- Book Review 2007/02

2007/02/11/Sun.

副題に「裏返し文章読本」とある。

私は悪文のファンである。例えば先日、岸田秀『古希の雑考』の一部を紹介したが、これなども典型的な悪文である。しかしパワーがあって読ませる。面白い。また、学童の文章というのも概ね悪文である。爆笑問題『爆笑問題の学校VOW』の書評で小学生の作文を引用したが、これまた衝撃の文章である。

本書にはそのような悪文が多数掲載されている……のを期待したのだが、全くの見当違いだった。

著者も、私が述べたような悪文の効果は認めている。

真剣な筆致から、いわば必要悪として生まれる読みにくい文章を含めて「悪文」というのなら、そのすべてが「名文」の対極に位置するとはいえない。悪文である名文さえ存在するという事実は明白だからである。

(「悪文の正体」)

そうなのだ。私はそのような「悪文」が読みたいのだ。しかし。

この本であつかう「悪文」は、単純明快に「へた」な文章だけである。以下、まともな文章を書くために、そういうまずい表現をいかにして避けるかを考えてみたい。

(「悪文の正体」)

マジで? 以下、文章を書くときの注意点が延々と続く。「文章読本」だから当たり前である。著者に責任はない。

著者は辞書の編纂や国語教科書の作成に関わったことのある人物のようで、内容は非常に「まとも」である。「段落は適度に分けろ」とか「読者の目で推敲せよ」などなど。良書ではあるだろう。しかし基本的に過ぎて、まともなレポートを提出できる程度に日本語が使える人間には、必要のないレベルである。

2007/02/10/Sat.

ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の訳者による、『論考』の解説書。著者が東京大学大学院で開講したゼミが元になっている。

非常にわかりやすい。著者自身が「『論理哲学論考』を理解したいと思うならば、この本を読むのが現時点では最短の道であると言いたい」(「はじめに」) と豪語している (「まったくの一般論であるが、哲学の解説書というのは読まない方がよい。哲学の魅力は哲学者の肉声にある。せめて翻訳でもよいから、原典に向かわねばならない」とも書いているが)。確かに、記述は平明であり、議論は明快である。もう一度『論考』を読み直したくなった。

いささか本論から外れるが、本書から感じられるのは、著者の『論考』への愛である。例えば『論考』には幾つかの誤りがあり、ウィトゲンシュタイン自身も後に一部の撤回を表明している。『論考』では語られていない (当たり前だが) これらの誤謬も本書では解説されている (「文庫版あとがきにかえて」にも詳述)。『論考』自体がどういう具合に位置付けされるか。そのような、『論考』だけを読んだのではわかりにくい部分も把握できる。

『論考』を読んでいない人には用のない本であるが、『論考』を読むのなら (特に著者の訳による『論考』を読むのなら)、是非とも併読したい名著である。

2007/02/09/Fri.

光文社文庫版「江戸川乱歩全集」第26巻。

本書は、江戸川乱歩が戦後に発表した評論を系統的にまとめた古典的名著である。内容は非常に豊富で、大きく分類してみると、

となる。本書には『幻影城』の他に、「城外散策」として幾つかの随筆が収録されている。全集の名に恥じない、充実した解題、注釈、解説も付せられる。

大乱歩

日本の探偵小説史を考えるとき、江戸川乱歩の偉大さを思わずにはいられない。『幻影城』を読めば、どれほど乱歩が日本の探偵小説を思っていたか、その発展に心を砕いたか、そして奔走したかがよくわかる。本書は評論集ではあるが、乱歩の (小説執筆の外での) 活躍の記録ともいえる。

戦前・戦中・戦後と、海外小説の入手が困難な時期に、乱歩は驚くほどの原書を手に入れて読みこなしている。そして戦後、小説や評論、果ては雑誌に至るまでを積極的に紹介する。後に多くが翻訳され、後進の作家に甚大な影響を与えた。この一事を考えるだけでも、乱歩の大きさが伺い知れる。

乱歩と本格探偵小説

乱歩の探偵小説論は、大きく 2つの主題を持つ。1つは文学論、1つは本格論である。

文学論については木々高太郎との論争 (探偵小説は文学たり得るかどうか) が有名だが、その様子は本書でも知ることができる (「二つの比較論」「英米探偵小説評論界の現状」「探偵小説純文学論を評す」など)。

