- 『司馬遼太郎全講演 [3] 1985-1988 (I)』司馬遼太郎

2006/12/14/Thu.『司馬遼太郎全講演 [3] 1985-1988 (I)』司馬遼太郎

司馬遼太郎講演集第3巻。1985年から 1988年までの講演が収められている。

この巻に限った話ではないが、司馬はたびたび「文明と文化」について語っている。文明とは普遍的であり、簡単なルールさえ守れば誰でも参加できる枠組みである。例えば、スキタイの興した遊牧という大文明がある。それは衣食住を動物からまかない、動物と暮らすことに適応させた 1セットのシステムとして成立した。この文明が、シルクロードの遥か北を、東へ東へと広まっていく。それが日本列島にも渡ってきたかもしれない、というのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」であるが、ともかく、そのような地球規模で拡がりを見せるのが「文明」である。

もう 1つ、司馬が繰り返し唱えるのが、「文明とは人間の飼いならしシステムである」という主張だ。人間はどうも野蛮であり、放っておくとダメだ、という前提がある。そこである程度以上の統一勢力は、人間を飼いならすシステムを導入する。それは大抵の場合、宗教という形をとる。ヨーロッパを覆い尽くしたキリスト教、漂流の民を根底で統御するユダヤ教、文明華やかりし頃のインドで成立したヒンズー教 (バラモン教)、諸子百家という自然淘汰を経て最終的に勝ち残った中国の儒教、などなど。大文明の地は、同時に大宗教発祥の地でもある。仏教はどうかというと、インドで成立し中国に渡ったが、これら大文明の土地では根付かなかった。現在の仏教国を見てみると、日本、チベット、タイ、ベトナム、ミャンマーなど、中華の周辺、すなわち夷の国に強く広まっている。どうも仏教は辺縁の思想であるらしい。仏教の、宗教としての大衆性の希薄さとも関係があるやもしれぬ。

ともかく、そのような議論が何度も行われる。のだが、司馬が説明してくれない 1つの疑問がある。遊牧という文明のが「人間を飼いならす」ために採用したものは何か。遊牧民には特定の宗教がなく、宗教心も薄いという事実がある (この事実は司馬もよく語る)。したがって、そのシステムは宗教ではない。また、万里の長城が端的に示す通り、遊牧民はたびたび農耕民族から略奪する。中国だけではなく、ロシアでもヨーロッパでも略奪する。遊牧民は 1つの土地に落ち着いて支配するということがない。略奪のための略奪である。ちょっと「人間として飼いならされている」ようには思えない。ならば、遊牧は文明ではない、ということになる。私は別に文明論を展開しているわけではない。司馬の定義にいささかの瑕瑾があることを指摘している。

もっとも、司馬は元来、中国周辺の民族に興味が深く、「遊牧は大文明」という修辞は彼の愛着から出た若干の誇張が入っているともいえる。別に非難する気はない。そういう隙を垣間見れるのが、講演の良さでもあろう。