- Book Review 2006/11

2006/11/27/Mon.

土屋教授のエッセイ集。というか、この人のエッセイ以外の文章を読んだことがない。

『ツチヤ学部長の弁明』のときにも書いたが、やはり同じネタ (女性、食べ物、自虐) ばかりなのである。読んでる私も私だが、こういう繰り返しは、実は書いている方が飽きてくるものだ。それを変わらぬテンションで延々と書き続けるあたり、やはり只者ではない。皮肉ではなく頭が下がる。あるいはこれを「老人力」というのかもしれない。

2006/11/25/Sat.

チープなタイトルである。中身も柔らかい。

科学はふつうに考えられているよりも曖昧な世界であり、「ネーチャー」や「サイエンス」などの権威ある学術誌に発表された学説が、1年もたたないうちに撤回されたり追試で否定されることも多い。逆に、ある学術誌に却下された論文が別の学術誌に掲載され、結果的に重要な進歩につながることもある。

つまり、今日の正統説 (通説) は明日の異端説であり、今日の異端説は明日の正統説かもしれないのだ。科学は白黒ハッキリつく単純な世界ではなく、かなり複雑で曖昧で、さまざまな可能性を秘めたグレー・ゾーンの世界なのである。

(「竹内薫の『異端論』」)

ということで、色々な学説を「正統派」「アウトサイダー」とラベルして紹介している。各々の学説には「キレてる度」「将来性」が最高四つ星で評価してある。ちょっと頭の悪い構成だが、誰がどんなことを言っているかを雑学程度に知るのには良いだろう。竹内薫の担当する「パート 1」では、重力から大陸移動説、哲学、小林秀雄まで幅広いジャンルの学説が紹介されている。

茂木健一郎の担当する「パート 2」では、脳科学の学説が採り上げられている。こちらは面白い。ペンローズ、エックルス、ペンフィールド、クリックなどの大物が、ああでもない、こうでもないと、心脳問題に対して様々な学説を提言しているのがよくわかる。どういう考え方があるのか、それを知るだけでもタメになる。各人の主著についても言及があるので、いずれ目ぼしいものは読んでみようと思う。

2006/11/19/Sun.

副題は「アジアの中の日本」。対談・鼎談相手は、

で、国際色豊かなのが特徴。特に陳舜臣との対談・鼎談は読み応えがある。

2006/11/16/Thu.

「結局、私は私の頭蓋骨という狭い空間に閉じこめられた存在にすぎないのだ」

この主題を基調に、臨死体験や宗教などについて書かれた、随筆のような文章を収録したエッセイ集。茂木健一郎自身の体験や想い出を綴った文章も多い。一風変わった味わいがある。

脳内現象を理解するには、まずは自分の脳が展開する世界を「感じる」ことが出発点になる、というスタンスは面白い。言われてみれば確かにそうなんだが、「自分」というものは普段、脳の中にずっぷりと浸っているから、実際にはなかなかそういうわけにはいかない。本書のエッセイが持つ魅力は、そういうメタな視点のあり方にもあると思う。

2006/11/15/Wed.

島田荘司御大による吉敷竹史もの。中編集である。収録作品は以下の 3編。

『光る鶴』

島田御大が力を入れている秋吉事件を題材にした作品。冤罪の確定死刑囚・昭島の再審請求を実現するため、吉敷が 26年前のアリバイ証明に挑む。

事件当日、後に昭島の養子となる赤子が、駅内の線路と線路の間に放置されていた。それを見付けた昭島は交番に連絡する。彼が赤子を発見できたのは、赤子の胸元に大きな銀色の折り鶴が光っていたからだった。逆にいえば、「鶴が光っていたとき」、彼はそこにいたことになる。

吉敷が推理で再現する当時の光景が美しい作品。回想による情景描写の素晴らしさは、まさに御大ならでは。

『吉敷竹史、十八歳の肖像』

吉敷が 18歳のときの事件。大学に入学した吉敷だが、当時は学園紛争が吹き荒れており、思想にかぶれていなかった田舎出の彼には、話の合う友人がいなかった。唯一、桧枝という学生とは会話が成立した。桧枝は学生運動に関わっていたが、吉敷と話すくらいでもあり、セクト内でも浮いた存在だった。