本来の探偵小説的興味を無造作に逸脱して、純文学的なものを書くというのは、作家によっては決してむずかしい事ではないが、本格にしてしかも純文学(高度な意味の)となると、これは至難の業である。尤も、私は至難というのであって全く不可能とは云い切っていない。そういうものが、若し出来たならば、探偵小説の革命であり、その時こそは私は帽子を脱ぐにやぶさかではないつもりである。(「一人の芭蕉の問題」参照)

(「探偵小説純文学論を評す」)

これが乱歩の主張であり、本書で何度も繰り返される。「探偵小説」と「純文学」が融合すれば素晴らしい作品になるだろう、是非とも目指すべきだ。この点では、乱歩も木々も意見が一致している。問題は、それが「至難の業である」というところにある。では理想に向かう現実的な手法として、まずは文学ありきとするのが木々であり、まずは探偵小説であるべきとするのが乱歩である。そして、上の文章にもある「本格」が問題として浮上する。

探偵小説において特に期待されるのが「本格探偵小説」 (論によっては「純探偵小説」) である。これは具体的に、エラリー・クイーンを頂点とするような「謎と論理」の探偵小説を指す。乱歩の有名な定義を引用しておこう。

探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする文学である。

(「探偵小説の定義と類別」)

定義の中に「文学」の 2字が認められて興味深い。ともかく、乱歩にとって理想の (つまり「本格」) 探偵小説とはこのようなものであった。しかし同時に、日本の探偵小説に「本格」がほとんど見当たらないのが不満でもあった。戦前の探偵小説がいわゆる「変格」に偏ったのは、乱歩自身にも責があった。彼が執筆した本格らしき作品は、初期の幾つかの短編 (『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』『心理事件』など) だけであり、大衆に受けたのは、いわゆるエログロものが多かった (加えて乱歩は、本格探偵小説の真骨頂は長編にあるとも述べている)。

日本の探偵小説の潮流が英米とは遠くかけ離れていることを憂慮した乱歩は、各種評論で積極的に海外の名作を詳解する。国内の作家に刺激を与えようとしたのである (一方で、日本の探偵小説の方が文学的に優れているものが多いと指摘してもいる)。戦後の乱歩は、評者、論者、紹介者、オーガナイザーに徹した。評論執筆以外にも、探偵作家クラブ (後の推理作家協会) を組織するなど、極めて重要な功績を残す。

乱歩の影響

乱歩は生涯、彼が理想とした本格探偵小説を自らの手で書くことができなかった。しかし戦後、横溝正史『本陣殺人事件』、高木彬光『刺青殺人事件』、坂口安吾『不連続殺人事件』などが相次いで発表され、日本に本格探偵小説が根付いていく。また、乱歩と木々が望んだ「一人の芭蕉」は松本清張という形で後に出現する。現在でも、島田荘司など、乱歩を敬愛し、その意志を受け継ぐ作家は多い。まさしく乱歩は、日本のエドガー・アラン・ポーであった。

ところで、乱歩がポーを評した「探偵作家としてのエドガー・ポー」という評論も本書に収録されている。絶品である。本書に興味のある方は、まずはこれを立ち読みしてみたらいかがか。

2007/02/04/Sun.

高橋健次・訳。原題は "Catching Cold"。「風邪をひく」と「風邪 (インフルエンザの正体) を捕まえる」の double meaning かと思われる。

邦題は安っぽいが、中身は硬派なノンフィクションである。いい加減、こういった真面目な本に、下品で扇情的なタイトルをつけるのは止めにしないか。読者をバカにしているとしか思えない。

香港の鳥インフルエンザ・ウイルス

インフルエンザは歴としたウイルス性の感染症であり、感染力が弱い年でさえ、世界中で 1億人が感染する。この数字は WHO のサーベイに基づく数値であり、彼らの監視が及んでいない地域で、どれほどの患者が発生しているかはわからない。インフルエンザの症状は比較的短期間で治まることが多いが、高熱が発生し、体力の衰弱が激しいため、高齢者や幼児ではしばしば肺炎その他を併発し、ときに死に至る。感染力は非常に強く、患者がちょっと人混みの激しい場所に行けば、爆発的に蔓延する。にも関わらず、我々はインフルエンザを単なる風邪のようにしか認識していない。

