザ関係の科学者、免疫官、技術者、行政官の奮闘が描かれる。

香港のインフルエンザが問題になったのは、H5N1型の鳥インフルエンザ・ウイルスがヒトにも感染したからである。H はヘマグルチニン (hemagglutinin)、N はノイラミニダーゼ (neuraminidase) というウイルス・タンパク質のことであり、数字はサブタイプの番号である。これまでヒトに感染するインフルエンザ・ウイルスは H1, H2, H3型に限られてきた。したがって従来のキットで香港ウイルスの検出を試みても出てこない。これは何なのだと大騒ぎになったところで、このウイルスが H5型であることが判明する。香港あるいは中国の農村部では、ヒト、ブタ、トリといったインフルエンザ・ウイルスの宿主が密接に関わり合った生態系が構築されている。ウイルスは恐らく、この環境で遺伝子が組み換えを起こしたと考えられる。H5型ウイルスがパニックを引き起こしたのは、このウイルスが鶏卵の胚を殺してしまうからである。インフルエンザ・ワクチンは、鶏卵を宿主として培養したインフルエンザ・ウイルスを不活化して作られる。つまり、胚を殺してしまう H5型ウイルスの抗体を作成することは不可能なのだ。そのような状況で、患者は一人また一人と増えていく。死者も出る。

幸い、香港は近代的な都市であり、隔離も容易な地理的条件にあった。事態を重く見た行政によって中国との国境が封鎖され、香港中の家禽は残らず殺処分された。患者は素早く病院に収容され、間もなくインフルエンザは収束した。

スペイン風邪

香港の鳥インフルエンザが中国本土で起こったらと思うとゾッとする。ところで、史上最悪のインフルエンザは、第1次世界大戦中に猛威を振るった 1918年のスペイン風邪である。タイトルにある「4000万人を殺した戦慄のインフルエンザ」がこれである。感染力・殺傷力ともに強力な最強のウイルスだった。第2章以降では、当時の記録を丹念に辿りつつ、このインフルエンザの脅威が活写される。

当時、科学・医学界ではようやくウイルスという概念が広まり始めたばかりで、誰もウイルスを分離したことはなかった。インフルエンザ・ウイルスが分離・培養されるのは 1930年になってからである。インフルエンザ・ウイルスは変異速度が早く、毎年違った流行が生まれる。大流行するときもあれば、穏やかなときもあり、症状が軽いときもあれば、死に至るときもある。これらの違いは、全てウイルス遺伝子の変異による。

分子生物学が台頭し、インフルエンザ・ウイルスの研究は飛躍的に進んだが、いまだにどの遺伝子のどの部分がヒトへの感染力を実現しているかはわかっていない。1918年に世界中で大流行したスペイン風邪インフルエンザ・ウイルスの現物を調べ、このウイルスがどのような塩基配列を持っていたかがわかれば、ウイルスの形質の研究は飛躍的に進むだろう。インフルエンザに関わる科学者の誰もが、このウイルスの現物を欲しがっていた。もちろん、80年以上も前のウイルスが現存しているわけがない。叶わぬ夢である。と思われていた。

1918年のウイルスを求めて

1918年のインフルエンザで死亡し、永久凍土に埋葬された遺体の中には、まだ当時のインフルエンザ・ウイルスが、あるいはウイルスの遺伝子だけでも残っているのではないか (インフルエンザ・ウイルスは RNA ウイルスであり、DNA より条件がシビアである)。そんなことを考えたグループが幾つかあった。彼らは当時の記録を精査し、ウイルスが生き残れそうな幾つかの土地に死者が埋葬されたことを突き止めた。

多数の科学者が活躍する。ここからが非常に面白い。政府や製薬会社への研究費の申請、功名心にはやる研究者グループとマスメディアの対立、論文競争、実際にウイルスの存在を証明するための技術開発。などなど。純粋な学問的欲求とドロドロの人間関係がここでは並立する。同業者の方には特に興味深いのではないかと思う。

創薬、ワクチン、予防

後半では、インフルエンザに対する創薬の取り組みも紹介される。数年前に話題になったタミフルという薬では、ノイラミニダーゼの活性中心を阻害する物質が薬効を実現する。インフルエンザ・ウイルスのゲノム解読、ウイルス・タンパク質の結晶構造解析の結果から、タミフルのような薬が開発できるようになってきた。

また、ワクチンの改良、疫学的な予防、基礎的な研究も引き続き行われている。一方で、インフルエンザが持つ潜在的な脅威と、一般人の認識はかけ離れている。HIV ばかりに金が回り、インフルエンザ・ウイルスの研究支援は長らく低下していた、というウイルス学界の現状も報告されている。エイズは確かに恐ろしい感染症だが、インフルエンザと比べて感染力が弱く、充分に注意していれば防ぐことができる。インフルエンザの真骨頂はその感染力にある。数カ月で 10億人を感染させ、そのウイルスが殺傷力を持ち合わせていれば、短期間で膨大な数の死者を出すことが可能である。インフルエンザ・ウイルスの変異速度は速い。来年にもこのようなウイルスが蔓延する可能性はある。

インフルエンザに関する現状報告、啓蒙書としても優れた 1冊。