その桧枝が何物かに殺される。内ゲバによるものかと思われたが、警察の捜査も虚しく、事件の解明はなかなか進まない。桧枝にとっても、吉敷は数少ない友人だったようで、吉敷は何度となく警察から事情を訊かれる。警察に対する様々な疑問もあり、吉敷は独自に事件の究明を始める。

若い吉敷の葛藤や当時の身辺事情、そして、なぜ彼が警察官になったのかが語られる。吉敷ファン必読の作品。

『電車最中』

『灰の迷宮』で吉敷と共演した留井十兵衛の事件。彼の管轄内で、白昼の銃殺事件が起こる。早い段階で容疑者と思しき人物も浮かび上がり、簡単な事件かと思われたが、逮捕するまでの確証がなかなか出てこない。容疑者を特定する決め手になるのは、現場に残された最中 (もなか)。この最中は、一体どこに売られているのか。

『展望塔の殺人』などの中編に見られる、やや軽めの文体でテンポ良く書かれた作品。留井刑事の想い出や、吉敷との再開など、読みどころも多い。

2006/11/14/Tue.

舞台はアメリカ、大統領選挙の最中である。大統領候補であるセクストン上院議員の娘・レイチェルは、父と折り合いが悪い。しかも仕事は、現職大統領、つまり父の敵陣営が読むための情報局レポートを要約すること。彼女は国家偵察局 (NRO) 局員なのだ。微妙な立場である。

セクストン議員は、選挙戦術として、現職大統領による NASA の支援を弾劾していた。NASA は、その豊富な資金 (= 税金) の割にはほとんど成果がなく、むしろ失態ばかりである、というのがその主張だ。そんなとき、NASA が地球外生命体の存在を証明する証拠を発見した、という極秘情報が入る。大統領に説得され、レイチェルは NASA の極秘プロジェクトに参加する。だが、その裏には陰謀があった。それに気付き始めたレイチェルと外部の科学者は、何者とも知れない黒幕から襲撃を受ける。果たして、NASA の証拠は本物なのか。陰謀を画策しているのは誰か。大統領側か、対立陣営側か。

短い断章で多数の登場人物が目まぐるしく動く、というダン・ブラウンの手法には段々と慣れてきた。本作でも、作中で流れる時間は驚くほど短い。今回は印象的な脇役が多かった。NASA、地球外生命体という、リアリティが危なっかしい題材を取り上げているが、人物が生き生きとしているので、大して気にならない。ただ、やはりあまりにもハリウッド的な展開に過ぎるので、後半からはほとんど筋が読めてしまう。

そこがもったいない、小説としては。

2006/11/13/Mon.

筒井康隆のジュブナイル。帯には「『時をかける少女』を超えた」とあるが、どちらかといえば『私のグランパ』に雰囲気は近い。

「愛」とはヒロインの少女の名前である。舞台は近未来と思しき日本。本書が刊行されたのは 2002年だが、その頃から現在の格差社会を予見していたようで、庶民の二極化、崩壊した学校、社会のモラル・ハザード、治安の悪化などが描かれている。12歳の愛は、数年前に父親に捨てられ、学校ではいじめられながらも、母と 2人で小料理屋を営む生活を送っていた。その母が亡くなるところから物語は始まる。

母が貯めていた金を親戚に取り上げられた愛は、学校でいじめられ、店で酷使される生活から脱出するべく、父を探す旅に出る。このあたり、じめじめとした雰囲気ではなく、愛の信念の強さと、密かな支援者である同級生のサトルの描写もあり、読者は愛を応援したくなる。愛はひたすら東へ東へと歩いて父を探しに行く。愛は左腕が不自由なのだが、彼女をかばうように、必ず支援者が左側に寄り添って旅が続く。

旅はトラブルの連続である。暴走族や自警団に襲われたり、有り金を盗まれたり、厄介事に巻き込まれたりする。そのために支援者が脱落することもある。しかしその都度、新たな支援者が現れて愛の左側に寄り添う。