インフルエンザは恐ろしい。少なくとも潜在的な危険性はエイズに優るとも劣らない。そのことをまず著者は力説する。インフルエンザの恐ろしさは、1997年の香港における、鳥インフルエンザ・ウイルスによって少しは一般にも知られるようになった。第1章では、香港の危機を未然に防いだインフルエンザ関係の科学者、免疫官、技術者、行政官の奮闘が描かれる。

香港のインフルエンザが問題になったのは、H5N1型の鳥インフルエンザ・ウイルスがヒトにも感染したからである。H はヘマグルチニン (hemagglutinin)、N はノイラミニダーゼ (neuraminidase) というウイルス・タンパク質のことであり、数字はサブタイプの番号である。これまでヒトに感染するインフルエンザ・ウイルスは H1, H2, H3型に限られてきた。したがって従来のキットで香港ウイルスの検出を試みても出てこない。これは何なのだと大騒ぎになったところで、このウイルスが H5型であることが判明する。香港あるいは中国の農村部では、ヒト、ブタ、トリといったインフルエンザ・ウイルスの宿主が密接に関わり合った生態系が構築されている。ウイルスは恐らく、この環境で遺伝子が組み換えを起こしたと考えられる。H5型ウイルスがパニックを引き起こしたのは、このウイルスが鶏卵の胚を殺してしまうからである。インフルエンザ・ワクチンは、鶏卵を宿主として培養したインフルエンザ・ウイルスを不活化して作られる。つまり、胚を殺してしまう H5型ウイルスの抗体を作成することは不可能なのだ。そのような状況で、患者は一人また一人と増えていく。死者も出る。

幸い、香港は近代的な都市であり、隔離も容易な地理的条件にあった。事態を重く見た行政によって中国との国境が封鎖され、香港中の家禽は残らず殺処分された。患者は素早く病院に収容され、間もなくインフルエンザは収束した。

スペイン風邪

香港の鳥インフルエンザが中国本土で起こったらと思うとゾッとする。ところで、史上最悪のインフルエンザは、第1次世界大戦中に猛威を振るった 1918年のスペイン風邪である。タイトルにある「4000万人を殺した戦慄のインフルエンザ」がこれである。感染力・殺傷力ともに強力な最強のウイルスだった。第2章以降では、当時の記録を丹念に辿りつつ、このインフルエンザの脅威が活写される。

当時、科学・医学界ではようやくウイルスという概念が広まり始めたばかりで、誰もウイルスを分離したことはなかった。インフルエンザ・ウイルスが分離・培養されるのは 1930年になってからである。インフルエンザ・ウイルスは変異速度が早く、毎年違った流行が生まれる。大流行するときもあれば、穏やかなときもあり、症状が軽いときもあれば、死に至るときもある。これらの違いは、全てウイルス遺伝子の変異による。

分子生物学が台頭し、インフルエンザ・ウイルスの研究は飛躍的に進んだが、いまだにどの遺伝子のどの部分がヒトへの感染力を実現しているかはわかっていない。1918年に世界中で大流行したスペイン風邪インフルエンザ・ウイルスの現物を調べ、このウイルスがどのような塩基配列を持っていたかがわかれば、ウイルスの形質の研究は飛躍的に進むだろう。インフルエンザに関わる科学者の誰もが、このウイルスの現物を欲しがっていた。もちろん、80年以上も前のウイルスが現存しているわけがない。叶わぬ夢である。と思われていた。

1918年のウイルスを求めて

1918年のインフルエンザで死亡し、永久凍土に埋葬された遺体の中には、まだ当時のインフルエンザ・ウイルスが、あるいはウイルスの遺伝子だけでも残っているのではないか (インフルエンザ・ウイルスは RNA ウイルスであり、DNA より条件がシビアである)。そんなことを考えたグループが幾つかあった。彼らは当時の記録を精査し、ウイルスが生き残れそうな幾つかの土地に死者が埋葬されたことを突き止めた。

