司馬遼太郎講演集第1巻。1964年から 1974年までの講演が収められている。
講演を起こした文章であるため、話し言葉で書かれてある (当たり前だが)。話題は多岐に渡るが、この頃執筆された作品の関係上、吉田松陰や河合継之助の話が多い。世相的なことでは、毛沢東の中国についてよく述べられている。
人生について述べた部分で、私が感銘を受けた言葉を引用しておく。
日常をきっちりやるということは、例えば十年なら十年、きっちり積み重ねていくと、日常というのはトゥルーとファクトに分ければ、トゥルーのほうじゃなくてファクトのほうに入りますね。ファクトの連続であって、ファクトというのは足し算であって、百年ファクトを重ねても何事も出ないかもわかりませんが、しかしながら、ファクトを重ねることによって、トゥルーが一滴ほど十年先に出るかもわからない。
(「薩摩人の日露戦争」)
10年だとか具体的な数字はさておき、これはサイエンスも同じだなあ、と思う。
西郷隆盛は、江戸時代 300年の醸成によって滴り落ちた、日本史上稀に見る 1滴だと司馬は言う。私が私を律するのは私だけのためではない。私の先には「一滴」がついに滴り落ちないかもしれないが、そのような「私」の集団が、ある時期のある国を形成する。そのような歴史時間の中に自分を認識する。これを日本的に表現すれば「恥」の感覚となろうか。この意識がある人間のたたずまいは必ず美しい。歴史を俯瞰する意義の一つがここにある。
まァ、こんなことを考えてもすぐに忘れてしまうんだけれど。忘れないために、歴史の本を読むのかもしれない。