東京に出た愛は、親切な支援者達と、何よりも彼女の外見と内面の美しさによって、幸せな生活を送り始める。その間も失踪した父の捜索は続いている。やがて、父が故郷に戻ったという情報が入る。愛は再び、来た道を戻って故郷に戻る決心をする。帰途、心身ともに成長した愛は、復帰した支援者とともに、かつての加害者達をこらしめる。この報復のあたりがまさに筒井作品というべきであって、ここで読者は快哉を叫ぶであろう。一度脱落した支援者達の救済にも感動させられる。

最後に愛は父親と出会うわけであるが、ここで成長した愛が彼に何を言うのかは、実際に読んでほしい。ジュブナイルとは銘打ってあるが、純粋に「ストレートな小説」なのだという感じがする。複雑になり過ぎた最近の小説を読んでいると、このような物語に胸のすく思いがする。

2006/11/12/Sun.

「入門」と銘打ってあるが、議論はかなり難しいので腰を据える必要があろう。論旨と文章は明晰なので、じっくりと読めば理解はできる。副題は「心が脳を感じるとき」。

「クオリア」(qualia) とは、我々が感じる「赤の赤い感じ」といった、数字や式では表せない (表すのが難しい) が、しかし生々しい現実感を伴って実在する質感のことである。脳はコンピュータである、というアナロジーはある意味では正しいが、我々の実感としては、脳の働きにおける大部分はまさにクオリアとしてある。

マッハの原理

茂木健一郎のスタンスは、

  1. 外界にどのような事物があっても、私の脳の中のニューロンがそれに対して発火しなければ、私の心にはその事物の認識は生じない。
  2. たとえ外界に事物が存在しなかったとしても、私の脳の中のニューロンがあるパターンで発火すれば、そのような事物が見えてしまう。

ということで一貫している。当たり前じゃないか、というとそうでもない。神経生理を極めたような人が、「意識 (精神、心) の働きは脳だけでは説明ができない」という意見を表明することは、実は珍しいことではない。ニューロンで全てが説明できるかどうかは、まだ誰にもわからない。だが少なくとも茂木は、ニューロン (群) の発火に心の基盤があるという仮説の下に、本書での議論を展開している。彼は、その基礎となる原理を、相対性理論におけるマッハの原理から文面を借用してきて、以下のように言う。

認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ心理的瞬間に発火している他の全てのニューロンの発火との関係によって、またそれのみによって決定される。単独で存在するニューロンの発火には意味がない。

後からわかってくるのだが、これはよく練られた文章である。なぜ「瞬間」と書かずに「心理的瞬間」と書くのか。そういう細かいところまで神経が行き届いているので、読み飛ばすことができない。とにかく、上の「認識におけるマッハの原理」が本書を貫く理論的支柱となる。

クオリア

マッハの原理に基づくと、クオリアとは、ただただニューロン (群) の発火によって「重生起」される物理的状態である、といえる。

心の属性は、何らかの意味で、ニューロンの活動の物理的属性に依存、ないしその上に「重生起」される。このモデルの下では、ニューロンの活動の物理的状態が同じなのに、心の状態が異なるということはあり得ない。また、心の状態が変化する場合には、必ずニューロンの活動の物理的状態も変化しなければならない。

文字で読めば当然のようにしか思えないが、こういうステップを一つ一つ押さえて思考を進めるのは結構難しい。特に心脳問題においては、至るところで論理のギャップや飛躍があり、茂木はそれらを注意深く排除する。上の文章においても、「重生起」という耳慣れないキーワードがピックアップされているが、もちろん理由がある。ここで詳しくは書かないが、一つ、「『薔薇の花』を見て、私の心の中に『薔薇の花』の表象が生じるまでのプロセス」を 2つにわけた部分を紹介する。

第一段階
網膜から「薔薇の花」の光学的刺激が入力し、その結果、「薔薇の花」に反応選択性を持つニューロン (群) の発火パターンが生じる段階。

第二段階
「薔薇の花」に反応選択性を持つニューロン (群) の発火パターンが生じた結果、その随伴現象として、私の心の中に「薔薇の花」の表象が現れる段階。

これまでの大脳生理学が見てきたのは、第一段階であったことがよくわかるだろう。クオリアを感じるのは第二段階である。そしてマッハの原理からすれば、第一段階と第二段階は別のステップであり、それらを一緒に議論するのは誤り、少なくとも論理の飛躍だといえる。例えば、我々は実際の薔薇の花を見ずとも、「薔薇の花」を思い浮かべることができる。これは第二段階だけが脳内で生じているわけであり、刺激に対する反応と、それによって生起されるクオリアが別の機構であることがわかる。