多数の科学者が活躍する。ここからが非常に面白い。政府や製薬会社への研究費の申請、功名心にはやる研究者グループとマスメディアの対立、論文競争、実際にウイルスの存在を証明するための技術開発。などなど。純粋な学問的欲求とドロドロの人間関係がここでは並立する。同業者の方には特に興味深いのではないかと思う。

創薬、ワクチン、予防

後半では、インフルエンザに対する創薬の取り組みも紹介される。数年前に話題になったタミフルという薬では、ノイラミニダーゼの活性中心を阻害する物質が薬効を実現する。インフルエンザ・ウイルスのゲノム解読、ウイルス・タンパク質の結晶構造解析の結果から、タミフルのような薬が開発できるようになってきた。

また、ワクチンの改良、疫学的な予防、基礎的な研究も引き続き行われている。一方で、インフルエンザが持つ潜在的な脅威と、一般人の認識はかけ離れている。HIV ばかりに金が回り、インフルエンザ・ウイルスの研究支援は長らく低下していた、というウイルス学界の現状も報告されている。エイズは確かに恐ろしい感染症だが、インフルエンザと比べて感染力が弱く、充分に注意していれば防ぐことができる。インフルエンザの真骨頂はその感染力にある。数カ月で 10億人を感染させ、そのウイルスが殺傷力を持ち合わせていれば、短期間で膨大な数の死者を出すことが可能である。インフルエンザ・ウイルスの変異速度は速い。来年にもこのようなウイルスが蔓延する可能性はある。

インフルエンザに関する現状報告、啓蒙書としても優れた 1冊。

2007/02/03/Sat.

副題に「唯幻論で読み解く政治・社会・性」とある。

著者の主張は以前からよく知られている。いわく、人間は本能が壊れた生物である。したがって、世界に適応するための様々な幻想を作らずには得られなかった。共通の幻想を通じて形成された集団が社会であり文化である。自己を形成するための幻想が自我である。世界と交流する自我が外的自己であり、断片化された本能を統御・抑制・実行するのが内的自己である。外的自己と内的自己はしばしば分裂する。人間が大抵において精神を病んでいるのはこれゆえである。自我は過去の自我と連続していることによって成立する。これが「時間」の認識の発生である。自我のない動物には時間認識はない。自我の集団である社会や文化にも精神分析の手法が通用する。などなど。

本書は、様々な媒体に発表された短文を集めたものである。したがって分析の対象も多岐に渡る。特に面白いのがアメリカ合衆国に対する分析である。個人の精神分析においてその個人史が重要なように、社会・文化・国家を分析するには歴史を繙くしかない。日本から見て「アメリカ、ちょっとおかしくないか」と無意識に思っていることが、本書では明確に言語化されている。手法上、分析は多分に主観的であるが、そういう解釈もできるのかと面白い。

分析のメスは日本にも入れられる。太平洋戦争、戦後の官僚組織、戦後民主主義、教育問題について大変辛口に批判している。いたずらに攻撃しているわけではなく、特に歴史認識についてはイタいところをエグり出してくるので、1人の日本人としてまことに辛い部分もある。個人がトラウマを抱えているように、国家もまた (日本だけではなく) トラウマを抱えていることがよくわかる。トラウマを克服するには、まずそれを直視せねばならぬ。

他には、ペルーのフジモリ元大統領を弁護した文章が興味深かった。岸田はフジモリを (反論についても考慮しながら) 徹底的に弁護している。彼らは留学先で個人的な交流があり、それがずっと続いているらしい。フジモリ元大統領については日本でよく報道されるが、一般には知られない情報も多々あることを本書で知った。

気軽な話題も多い。現代の若者の性意識に眉をひそめる一方で、著者が若かりし頃の性体験があっけらかんと開陳されていたりして共感が持てる。「白人 (アルビノ) は黒人を祖とする原始人類社会で被差別者であった」「ユダヤ教 (一神教) は被差別者の宗教で、キリスト教はさらにその中の被差別者の宗教だった」など、驚くべき妄想的 (これは著者自身が言っている) 仮説もある。非常に面白い。

人類皆、キの字であることがよくわかる 1冊。