ポインタ

クオリアと並んで、本書で重要になる概念が「ポインタ」である。集合写真を見るときのことを考えよう。視覚刺激としては、その写真に写っている何十人もの人間の顔が「クオリア」として脳内で生起されている (はずである)。しかし、我々はそれらのクオリアの中から、たった一つの「顔」に注意を向け、それが誰であるかを認識する。この、クオリアに対して志向性を持つ脳の働きがポインタである。

刺激に対してニューロン (群) が発火する。それによってクオリアが発生する (というか、クラスターの発火それ自体がクオリアなのだが)。クオリア自体は言葉にできない質感であり、具体的だが意識的ではない。そこにポインタという志向性のある働きが向かったとき、クオリアはラベリングされて認識の俎上に上る。

有名な「若い女にも、老婆の顔にも見える絵」があるでしょう。あの絵がもたらす視覚刺激は、刺激としては同じ 1種類である。したがって、「画像」としてのクオリアもまた 1つである。それが若い女に見えたり老婆に見えたりするのは、「若い女である」というポインタ、「老婆である」というポインタが働いているからである。

例えば林檎を見て触る。「赤いクオリア」「甘い匂いのクオリア」「つるつるとしたクオリア」が現れる。これらを統合して「林檎である」という認識をもたらすのもポインタの機能である。「林檎である」というクオリアはない。感覚器のレベルで「林檎である」という刺激は存在しないからだ。

という具合で、ポインタとはある程度の抽象認識の機構であるともいえる。哲学で、「我々は全ての犬を、どうやって『犬』という 1つの概念で認識できるのか」という問題があるけれども、それがポインタの働きであるといえる。また、ラベルをつけるという機能は、極めて言語に直結した働きでもある。

ポインタの生物学的機構はよくわからないが、クオリアとポインタが交差 (むしろ衝突か) するところに認識が発生するというのが、大まかな議論である。

その他

他にも面白い話がたくさんあるのだが、とても紹介しきれない。また、この書評は非常に端折って書いている。実際の議論はもっと緻密である。実験事例も多いので、仮説にも説得力がある。脳科学に対する認識を改められた 1冊。

2006/11/04/Sat.

脳科学の入門書。「ニューロンとは」というところから始まるくらいのレベルなので、生物学を学んだ (学んでいる) 人には特に得るところがないだろう。ところどころに挿入されるエピソードで面白いものもあったが、その程度か。大部分は竹内薫の筆によるもので、最後に、クオリアについて茂木健一郎が一章を書いている。

養老孟司『唯脳論』よりはよほど易しい。入門書としては優れていると思う。

2006/11/03/Fri.

宇宙飛行士達は、その宇宙体験で何を感じ、体験したのか。その内面に迫った立花隆のインタビュー。

宇宙飛行士は基本的に軍人であり科学者であり技術者であった。彼らは、宇宙で自らが感じたこと、またそれによって生じた内面の変化などを上手く表現しようとはしなかったし、NASA のスタッフも彼らにそんなことを求めなかった。だが、インタビューを通じて浮かび上がってくるのは、驚くほど似通った精神の変化の軌跡である。インタビュアーとしての立花隆の実力が発揮された 1冊といえよう。

「宇宙体験による変化などなかった」と述べる飛行士も少数はいる。しかし大部分の飛行士たちは、虚空に浮かぶ地球を見たとき、その神秘さによって「回心」といっても良いほどの宗教観の変化を受ける。自分が「悟った」宇宙規模的な律を伝道するために残りの人生を捧げている人間もいる。

宇宙という極限状態における彼らの体験は、我々の日常生活からは推し量ることが難しい。そこが何とも歯痒い。だが、彼らの体験後の変化に共通性がある限り、我々にもそのような精神が内在されている可能性は高い。地球にいながらにして、そのような劇的な宇宙体験をしたのが、例えば「月の中に金星が飛び込んできた」空海ではないか、という仮説を、後に立花隆は司馬遼太郎との対談で語っている。

死ぬまでに宇宙に行けたら行ってみたいものである。